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リテラシーと理解について考える

幕末銃器生産事情

 gryphonさんのブログ記事http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150304/p2で3月4日・NHK総合の「歴史秘話ヒストリア 銃声とともに桜は散った 桜田門外の変」という番組が放送されるのを知り、見る事が出来ました。3月10日に再放送の予定です。
 http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/234.html
     
 この番組で示された「井伊直弼暗殺」に用いられた銃はこちらの記事と同一の銃でしょう(これは新聞記事の転載かもしれません)。
     

井伊直弼を撃った短銃? 幕末の複製和銃見つかる

ペリーが日本に贈った短銃を複製したとみられる幕末・日本製の精巧な6連発短銃が見つかった。幕末の精巧な和製短銃は現存しておらず、手に入れた大阪市の古式銃研究家、沢田平さん(74)は「日本の工作技術の高さを証明する貴重な資料」と話す。沢田さんは水戸藩で作られたと推測、「桜田門外の変井伊直弼を撃った短銃の可能性が高い」とも話している。

 米・コルト社製の複製で、全長35.4センチ。銃身内に七条の施条線が刻まれるなど高度な技術が使われていた。グリップは中国から輸入された高級紫檀(したん)。全身に桜の花が彫られ、一部には純銀も使われている。安政年間(1854〜1860)に活躍した彫工「鎌田壽次」の名が彫られている。

 ペリーは1854年の2度目の来日の際、将軍家や江戸幕府の閣僚などに最新式のコルト社製短銃を贈ったとされる。当時、その銃に接することができるのは大老や国防関係の閣僚に限られていた。

 茨城大の磯田道史准教授によると、このレベルの短銃を生産する能力を持っていたのは幕府や海防参与だった徳川斉昭水戸藩薩摩藩など。同准教授は「ペリーの銃が国内で複製されていただけで驚きだ。大名の持ち物であった可能性は高い。現物が残っているのは奇跡に近い」。

 沢田さんによると、この短銃は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、米国に渡っていた。1987年に日本の収集家に買い取られ、十数年前に沢田さんが入手したという。

 斉昭が好きな桜の花をあしらっていることなどから、沢田さんはこの短銃が水戸藩で作られ、1860年に大老井伊直弼水戸藩の脱藩浪士らが暗殺した桜田門外の変で使われた可能性が高いとみている。井伊直弼の致命傷は短銃で撃たれた傷だった。
http://blog.livedoor.jp/kiha1314/archives/28207197.html

 この銃はアメリカのコルト社のモデル1851と同一の形状を持ちます。コルトM1851はパーカッション式のリボルバーです。
 記事や番組では沢田(澤田)平氏が日本(水戸藩)製の銃で桜田門外の変安政7年3月3日(1860年3月24日)で用いられたものだと主張されています。
 しかし残念ですがこの銃は少なくとも1860年以前に日本で作られた銃ではなく、おそらく後代、戦後のスペインかイタリアで作られた複製品ではないかと思います*1
               
 では当時の日本と欧米列強の銃製造技術の「差」についてまず纏めてみましょう。
                
 日本では戦国時代の終わりと共に銃器の発展は留まり、武芸として砲術等が一部残ったのを除けば狩猟や害獣対策を除き銃を用いられることが少なくなります。それなりの数の銃が有ったのは事実ですが基本的には昔ながらの「種子島」が作られていただけです。
 とはいえ堺の鉄砲職人などは多銃身で連発ではなく一斉に発射する斉発銃を試作していたりもします。
 19世紀に入ってからは欧米勢力が日本周辺に現れます。日本国内でも国防意識を持ち、欧米の軍事技術を学ぶ人たちも一部ですが表れてきます。高島秋帆が知られます。同時代には他に久米通賢や片井京助や吉野*2吉雄常三らが雷管の研究を行い独自の銃器の開発を試みます。
         
 実際日本の火縄銃「種子島」は世界の火縄式の中では高性能な部類に入るとされ、現在でも前装銃射撃では人気が有るそうです。
 しかし産業革命が始まり、技術が飛躍的に進化した欧米の銃器とは技術水準としてはかけ離れたものになります。
        
