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リテラシーと理解について考える

韓国・朝鮮食文化史入門

 あまり知られる事も少ない韓国・朝鮮の食文化史・食物史について日本との対比で書いてみます。
 和食の「伝統」に興味のある人でも隣国との関連には詳しくない人もいるでしょう。
     
 日本列島では独自性を持つ縄文時代が約3000年続いたとされます。しかしその時代も朝鮮・韓半島との交流は存在し日本産黒曜石などの交易がおこなわれていました。
 後に朝鮮半島から水田稲作が導入され、弥生時代の始まりに繋がったとされますhttp://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130220/1361296453
          
 数多くの栽培作物や食糧生産加工技術が半島を通じ日本社会にもたらされました。弥生時代の日本の食は韓国・朝鮮はそれほど大きな違いはなかったといえます。
         
 一部で批判的な意見は有りますが日本の「主食」は米といえるでしょう。
   
 文化人類学や食文化史・食物史においても基本的には本州日本は「ジャポニカ米」を主軸とした食糧生産と生活文化を持つ「稲作文化」を持つ社会とされます。
 江戸時代後期のままの生産状況である明治初頭の調査では消費エネルギー量の8割程度を穀物等炭水化物に頼り、その内約6割を米が占めていたとされます。当時は明らかな偏食の時代で穀物や一部芋などの炭水化物食を一人当たり1.2石(約180kg)ほど食べていたとされ本州日本人平均としては100kg近くの米を食べていたと考えられます(現在は60kg弱。1962年で118kg)*1。中世以前には大麦の裏作が行われなかった為、米の食糧としての役割はより大きかったという説もあります。
 そしてコメの生産が人口に大きな影響を与えたことも知られます。米が不作の年には飢饉が起きるというのは「米が主食」で有ったという事の証左といえるでしょう。
       
 韓国・朝鮮も基本的には同じメカニズムです。半島の気候は本州よりも水田稲作には向かないといえます。雨季がずれ降雨量は日本の3分の2程度、特に北部の気温は日本の東北よりも低く米の生産性は低く粟や黍に頼る生活になります。
 米は半島南部でしか充分な生産はできません。南部では水田稲作8割陸稲2割、北部ではその反対の水田2割陸稲8割とされます。北部では粟・黍が重要視されました。
 ですが食文化論としては韓国・朝鮮も日本と同じく(ジャポニカ)米が「主食」の「稲作文化圏」とされます。
 「米を全ての人が充分食べていた」というのが「主食」の条件とはされません。「主食」という概念を認めるのなら日本や韓国・朝鮮の「主食」を米とするのは妥当でしょう。
    
 特に日本語での「主食」という言葉には基本的には2つの意味があり一つは「主要な食」という社会的文化的な意味も持つ食糧生産や生活での役割ともう一つ「ご飯(主食)」と「おかず・菜(副食)」という意味があり、それが重なる部分もあります。日本と韓国・朝鮮はその点で共通する食文化を持ちます。(パンは前の意味では「主食」でしょう)
        
 日本に最も近い食文化を持つ社会なのです。東アジア文化としては同じく中国の食の派生型でもある日本食との(充分な独自性を持ちながら)中間的な部分を持つ食文化といえます。
  正確には 日本文化は半島を通じて移入されたものから大きな影響を受けているとするべきでしょう。いうまでもなく米や麦・大豆を含めて殆どの「伝統和食」の素材は外来種です。
 中国由来又は世界に他の地域の技術・文化・作物などが一度韓国・朝鮮で受容され改良やローカライズ(局地化)してから日本に伝えた側面もあります。半島独自の文化や技術も日本に持ち込まれています。
 中世以前の本州日本と韓国・朝鮮の一般的な食文化はほとんど変わらないと考える研究者もいます。
 
 同じ海を共有し、気候風土も近いのでどちらから伝えられたとも言えない同時発生的な食文化もあるでしょう。当然、逆に近代以前、古代でも日本から半島に伝わった技術もあるかもしれません。
 それこそ文化は多様な有り方が考えられます。
    
