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リテラシーと理解について考える

「誰か」の為に発言する

(この文は「不毛」http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20110514/1305301536とも一部重なる内容です)
    
 意見や主張を行う動機として自分の為ではなく他の「誰か」を守るためだとか「誰か」の代弁をしているつもりとか名誉のためだとかで「論陣を張る」事や「抗議を行う」のは珍しいことではありません。直接の当事者という訳でもなく「誰か」の何らかの主張や創作物に対する形の上では直接的な利害のない立場からでも発言は行われます。
 自分自身とは関係が薄くても何らかの社会的な意味合いの持つ事についての発言を行う場合はそれが一般的な動機としても何もおかしくはないはずです。何らかの公共性が有ると考えられる事柄についての論評は不当ではありません。
              
 とはいえこの構造を持つ言論には弱点があります。
      
 発言している本人にしてみればこの意見は自分自身の為にしているわけではなく誰かのためにしているのですから自分が「論破」されたり間違いを指摘されたとしても「自分の都合」で簡単に意見を取り下げたり間違いを認める訳にはいかない場合も出て来ます。
 自分の敗北や間違いが「誰か」の敗北や間違いにもなるとも考えるられる為に意見や主張を取り下げたり修正をする事が出来難くくなり、無理のある意見や主張であっても押し通さざるを得なくなります。
        
 最後には無理な詭弁や中傷・罵倒といった手段を用いても負けるわけにはいかなくなり「相手を黙らせる」事自体が目的になり「負けない」為の「闘い」にさえなります。
 まともな交渉や妥協でさえ「誰か」を裏切ることにもなりますし「相手」の意見を受け入れることが自分自身の役割を否定することになり「対話」すら自分からはじめる訳にはいきません。「誰か」を傷つける事にもなり得ますから公正な議論として成立する事が目的ではなくなります。
          
 逆に主張の内容に責任を持たずに議論も出来、乱暴な根拠での主張も容易に出来てしまいます。
 立証責任を免れ得ると考えたり、「誰か」の責任として押し付け、自身の発言を中立と認識し議論の枠組みの外から述べているつもりにもなれます。
    
 「誰か」の側にしても立場は難しい事になります。
 自分の為に主張している人の矛盾や間違いを指摘する訳にもいかず、交渉や妥協を認めるのは信義に反すると考えられ、「味方」の「気持ち」にも応えざるを得なくなります。
 問題が完全には解決しない場合やこの先も「味方」の協力や保護や支持が必要な場合は「味方」の意図を否定する訳にはいきません。
 無理があっても余程の場合を除けば沈黙を守らざるをえない事もあります。
 一部でも自分の側に非があるとしてもそれまでの経緯からそれを認めるのは容易で無くなる場合があります。
    
 引っ込みがつかなくなりやすく、意見や主張の責任が曖昧になり論点が分散しやすくなり結局、「自分達の正しさ」そのものが主張になり、何時の間にか「立場」についての正当性を争う形の「論争」にもなります。
       
 もう一つの問題としては意見や主張の混同とエスカレーションです。
          
 「誰か」の為に発言する場合には何らかの理由があります。それは正義感や同情といったものだけでもなく「誰か」に対する何らかの思い入れや自己の投影といったものでもあるでしょう。「正義の側に立ちたい」とする意思は不当な物ではありません。
 それに何らかの利害があったとしてもその事自体は不当な動機ではありません。社会的な存在である現代の市民は「公共」の一部であるのですから基本的に社会的な事柄についてはそれに見合う当事者性を持ちます。
 余程個人的な事柄を除いては基本的に発言を行うことは認められます。相手の発言等が公的な空間で行われた場合には論評を行う事は認められますし、それが社会的な意味合いを持つ場合には適切と考えられる意見の表明は認められなければならないでしょう。
      
 しかし「誰か」の立場からの発言はそれ程容易ではありません。「味方」だからといって「誰か」の立場を完全に理解しているわけでもなくその発言が「誰か」の本意であるかはわかりませんし、「誰か」自身も現実には自分の意図や状況を正確に理解しているわけでもありません。
      