 日本では国内生産のたたら製鉄と輸入による鉄が用いられ、その鉄が板状に加工され、それを棒に巻き付けて筒・銃身を作りました。簡易な「うどん張」とそれを強化した「葛巻き」という製法です。その銃身内部を錐で研削し仕上げます。多くはその筒の一方を尾栓というネジで塞ぎ銃床に固定し、筒の一点に穴をあけ火皿という銃身内部に火を入れる部分に火縄を叩き付けるバネ式のからくりの引き金の部分からなります。
 多くの場合バネは真鍮を用います。真鍮は多くが輸入品だったようです。これらはほぼ手作業の鍛冶や金属加工で作られます。
              
 欧米では14〜15世紀から高炉製鉄が行われます*3。高温で鉄を溶かすためにたたらより効率が良く、たたらのように毎回製品を取り出すために炉を壊す必要もない為に大量の鉄を作る事が出来ます。最初は木炭が用いられましたが18世紀にはより熱量の多いコークスが利用できるようになり、熱風炉の開発でより効率的になります。
 安価な錬鉄と鋳鉄が大量に作られます。
 一方コークス高炉の鉄は硫黄やリンの成分が多く高品質の鋼を作ることはできないのですが、18世紀末には反射炉とパドル法という技術の登場で鋼が作られるようになりました。(とはいえ高品質な鋼は北米やスウェーデンの木炭高炉や坩堝製鋼から作られていた)
 日本では幕末に1858年に橋野高炉、その後佐賀等で反射炉の建設を試みます。しかしその頃には欧米ではベッセマー法などの新しい革命的な製鉄技術が開発されていました。
            
 18世紀には製鉄の進歩とともに蒸気機関の発明があり、産業革命が始まります。
 蒸気機関の発明の基礎となったのは工作機械・マザーマシンの進歩です。
 日本では工作を手技とし、道具の進歩は有ったものの機械化はそれほど進みませんでした。
       
 欧米では一つには近世に入り時計の生産から機械による高精度な加工工作機械の開発が進みます。
 もう一方では鋳造の大砲の砲身内部を均一に研削する「中ぐり盤」等の高機能の工作機がまずは水力を用いて実用化されます。
 この中ぐりの技術を用いる事で蒸気機関は実用の域に達します。そしてその蒸気機関を用いる事で工作機械はより強力になり、効率よく精密な物が開発されるようになります。安価な鉄を多く使う事ができ、工作機械は重量化、大型化も進みます。
 高精度の工作機はその加工技術でより高精度の工作機械を作ることが可能になり、加速度的に機械生産が発展します。*4
        
 19世紀半ばには中ぐり盤の他、フライス盤や旋盤、ボール盤といった高機能な工作機械が一般化し、銃の生産にも用いられます。
 コルトが初期に精密工作技術を持つホイットニー*5に生産を任せていたことも知られます。後に大量の高性能工作機械を導入したコルトの工場は最初期の大量生産工場としても知られます。   
>工作機械の歴史 マシンツールコレクション
http://machinetool.co.jp/rekishi_01.html
 日本が世界レベルの工作機械・マザーマシンを作れるようになったのは戦後の話で、現在では世界のトップレベルにあります。
        
 銃の機能の進歩は日本の戦国時代の終わる17世紀初頭にありました。火縄で発火するわけではなく火打石を用いるフリントロック式です。
 火のついた火縄を常に用意する必要のない効率的な側面があります。しかし銃の威力としては同じ前装式マスケット銃で大きな差は無く、寧ろ衝撃の強いフリントロック式は命中精度が劣ります。
 それから19世紀初頭までは火薬の進歩による幾らかの威力の増大と工作機械の進歩による加工の高精度化以外はそれほど進歩はしません。
 ライフル(旋条)自体はそれ以前に開発されていますが、前装銃の場合弾をライフルに食いつかせるためには弾を布等で包み、銃口から力ずくで押し込まなくてはならないために「ケンタッキーライフル」等を除けば一般化はしませんでした。「種子島」も含め前装銃はライフルの無い滑腔(スムースボア)銃が多数でした。
        
