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リテラシーと理解について考える

学者と教員

 ここ最近、個人的にはある部分で似たような問題にも見える「事件」が起きました。
     
 一つは男性の大学の教員でスポーツ部の顧問の人が未成年の女性の学生部員が泥酔するまで酒を飲むこと少なくとも容認し、その後顧問教員との間に性的な事態が起き、それが「セクハラ」として取り上げられ職を失い、最後には逮捕に至ったという話です。
 現在公判すら行われておらず、推定無罪の原則ですから「犯人」であるとは言いません。言うべきでは有りません。
       
 ですから一般論として申し上げます。
 成人と18歳以上の場合は未成年であっても基本的には同意の上での性行為は犯罪では有りません。
 特にそのスポーツ部の顧問教員は「同意であった」と主張しています。そうである場合は犯罪にはあたりません。
もし無罪の判決が出た場合、示談で解決し犯罪に問われない場合には法的には「罪」では有りません。(示談で起訴猶予の可能性が高いと思います追記:これは「学生の負担を考えると」の意味です
                   
 その場合には大学側の行った「解雇」という処分は妥当ではないとされるのでしょうか。
 学生の飲酒を黙認した位での解雇は重すぎるとの考えはありえます。合意があれば「児童」では無い学生との性的な関係は違法では有りません。
 もし「解雇の不当性」が妥当なら法治国家としてはその顧問教員が民事訴訟した場合には顧問教師の身分を回復すべきですし、その間の賃金や場合によっては何らかの賠償の発生も考えられます。
 これを誰かが「納得できないから許さない」「恥知らず」とし民事訴訟の取り下げを要求するのは不当な行為になります。
 基本的人権の侵害ですからそのような要求をする根拠は無いはずです。
                    
 では法的な処分が行われない場合には解雇は撤回されるべきなのでしょうか。
    
 先日インターネット上で不特定多数の人々を傷つける「ヘイトスピーチ」を繰り返し行い、大学側から再三の注意を受けたにもかかわらず止めなかったとして国立大学の教授の方が「訓告」という「処分」をうけました。(正確には懲戒ではなく記録には残る厳重注意)
        
 大学の教授であれ言論の自由は有ります。学問の自由を守るべき大学が名誉毀損などの訴訟を受けてもいない「言論」についての大学側が何らかの「指示」を行い、「黙らせる」様な行為を行うのは学問の自由の侵害であり、言論弾圧として看破出来ないとする考えは有ります。 
 例えば社会的な趨勢に逆らい自説を述べる学者や、社会的な問題について積極的に発言する学者がその発言を喜ばない人達からの反感を元に大学側が「黙らせる」ことは正しいのでしょうか。
 少なくとも目に見える形での学校側の損害や損失も無く、法的な権利を持つ被害者はその時点で具体的には存在しません。
    
 基本的には「言論」の範囲において学者や学生に対して「処分」を行うべきではないでしょう。
 具体的に名誉毀損業務妨害等の「危害」として認定もされていない発言に対し「黙らせる」べきではないでしょう。
        
 では国立大学の教授がいかなる「ヘイトスピーチ」行ったとしても言論による「批判」を除いては誰も何もいえないのでしょうか。
   
 この二つの話には個人的な理解としては共通点が有ります。
 二人とも「教育者」であることです。
 有る程度公的な意味合いを持つ「学校」では生徒・学生と教員は「力関係」が存在します。
 幾ら「同意が有る」といっても断りにくい状況があり、「師弟関係」においては有る程度の内心に対する影響力…つまり広義の「暴力」が容認されています。生徒・学生は教員の指示に従うべきであるとの前提を共有しているはずです。
   
 仕事の上下関係や社会的な役割でも指揮系統や力関係が存在しますが「教育」は「教育者」が「社会全体」から内心に対し「力」「影響力」を行使することが限定的に認められた幾らか大袈裟ですが「暴力装置」でも有ります。
 勿論、大学になるといくらかは役割が下がるのでしょうが教員はそれでも基本的に敬意を持って意見を受け入れるべきだとの社会的な合意が有ります。情報を伝達するのだけが公教育の教員の役割では有りません。
 それを前提にすると教員は情報伝達サービスであって挨拶をする必要も無く敬語を用いる必要も有りません。
 いかなる敬意を持つ必要も無く「客」としてサービスを要求すればよいことになります。
 勉強が出来ない場合は教え方が悪いとクレームを付ける事がそれ程問題ではなくなり、理論上は双方が一方的な伝達を行うだけでよいことになります。これは恐らく全世界の公教育の学校でも行われてはいないとても効率の低い「教育」になります。
   