 風土の違い、社会状況の差、嗜好の違いもあり、同じ部分、よく似た部分、違う部分、別の進化をした部分があり興味深い物です。
 実際には日本でも韓国・朝鮮でも地方ごとに食文化は多様で幾らか一般化した書き方になります。両国とも郷土食の世界は奥深いです。
      
 中世初期までの日本の「ご飯」の盛り方は「高盛リ飯」といい韓国朝鮮と同じ盛り方です。神社の神饌等の盛方や膳の形式は半島由来であるというのは定説でしょう。
 日本のお膳*2は一汁三菜ですがこれも同じで韓国・朝鮮では飯床(パプサン)チャリムという飯を主食とする膳立て様式で、これも一汁三菜が基本とされます。菜は楪(チョプ)で基本の一汁三菜は三楪飯床と呼ばれます。韓国・朝鮮でもそれが二汁・三汁と五菜・七菜・九菜・(十菜)・一二菜と格式が上がるたびに増える点も似ています。
 
 竈や釜が韓国・朝鮮から来たというのも定説でしょう。半島の三国時代後期に鋳鉄釜が一般化し日本には奈良時代位から西日本を中心に徐々に広がってきました。韓竈(からかまど)という言葉が残ります。近世までの日本は基本的に半島から「教わる側」の後進地域でした。
      
 韓国・朝鮮には6世紀頃に挽き臼が入り、広まりましたが日本には7世紀に一度「碾磑(てんがい)」が持ち込まれましたが一般化せず普及したのは17世紀以降とされます。
 「餅」は異なり日本では粒のままの米を加熱してから搗いた物になります*3が韓国・朝鮮では地方によりますが粉にした米を加熱した「しとぎ餅」が主流です。因みに中国では餅は麦の粉で作り加熱するものです。琉球でも「しとぎ餅」です。
            
 日本と韓国・朝鮮は現在の酒造技術においては違いを見せます。同じ中国から持ち込まれた穀物のデンプンをカビで糖化させそれを酵母でアルコール発酵さ
せるカビ酒ですが、日本では散麹(バラコウジ)という一粒ごとにさばいた蒸し米にAspergillus(コウジカビ)を生やしたものになりますが韓国は現在の中国の主流と同じく生の小麦を濡らしてから搗き固めRhizopus(クモノスカビ)、Mucor(ケカビ)を生やせた餅麹(曲)になりました。
 これは日本の散麹の方が中国中南部からおそらく半島を通じ伝わった古い形で、韓国・朝鮮では扱いやすい新しい餅麹が中国から持ち込まれ、手間が掛り難しい散麹の技術が絶えたものだと考えます。中国では醤油(麦)とごく一部の酒造りに散麹製法が残りました。

 蒸留器の機構から見るとおそらく本州の焼酎の一部も韓国・朝鮮から入ってきた物も有るかもしれません。焼酎を韓国・朝鮮では焼酒・ソジュといい「酎」も用例が有りその傍証となると考えます。
    
 日本では高度な技術が必要な散麹の製麹が必要なため産業化された清酒が一般化しますが比較的確実な酒造が可能な餅麹の韓国・朝鮮では多彩な自家製「家醸酒(カヤンジュ)」が発展します。
 日本でも昔は多くあった「どぶろく」ですが韓国・朝鮮でもマッコルリ(マッコリ)が「スタミナスープ」的な形で農事など重労働時に多く用いられました。
     
 塩漬けした野菜などの植物を基本的に生で「漬物」として食べる点や山菜を好み海藻・海草を食べるのも共通します。なれずしと食醢(シッケ)も近い物です*4
 韓国・朝鮮には箸と匙が中国から持ち込まれますが日本では匙が欠落します。丼・どんぶりは韓国・朝鮮の湯鉢(タンパル)から来たものでしょう。
 焼き物も日本では17世紀にはじめて可能となった「磁器」の生産が10世紀以前の高麗青磁から行われ、中国からの技術を早く取り入れ独自の改良をし、日本には秀吉の朝鮮侵攻時に連行した陶工からその技術を得ます。 
    