 17〜18世紀は大砲と戦術の進歩の方が目立ちます。高価な青銅砲中心から安価な鋳鉄砲の信頼向上による火力の増大です、これは日本でも長く使われた研削が困難な白鋳鉄から研削が可能な丈夫な鼠鋳鉄への移行も理由のひとつです。
 日本では戦国時代でさえ大砲の生産は低調で技術も低く、江戸時代初期でも輸入砲でまかなっていたのですから太刀打ちできるものではありません。
              
 19世紀の銃の進歩は衝撃を与えるだけで発火する雷汞(らいこう)の発明からです。
 その雷汞を小さな金属キャップに詰めたものが雷管でそれを用いる銃がパーカッション式と呼ばれます。
 連射が容易で、銃身内の火薬が露出せず、火も外部に漏れないために連発銃の実用性も高まり、ペッパーボックス型からコルトなどのリボルバーの開発にもつながります。初期のパーカッション式コルトタイプのリボルバーは前装式ではありますが銃身の後部が別部品のシリンダー部分で閉鎖されそのシリンダーに装填する為にライフル銃身の使用も可能になります*6
           
 軍用の主力である欧米式の小銃は日本で当時はゲベール銃と呼ばれていました。黒船来航以前から日本では一部でフリントロック式のゲベール銃が幾らかは輸入されていましたが「開国」以降は雷管式のゲベール銃になります。1859年には登録制ですが輸入が自由化されています。
 フリントロック式や火縄式から雷管式への改造は容易で雷管式に改造された種子島も有ったようです。
 これらは発火メカニズムを除き機構、威力や精度の点では基本的には大きくは変わりません。
           
 しかしその頃には既にフランスでは前装式ながら銃弾の形を工夫してライフル(旋条)に食い込むように改良したミニエー式が用いられ始めます。従来の滑腔式前装銃より約3倍の威力と精度があります。*7「ライフルのカッティング法いろいろhttp://www11.plala.or.jp/guutara/html/kyousitu/kousaku/rifle_cut.htm
 幕府は1864年から、薩摩でも1865年以降にはミニエー式への切り替えが始まります。長州には1865年に坂本龍馬が4300丁のミニエー式小銃を納入しています。
           
 その後すぐに紙や金属の薬莢を用いた後装式ライフル銃が誕生し、戊辰戦争時には「種子島」、フリントロック前装滑腔銃、雷管前装滑腔銃、雷管前装ライフル銃、後装ライフル銃が入り乱れて戦う事になりました。
 1868年、戊辰戦争が始まり薩長土肥と幕府だけではなく仙台藩庄内藩、長岡藩、紀州藩を筆頭に多くの藩が大量のライフル銃を購入しました。当時は幾らか威力には劣る金属薬莢の連発銃も輸入されます。欧米の武器商人が全国で銃を売りさばきます。
 結果的には欧米から輸入された銃は数十万丁(1説には50〜70万丁以上とも)にも上り、1丁あたり1〜30両(新型は高額)とされおそらく平均でも10両を超え総額では数百万両にもおよび、幕末日本の大量の金流出の一因になったと考えられます。
    
 金属薬莢は基本的には真鍮を「深絞りプレス」という高度な技術で成形しする装填が容易で雨に強くそれ自体が銃尾の閉鎖の役割も担う大変高性能な実包です。これとライフル(旋条)が戦争の形を変えました。日本も金属薬莢、ライフル以降に開国をしたのならば欧米列強により屈辱的な条件を押し付けられたかもしれません。欧米で余剰の旧式を売られたとしても結果的に銃の進歩の最中の開国は幸運なタイミングだったともいえます。
 金属薬莢の成型技術は精密な工作機械と動力によるもので江戸時代の日本の様な前近代社会では作ることはできません。*8
           