 殆どの公共性の有る「教育」は社会の代表者としての役割を与えられた教員が、同じ社会の「仲間」になるべく生徒・学生に対し接し、狭義の情報伝達だけではなく「社会」を学ばせる権力をも与えられます。
 生徒・学生も在学期間については教員を「社会」の代表・代理人として敬意を持つことが求められます。
 有る程度の精神的な影響力の行使が認められている内的な権力関係が存在するはずです。
   
 教員が生徒・学生と性的な関係を行うのは生徒・学生側の同意があったとしても行うべきでは有りません。
 それこそ寧ろ学則に「教員と学生・生徒の恋愛・性行為の自由」とでも明記されていない限り、その生徒・学生の保護者の同意が有ったとしても在学中の性行為は認めてはいけません。
 同意が有ったとしても生徒・学生との性的な行為は処分対象とされるべきです(特に未成年の場合)。
 目に見えなくとも特別な権力関係にある事が大前提です。企業内等の一般的な社会の「力関係」とは異なる公権力の問題です。
 「セクハラ」として処分された点については妥当だと考えます。
   
 大学教員が「ヘイトスピーチ」を行う事についても幾らか似た部分が有ると考えます。
 彼は社会から「教育者」として学生に対し影響力を持つ事が認められた存在です。
 その人が社会的弱者を広範に「痛めつける」ヘイトスピーチを行うことは社会の代表者としての役割を持つ「教員」としては問題が有ります。彼はある意味で公人で公共から「力」を与えられ、それを行使することが認められています。
 公的な場での発言は間接的にでも学生に対し影響を持ち、社会から代表・代理人としての役割を与えられている以上その立場での発言は公的な意味も持ちます。
 公権力の行使者としての「文民統制」は不要とはいえません。大学側も公的な役割を与えられているのですから責任を果たす事も必要です。

 大学教員で事は「学問」立場のみではなく公人としての教育者の立場も兼ねます。公共から影響力を行使しても良いとされている立場です。
 警察官や自衛官の不祥事がことさら報道されるのと同じく公教育の教育者は公共から権力の一部を用いる事を認められた存在です。
 ある種の「暴力」を用いる事を認められた存在として社会的な扱いを受けます。時々有る「教育者の不祥事の隠蔽」は社会への裏切りです。
 公人については任命者に一定の責任が有ります、例えば首長は選挙民に責任が問われます(結果的・道義的にですが)。
 大学教員に対し社会的に不当な行為をしていると判断されれば大学側が何らかの行動を行うのが不当だとは考え難いと思います。
 如何なる言動も誰からも何も問われ無い「公共」が存在するとの考えは極端だと思います。
 学問においては言論は自由であっても教育者としては公権力の側でも有ります。
      
 「訓告」という懲戒ではなく記録に残るだけの「厳重注意」は個人的には妥当だとも思います。
     
 その「処分」が不当だとするなら学内に有るはずの審査機関に提訴し、それでも納得できない場合は法的な解決を行うべきでしょう。
 大学側にも不当な処分をして「訴えられる権利」も存在します。機械的に「如何なる言論にも責任を持たない」とするのもおかしな気もします。公的な役割を与えている側がそれの利用について必要と有れば傷を追うことも恐れず主張は行うべきです。程度問題についても最初から限度を決め付けるのではなく社会的な合意を確かめることも公共の役割です。
 法的な場で妥当な「相場」が見つかるのならばそれは悪い事ではないでしょう。
 公開の場で「闘う」事が必要な場合は有ります。
 民主主義の原則は当事者の無作為で免れられる物ではなく、傷を追いながらもより良くする為の絶え間ない努力により作り上げられ維持されていくものだと考えます。
   
 この文章は個人的な理解と認識です。間違っているのかもしれません。