 日本と韓国の食文化が大きく変わるのは中世以降だとも考えられます。古代末期(平安時代後期)には中国から日本に貿易商人が直接来るようになり九州に大唐街・唐房といった居留地が出来、直接文化が導入される事が増えます。日本では独自色の強い文化が形成されていきます。
 後の時代に花開く独自性の強い文化の基盤は韓国・朝鮮では高麗朝期、日本では鎌倉時代から室町時代にかけ成立したとされます。
          
 韓国・朝鮮は元々北方民族の影響もありましたが高麗後期、元の征服下に大きな文化的影響を受け支配層の肉食も復活します。
 日本では近世中期にかけて肉食は衰退しますが朝鮮朝期に両班(ヤンパン)の料理になり大部分の人には殆ど縁のない高級料理として発展します。
    
 茶は高麗期には一般的でしたが気候に合わないのと朝鮮期に茶文化の基盤であった仏教寺院が弾圧されたともいわれ(重税説もある)衰退し、茶葉を使わないご飯のおこげに湯を差した「熟水(スンニョン)」や果物・香草・煎り麦などの香味「茶」が主流になります。日本では中世以降茶道が発展し煎茶も普及します。
    
 麺は高麗期に入った物のようですが18世紀には押し出し麺が主流になります(ジャガイモ麺は19世紀から)。日本には切麺と手延べ麺がありますが(どちらも中世後期に普及)韓国・朝鮮で「伝統的」には切麺と押し出し麺です。
 麺を「啜って」食べるのは世界で日本人と韓国・朝鮮人だけかもしれません(韓国・朝鮮で日本統治以前から啜っていたかどうかはわからない)。
   
 日本では醤油と味噌は分化し別々に作られ醤油は基本的に買うものですが、韓国・朝鮮では味噌(テンジャン)を作る際、材料を塩水につけて作られその塩水を醤油(カンジャン)として用います。それらはおそらく中国から別箇に伝来し発展した技術でしょう。
    
 農業技術としては日本では田植えが早くから行われ中世前期には大麦の裏作が一般化しますが、韓国・朝鮮では雨季がずれるため基本的には稲は直播が普通で田植えの技術が一般化したのは17世紀後半とされます。南部では大麦との二毛作が盛んになります。
 サツマイモは日本から導入されますがなかなか上手くいかなかった様です。その代りトウモロコシは17世紀に中国から導入され北部で大きな成果を上げます。ジャガイモも中国から入ったのは日本より早いようです。ちなみに木綿は中世後期に朝鮮朝から日本に移入されました。
 農業技術研究は農書が日本に先立つ15世紀には出され(日本では17世紀)ています。日本では民間の農書が江戸時代中期には大変盛んになります。

 日本でも江戸時代後半には沿岸漁業捕鯨は盛んになりますが韓国・朝鮮でも19世紀後半には水産業は盛んで明太(タラ)、グチ、ニシン、片口鰯が多く獲られます。韓国の煮干は日本から伝えられたものだそうです。
   
 中世以降の日本と韓国・朝鮮との大きな違いとしては貨幣経済の浸透という部分も大きいでしょう。
 日本では朝廷が自力で貨幣を流通させるのには失敗しますが、平安末期から中国の金属貨幣「銭」が流入、大量に流通し急速に貨幣経済に移行します。高麗朝では銀のインゴット・銀瓶が用いられ後に作り朝鮮朝でも楮貨(ちょか)という紙幣を発行しますが成功せず、高麗・朝鮮朝では銭貨・金属貨幣も何度か計画されますが17世紀末までは流通させられず米と布(布貨)を貨幣とする時代が続きました(日本でも平安時代は似た状況)。高額貨幣や信用通貨は成功しませんでした。朝鮮末期の高宗の時期に通貨政策に失敗したことも知られます。
     