 日本では上述の高島秋帆1830年頃から欧米銃の輸入研究を始めますが当時の幕府はそれを重視しませんでした、弟子の江川英龍下曽根信敦と共に独力での研究を始めます。
 黒船来航は実際には前年には幕府上層部や一部の学者は把握し、対策は幾らかは講じていたという事は余り知られていないのかもしれません。
 薩摩の島津斉彬も黒船来航の前年1852年にゲベール銃の生産を計画しています。安政年間(1854〜60)にかけてフリントロック式ゲベール銃1500丁、後期には雷管式に変え500丁の生産を行います。雷管そのものも生産を行っています。1858年の斉彬の死により一区切りがついたとされます。
         
 幕府も何もしなかった訳ではなく出遅れてはいますが1855年に老中阿部正弘は江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃(狙撃用前装ライフル銃)が作れるものと考えていたようです。江川英敏(江川英龍の息子)がこれにあたりますが後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。
            
 そして1860年、ミニエー化したライフル銃の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。*9 *10
 1861年小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠(製作所)に蒸気施条機械が搬入されます。*11   
>幕府の米国式施条小銃の生産について 保谷(熊澤)徹 東京大学史料編纂所紀要 
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/11/kiyo0011-hoya.pdf (PDFです注意) 
          
 当時の日本製ゲベール銃についての評価があります
>日本のゲベール銃 須川薫雄    
http://www.日本の武器兵器.jp/wp-content/uploads/2011/05/20120827gewehr.pdf(クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください。PDFです注意)
 部品の互換性が低く、ネジ山が少なく緩みやすい、バネが弱い、ハーフコック(ハンマーを半分だけ上げる安全機構)が無い物が多くある、銃床が小型、ハンマーの鉄が軟らかい、といった品質的にも厳しい評価になります。これが当時の在来技術の限界なのでしょう。
 ゲベール銃はコルトのリボルバーに比べはるかに簡略な機構・加工の銃です。
          
 他に民間や諸藩の鉄砲鍛冶が作った銃も存在します。倣製といわれます。
 堺や江州・国友、佐賀などでも在来技術でゲベール銃は作られ、おそらく価格的な競争力により1860年代前半には国内の需要をある程度は満たしたようです。雷管式は1860年以降には作られるようになり単発の雷管短銃や二連銃も多く作られます。
 「図解古銃事典 所荘吉」によると倣製の中にコルトを模したリボルバーも見られます。これらの生産時期は明らかではないのですが写真で見た範囲でも明らかに簡略化したものが全てで「井伊直弼暗殺銃」のような完全な造形の物は有りません。靖国神社所蔵品のように*12鋼ではなく高価で軟らかい真鍮を使ったものもありライフル(旋条)も無いものが殆どのようです。(個人的にはこれらの銃は早くとも慶応年間から明治初頭以降の生産を想定しています)
        
 日本での本格的なライフル銃の生産は1880年の十三年式村田銃まで待たなければならないようです(しかしライフル銃身はベルギー製らしい)。*13
 幕末日本の新技術への挑戦は明治半ばには実を結びます。日清日露戦争の勝利の一因です。*14 *15
 そして1893年にはライフル銃身を持つ独自設計の国産リボルバー・二十六年式拳銃が陸軍の制式拳銃に採用されます。
          
 日本の在来技術と近代産業の技術には大きな違いがあります。
 もちろん江戸時代でも日本の刃物など金属加工技術は優れたものであり、高度な職人技術がありました。
 ですがこういった鉄の複雑な造形を強度を持たせて作ることはできません。
 刃物用の鋼とは異なる低炭素の粘りのある鋼の加工なので技術の方向性が異なります。*16