 「味方」が代理として発言する場合には自分自身の意図や主張が混同する場合もあり、「誰か」の意図を都合良く読み取る可能性は否定できません。基本的には「誰か」の味方をする場合には何らかの感情移入や自己投影、主張の同一視が行われていると見るべきでしょう。
 実際には「味方」自身によって解釈された「誰かの主張」を述べる場合にはすでに「味方」自身の意見や主張として再解釈された別の意見になっている場合があります。「味方」の動機に基づいた「味方自身」の主張になります。
 「誰か」の主張と自分の主張の入り交じった物が混同されたままで主張される事も多くあります。
     
 「誰か」自身は上にも書いたとおり「味方」の意図は否定する訳にもいかず場合によっては本来の意図に反しても「味方」の意図を受け入れざるをえない場合もあるでしょう。
 「味方」の方も寧ろ「誰か」の意図を先取りする形で主張を加える場合事も多く、相互が自分が言い難い事を代弁する形にもなり易く、責任を曖昧にした形で主張が先鋭化する事があります。
 無理のある意見や本来関係の無い主張までも取り込んでしまうこともあり、相互に相手に依存しているために歯止めがきかなくなる可能性も考えられます。
    
 そのほかにも「味方」が「誰か」に感情移入が強く、自分自身を強く投影している場合には、都合の良くない言動を行う相手の存在自体が「味方」自身の存在や思考・感情を否定していると感じ、それ自体が許せなくなる事もあります。
       
 所謂「ファン心理」の強いものとして信奉者に見られる形式です。
 実際にはそれ程否定的でもない意見や、特定の部分やある側面での批判や場合によっては完全な間違いに対する指摘についてさえその発言自体が許せなくなり、内容そのものよりもそう感じる認識や思考そのものに対する不快感や嫌悪感で合理的な判断力が弱まり、反射的に怒りを顕にしてしまう様です。
 内容が妥当であるかよりも信奉する「誰か」に対する視点そのものが許せないようです。
 自分自身が批判されるよりも自分の信奉する「誰か」を批判される方が自身ではなく「誰か」を守るため(又は汚さないため)に強く怒りを感じる様です。
           
 「良いものは良い」「悪いものは悪い」「良い部分もあるが悪い部分は悪い」ではなく「悪い部分があったとしても良いものは良い」「良いのだから悪い部分は問題ではない」という思考になります。
 よく見る形式としては「もっと悪い奴がいる」「悪いのは他の奴もだ、何故そいつらを先に批判しないのか」と論点が摩り替わるか、「そんな風に言うお前はナニモノだ」「悪意のある視点が許せない」と逆上されます。
 自分自身の「気持ち」が絶対的な物ではなく、不都合な部分が示され「誰か」が相対的な「何か」でしか無いことが示されることが許せなくなるようです。
 何らかのパターンがあるようで特定の論者や主張、クリエーターや作品には其の様な信奉者が出来るようです。
 その「誰か」を信用・信奉することが「他人とは違う」自分の「正しさ」の拠り所になる構造が読み取れるのかも知れません。
 自分と「誰か」を同一視しつつ自分が負うべき責任を「誰か」に押し付けている部分が有るのでしょうか。
 自分自身が感じる不快感を「誰か」の為であるとすることで私憤から公憤にすり替える論法を可能としていると見ることも出来ます。
    
 「誰か」の為に発言しているつもりで有りながら実際には自分の為に発言をしていてその結果が「誰か」に対しても意味を持ち、それが又自分にも返って来る堂々巡りの構造を持つ言論は責任の所在が定まらず、混乱した議論になり論点が定まらないまま最後には泥仕合になり得る物のない「口論」で終わる可能性がありえます。
     
 自分の為の発言ではなく「誰か」の為に発言する場合には出来る限り自分の論点を纏め、その部分を論じ、「誰か」の為にという理由で相手の「考え方」や人格を攻撃しないことが重要です。自分の言論は自分が責任を持ち、言論に属人性を組み込む事に慎重になるべきです。
 「誰か」と距離を置けない場合は冷静に発言をするのは難しいです。
 今の日本のように弁護士が「弁護する」事が悪人の味方をすると考える人も多い社会では言論そのものを独立した形で用いる事は難しいのでしょうか。