 高麗朝期には寺院で酒造が大規模に行われたそうですが朝鮮朝期には自家醸造が殆どになります。日本では同じく中世の寺社での酒造から戦国後期には民間業者に拡がり、江戸時代になると大産業化します。酒造業者や貨幣・為替を扱う商人等は大規模な商業資本に発展します。
 そのほかにも中世後期には貨幣経済が浸透し、民間を含めた全国的な流通制度が存在し日本が自力で通貨を作り始めた17世紀後半以降、三貨制度が成立し本州側ではほぼ全国的に貨幣経済社会になりました。
 朝鮮朝期は経済統制が厳しく、政府の許可を得た褓負商(ボブサン)のような行商人等の一部の小規模な流通業者を除き大規模な商業資本や製造業は発展しません。朝廷が政経とも社会の中心として君臨し、朱子学を理想とする農本主義的な社会が続きます。
          
 日本でも朝廷では平安時代には中国の宮廷料理を基にした大饗料理が正式な料理とされますが、平安後期から「国風化」し、シンプルな料理になり、調理や味よりも儀式を重んじた典礼作法が重要視されます。室町時代には武家を中心にした本膳料理、公家の有職料理として形式が完成しますがどちらかというと「見せる料理」「並べる料理」としての部分が強い様式です。
 本膳料理は江戸時代を通じて正式な供応料理として全国で取り入れられ後に会席料理に繋がりますが、本来は味というより儀礼の形式の部分がつよいものでした。
 日本では政府の高位の人物でもそれほど贅沢な食を求めませんでした。寧ろ形式に縛られる部分が多かった様で支配層が食文化の主役とは余り言えない社会です。
    
 「味」については寧ろ民間での商売や流行から新しい食が開発されます。酒と醤油、素麺といった流通加工品だけではなく調理や味についても店舗など民間からの発信から食文化が育った側面があります。寿司、天ぷら、蕎麦、菓子等の現在に伝わる食文化の多くが庶民社会の「商い」から生まれたものです。
 農業生産も驚くほど経済的合理性が広まり商品作物が重視されていきます。本格的な「野菜」の生産が始まったのはその頃からでした*5
 いわゆる「江戸文化」は元禄時代に始まり、その完成は19世紀初頭文化・文政期と見ることもできます。
 支配層であるはずの武士の参勤交代などで江戸や上方での外食や買い食いからも地方にも料理文化が広まります。城下町で独自の発展をした料理もあります。
 日本では「南蛮料理」の影響もあり、都市圏を中心に近世から近代にかけて徐々に今の我々の知る「和食文化」が成立していきます。
       
 それに対し500年以上続いた朝鮮王朝では宮廷料理と共に支配層の両班(ヤンバン)・士大夫層が食文化の主役になります。
 両班では他の両班が客としてきた場合に接待料理を出すことが決まりでした。
 富裕な両班家の「主婦」が酒造も含めた高度な技術が求められ、実務は使用人や奴婢(時には請負業者)に任せたものの、支配層の「家の宴席」が食文化の発信源となります。
 「東医宝鑑」といった医書でも医食同源が研究され*6、高位高官にとっても食は重要な関心事でありました。
 そしてその頂点として王宮の料理があり、地方の食も王宮への献上を通じて技術が進み、日本とは異なり朝鮮期を通じ「上からの食文化」が大きな役割を持ちました。
 日本ではあまり知られませんが韓国の宮廷料理・両班宴席料理は俗にいう「韓国・朝鮮料理」イメージと幾らか異なる高度で洗練された文化を持ちます。
               
 「近代化以降」宮廷や両班の料理が社会に拡がり庶民の食文化と融合し、それまでは少なかった飲食業も一気に盛んになり「韓国・朝鮮料理」が完成します。
 海苔巻きご飯「キムパブ」のような日本から来たとみられる料理や中国東部の料理と共通する料理も多くあります。
    
 勿論庶民の食文化もありそれは興味深い物です。
 主食の「ご飯」も多くの庶民には日本と同じく増量ご飯「量飯(かてめし)」や雑穀飯で朝鮮朝後期には南部では麦飯、北部では粟・黍飯で全羅道では米飯だとされました。
 韓国・朝鮮の人々は日本人以上に「大飯喰らい」だといわれます。日本と同じく菜や漬物でご飯を多く食べました。粥食も豊富です。
 勿論地方の庶民は日本でも韓国・朝鮮でもつつましい日常食と共に冠婚葬祭や年中行事と関わるそれなりに豊かな「ハレ」の食も存在します。現在の「食」に繋がり「郷土料理」ともされる多様で高度な文化です。
       