 基本的に当時の技術である熱間鍛造と鍛接でコルトM1851のような形状を作るのは大変困難です。
 輪胴・シリンダーはうどん張りの管を束ねるまではできますが銃尾の閉鎖と回転用のラッチやパーカッション用の穴を造形しあれだけ正確にコピーするのは不可能です。ほぼ人力だけの鏨(たがね)や錐、やすり、砥石であれだけの研削は限界をこえます。
 フレームの複雑な形状やネジをそのままの形で作ることはできません。型を取って鋳物したのではという人もいるかもしれませんが見た目でわかりますし彫刻はできません。
 それに、上に書いたように「七条」のライフル銃身は拳銃のように短いものでも実用的な物は考えにくく滑腔か鏨で刻んだらしい2〜3条の簡易なライフル状の溝が有る、程度だとむしろ幾らかのリアリティを感じさせる事が出来る位です。
      
 http://ja.wikipedia.org/wiki/コルトM1851#mediaviewer/File:Colt_Navy_partially_stripped.JPG (URLをコピー&ペーストして見てください) 見る事が出来ませんでした。WikipediaのコルトM1851にある写真です。
 コルトM1851の分解写真ですが、溶鋼(又は練鋼*17)で作られた素材から動力工作機械での研削加工を用いない限りこのままの造形は不可能です。
 前にどこかで「日本でも自力で連発銃の開発は可能だった」との発言を見たことがありますが、まともに戦える実用的な連発銃を生産するのは当時の日本ではありえません。
 明治の日本が何故プラントやマザーマシンの導入に力を入れたのかご存じないのでしょう。設計図があれば作れるというようなものではありません
      
 当時の日本の在来銃製造技術の資料を幾つか挙げます。
>うどん張の筒 (1) 尾栓雌ネジ製造例 峯田元治(日本銃砲史学会)
http://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
>日本金属学会誌 江戸時代に製造された火縄銃の金属組織
http://www.jim.or.jp/journal/j/pdf3/73/10/778.pdf (PDFです注意)
>日本金属学会誌 江戸時代後期に製造された管打銃の金属組織と非金属介在物
http://www.jim.or.jp/journal/j/pdf3/74/12/779.pdf (PDFです注意)
                 
 桜田門外の変で使われたとされる短銃は通説によると横浜の商人・中居屋重兵衛が提供したものとされています。それだとオリジナルのコルトM1851の方が可能性が有ります。
 NHKで説として出されたわざわざ彫刻を施した銃であることも考え難いです。明らかな飾り用の高級銃をそんな目的で譲ることはあり得ません。
 「彫刻」の絵柄から水戸斉昭に繋げる推理は余りにも飛躍が過ぎます。むしろ「暗殺事件に使われたオリジナルのコルトM1851に記念として後に彫刻した」というストーリーの方がまだあり得るでしょう。
 それにあの銃はどう見てもほとんど使用の跡がありません。リメイクしてあるのという事なのかもしれませんが、一部でも当時の現物の部品が使われているのかすらわかりません。
 コルト社オリジナルの銃であれば刻印などから特定できます、オリジナルとしないのは刻印が無いという事かもしれません。
 もしかすればコルトM1851によって井伊直弼が暗殺されたと聞いたどなたかがそれをモチーフに作らせた「記念モデル」あたりかもしれないと考えるくらいが妥当でしょう。*18
       
 あれがそのままの形で桜田門外の変で用いられた当時の水戸藩製国産銃だと主張すると「オーパーツ」の類の話になります。「江戸しぐさ」の様な偽史にならない様に願います。
   
>先日、あるテレビ番組で桜田門外の変井伊直弼を狙撃したと伝わる拳銃が紹介されていましたが YAHOO! 知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14142771904
           
【参考】
工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ L.T.C. ロルト

工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

日本銃砲の歴史と技術 日本銃砲史学会 宇田川武久
日本銃砲の歴史と技術

日本銃砲の歴史と技術

図解古銃事典 所荘吉
図解古銃事典

図解古銃事典

日本軍事史 高橋典幸 保谷徹 山田邦明 一ノ瀬俊也
日本軍事史

日本軍事史

戊辰戦争 (戦争の日本史 18)保谷徹 (この本は幕末のライフル「革命」について詳しく分析していて大変お勧めです)
戊辰戦争 (戦争の日本史 18)