 沈菜「キムチ」の文化は古代には日本と同じく比較的単純な塩漬けが基本*7でしたが、そういった日本の漬物と同じようなものから中世頃から塩水に漬ける水分が多く汁も用いるタイプの漬物「沈菜」になり、香料香辛料を用いた漬物が開発され18世紀には塩辛や魚醤で味付けがされ独自の進化をします。 
 唐辛子は16世紀末日本の侵攻時に持ち込まれたともされますが17世紀には「毒」ともされ、焼酎の強化剤(いわば「ドラッグ?」)として用いられるぐらいで表立って用いられるものではありませんでした。
       
 18世紀中ごろには食品として一般化しキムチにも用いられます。しかし唐辛子入りキムチが標準的な物とされるのは実は19世紀後半だとされます。ちなみに韓国・朝鮮で白菜が一般化したのも19世紀後半です(日本では20世紀初頭)。
 晩秋から立冬にかけてのキムチ漬け行事の「キムジャン」も18世紀に始まったようで文献上の初出は19世紀初頭です。塩や野菜が高額であった当時は漬物も庶民から見れば高級品だったので上級層から始まったようです。庶民にまで広まったのは後代の事でしょう。
         
 韓国・朝鮮では「漬物」の歴史は日本と同じく長いのですが「赤い白菜キムチ」が日本の現在の「漬物」と同じく今の形に完成したのはそれほど古くは有りません。
 近世後期以前は日本と同じく菜は寧ろ「舐め味噌」や山菜・野草が主流だったといえるかもしれません。
       
 日本や韓国・朝鮮でも現在の我々が考える完成した「伝統食」というのは比較的に歴史が浅い物ともいえます。庶民が日常的に「料理」を食べる様になったのは近代以降です。
 日本でも全ての人が白米のご飯に汁、味噌などのなめ物の菜や漬物だけではなくちゃんとした「おかず」のついた一汁三菜の「和食」をいつでも食べられるようになったのはそれこそ1960年代といえます。
 日本の庶民が生鮮の魚貝を日常の料理に利用できるようになったのも韓国・朝鮮の庶民の本格的な肉食も近代になってからの状況です。
           
 「だから和食の伝統などない」とする人もいます。しかしそれは長い歴史の中で徐々に成立したものでありその前の時代、それ以前の「伝統」を受け継いで生まれたものでもあります。
 現在の我々の知る「和食」はそれ以前の人々理想としていた食のあり方を近代以降、場合によっては「戦後」に現代の技術・流通で実現したものでありそれは「伝統」としての韓国・朝鮮料理でも同じです。 
      
 生きている「伝統」は変化し続ける物でもあります。
 変わり続ける事も十分に「伝統的」といえます。古い形のままでないから、完全な独自性でないから「伝統的」ではないとするのは文化を「標本」「情報」としか見ない狭い考え方でしょう。
 「和食」が全く変化のない物ではないから「伝統」ではないという方は場合によっては「洋服を着て洋風建築で暮らすのだから日本人はいない」ともなりそれは「既に同化したのだからアイヌ民族琉球民族は存在しない」と同じ意味です。「文化」や「伝統」への敬意は人間への敬意でもあります。
         
 日本の失われつつある年次行事や儀礼とと結びついた伝統「和食;日本人の伝統的な食文化 −正月を例として−」や韓国のこの先薄れゆくかもしれない季節保存食「 キムジャン文化」といった物が「ユネスコ世界無形文化遺産」となることは大変意味深い部分があります。
   
【関連】
>【入門】初心者からの韓国・朝鮮史
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130512/1368292890
>日本肉食史覚書(上)
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334
>郷土料理資料リンク集
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20131111/1384101904
   