戊辰戦争 (戦争の日本史 18)

       
【関連記事】
>続・神話としての日本刀 鍛冶と鋼
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120217/1329439894
>近代以前の投射兵器の威力を検討してみる その1
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120430/1335773078
>「幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたのか?」は定説なのか
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130516/1368655745

*1:1960年代にアメリカ向けに西部開拓時代の銃の複製品を作る銃器メーカーが多数活動を始めます。

*2:訂正

*3:中国では漢代には高炉が実用化されている。

*4:1841年にホイットワースは現代に現代に繋がるネジの統一基準を作り1851年には100万分の1インチの誤差を図るマイクロメーターを作ります。

*5:有名なフライス盤発明者の一人とされるイーライ・ホイットニーの甥で同名のイーライ・ホイットニー・ブレイク。

*6:ただしシリンダーと銃身の間に隙間ができエネルギーにロスが出来、その部分が弱いのであまり強力な銃はできない。

*7:本文とは関係ありませんが古銃研究者のいう射程距離は弾が飛んで当たれば死傷する「殺傷可能飛距離」が多いのですが現代銃系では普通は狙ってあたる「有効射程距離」を射程距離といいます。これを混同する方がいて古銃で現在でも困難な500メートル以上の狙撃を行えると理解している方もおられるようです。おそらく当時の銃では300メートル以上は多数の銃による斉射・弾幕の効果による戦闘の「有効射程」でしょう。

*8:【追記】明治に入って鹿児島で金属薬莢が作られる事になったが、それを政府が撤収した事が西南戦争の引き金になった。

*9:【追記】「世界史の中の鉄砲伝来(幕末編)保谷徹」の9,10ページに当時の物と思われる木製(ライフル)施条器械の写真があります。これでライフル製造を試みて失敗したと考えられているようです。創意工夫に感心しますhttp://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_16/6/notes/ja/06hoya.pdf (PDFです注意)。

*10:【追記】幕末の国産ライフル銃とされるものについては須川薫雄『18、「国産ミニエ式小銃」は存在したか?』も参考にhttp://www.日本の武器兵器.jp/archives/5806(クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください)。

*11:ちなみに幕府と薩摩では1864年頃には青銅前装ライフル砲「四斤山砲」の生産に成功しています。

*12:訂正

*13:明治に入ってからは国内で大量のミニエー式ライフルがアルビーニやスナイドルといった後装式に改造されています。

*14:【追記】同時代の中国・清朝の銃器生産事情は「トーマス・ケネディ著『江南製造局:李鴻章と中国近代軍事工業の近代化(1860―1895)』」http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/2991/1/e_60_1hosomi.pdf (PDFです注意)。

*15:【追記】「明治期陸海軍工厰における特殊鋼生産体制の確立 長谷部宏一 1983 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31627/1/33(3)_P88-106.pdf (クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください。PDFです注意)」によると銃身鋼は後の十八年式村田銃、二十二年式村田連発銃においてもオーストリア・ポーラ一社からの輸入鋼に依存し(おそらく三十年式歩兵銃と三八式歩兵銃の最初期も同じ)明治42年から国産鋼が用いられたが昭和7年頃までは輸入銑(製鋼素材)が用いられたらしい。

*16:【追記】鉄や鋼にも種類や特性があり、高品質である種の刃物には向いているといえる「和鋼」が機械部品や銃の部品(それも銃身や機関部、バネ等で求められる性質は様々で異なった性質の鉄鋼を組み合わせて作る)に向いているとは限らない。当時の欧米でも産地や製法の異なる鉄鋼素材(鉱脈によって組成が異なり製法によっても性質が変わる)を目的にあわせ適材適所で用いていた。少し別の話になるが佐賀藩で「成功」した鋳鉄砲の素材は「南部鉄」等の在来鋳物用にも使われた「和銑(鉄)」ではなく基本的には「輸入銑」だったとされる。

*17:補足

*18:【追記】「GHQに接収され、米国に渡っていた」というのなら根拠を示すべでしょう。