【参考書籍】
>韓国の食生活文化の歴史 尹瑞石 明石書店

韓国の食生活文化の歴史

韓国の食生活文化の歴史

 現在日本語の書籍で最も詳しい韓国・朝鮮食文化史でしょう。
        
>韓国料理文化史 李盛雨 平凡社
韓国料理文化史

韓国料理文化史

 篠田統門下の韓国・朝鮮食文化史のパイオニア。詳しい本ですが幾らか古く、著者が物故され改訂前の物が翻訳されました。

>韓国食生活史―原始から現代まで 姜仁姫 藤原書店

韓国食生活史―原始から現代まで

韓国食生活史―原始から現代まで

 伝統食研究家による大著。これも詳しいが少し古め。
文化人類学的な視点に立ち、料理についても情報が多い。
     
>韓国の食 黄慧性 石毛直道 平凡社ライブラリー
韓国の食 (平凡社ライブラリー (529))

韓国の食 (平凡社ライブラリー (529))

 近代近世(訂正)初期までの食文化の研究者でもある韓国の人間国宝の宮廷料理継承者(故人)からの聞き書き。重要。

>世界の食文化 韓国 朝倉敏夫

世界の食文化〈1〉韓国

世界の食文化〈1〉韓国

 よく纏まっていて食文化入門書としてよいと思います。
    
>キムチの文化史―朝鮮半島のキムチ・日本のキムチ 佐々木道雄 福村出版
キムチの文化史―朝鮮半島のキムチ・日本のキムチ

キムチの文化史―朝鮮半島のキムチ・日本のキムチ

>焼肉の文化史 佐々木道雄 明石書店
焼肉の文化史

焼肉の文化史

>焼肉の誕生 (生活文化史選書) 佐々木道雄 雄山閣
焼肉の誕生 (生活文化史選書)

焼肉の誕生 (生活文化史選書)

 「韓国の食生活文化の歴史」の訳者でもある著者は気鋭の研究者。丁寧な資料調査から新たな事実を示す。
 書き方の強さと一部の部分で思い込みや決めつけも感じられるが面白い。他に「朝鮮の食と文化 むくげの会」も。
    
朝鮮半島の食と酒 儒教文化が育んだ民族の伝統 (中公新書) 鄭大聲  日本では第一人者ともされますが古い説もある。この書籍版は1998年初版。
  
>朝鮮の料理書 東洋文庫 鄭大聲 (翻訳)
朝鮮の料理書 (東洋文庫 416)

朝鮮の料理書 (東洋文庫 416)

 朝鮮王朝期の両班の「主婦」らの書いた料理酒造書と各地の名産品紹介。誤訳が有るらしい。
     
>庶民たちの朝鮮王朝 (角川選書) 水野俊平
庶民たちの朝鮮王朝 (角川選書)

庶民たちの朝鮮王朝 (角川選書)

 朝鮮王朝期の常民の生活について良く纏っています。良い本だと思います。
 著者が他の本で触れていますが日本のネットなどの一部で韓国・朝鮮の食文化といわれる「トンスル」は堆肥の発酵熱を用い密閉した甕の中で発酵させる食品と「親孝行」の伝説の話を誤認・曲解したデマ・迷信です。一般的ではない特殊な医療法を除きそんな「文化」はありません(その意味だと日本も「飲尿文化」があることになる)。
       
朝鮮通信使をもてなした料理―饗応と食文化の交流― 高正 晴子 明石書店
朝鮮通信使をもてなした料理―饗応と食文化の交流―

朝鮮通信使をもてなした料理―饗応と食文化の交流―

 江戸時代の日本と朝鮮の饗応食の交流とそれを比較した実例。
 「倭館鎖国時代の日本人町 (文春新書) 田代和生」では朝鮮日本人町での食の交流も書かれます。

日本食物史 江原絢子 石川尚子 東四柳祥子 吉川弘文館
日本食物史

日本食物史

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*1:これは数字上の「平均」で一般農家でも冠婚葬祭以外は米を食べられない地域もあり逆に殆ど米しか食べない地域もありました。江戸や大坂の都市庶民は基本的に白米食です。

*2:【2016/12/09追記】日常食ではなく正餐・供応料理のことです。

*3:和菓子ではしとぎ餅も多い。

*4:同音で食醯は甘酒の意味も。

*5:栄養的に野菜が充足するのは戦後のこと。

*6:現代から見れば科学的根拠があるとは言えないものです。

*7:醢(かい)型という。