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リテラシーと理解について考える

 「論理的に考えることが疎かになっている」

 在る所で「論理的に考えることが疎かになっている」というコメントを読みました。
       
 他にもよく「論理思考が軽視されている」だとか「科学が安易に考えられている」や「わかりやすさ思考が蔓延している」だとかの言い方で現在の「知的状況」を何らかの「衰退」した状態だと見る視点を持たれる「論理思考が出来る人」や「科学的な人」を見かけます。
         
 言うまでも有りませんが一般論として「論理的に考える」事や「科学思考」は必要であると考えますし現代の市民社会においてより必要とされている事には異論は有りません。 
 しかし現在がこの「論理」や「科学」が「衰退した」状態にあるということをどのようにして論証するのでしょう。
 それらの方は書店などでの怪しげな本の蔓延、メディアでの非科学的な情報の扱い、医療や研究の現場での混乱、インターネットでの対話や情報のあり方を見られてそのように考えられているのでしょうか。
         
 しかしそれらが「多数派」であるだとか過去の何れかの時代に比べ明らかに「増えている」だとか「衰えている」等といった「科学的」だとか場合によっては「統計的」な根拠はあるのでしょうか。
 本が売れているからといって多くても100万部、これは人口の1%程度にしか過ぎません、メディアでの情報も本気にしている人の割合はわかりません、現在現場でおかしな事を言う人も大多数ではありません、「インターネット言論」は極最近一般化したものに過ぎません。
    
 「科学的」「論理的」な思考を正確に定量化する方法が存在し、それに基づいた「科学的」な比較が可能なのでしょうか。
          
 目に見える部分は「個々の購買力が上がった」や「発言しやすくなった」だけに過ぎないのでは無いでしょうか。
    
 問題の有るカテゴリーの商品の品揃えが増え、販売宣伝方法が巧妙化したので商品として目に付く事が増えた部分もありえます。昔から少なくなかった「論理・科学」が苦手な人たちの行動が表面化しただけだとは考えられないのでしょうか。
 社会の高学歴化と情報化が進み、学問の権威が相対的に下がり、発言する方法も増え、昔は押さえ込まれていたその手の考えが表面化し易くなり共感者を得やすくなりそれらが見えやすくなっただけではないでしょうか。
 昔からあった物が今のシステムの中で商品のジャンルとして確立・洗練されただけに過ぎないのでは無いのでしょうか。
   
 「昔は」学者に権威があり、科学や論理は「偉い人」が「正しいこと」を上から押し付けるものであったと考える事は充分に可能だと思います。
 その時代にも今から考えると「論理的」でも「科学的」でもない考えが「偉い人」たちからも押し付けられてもいたようにも見えます。
 昔の「偉い人」のその時代での「論理的」「科学的」な主張が、今から見ると殆ど根拠の無い安易な思い込みに過ぎないとしか思えない主張も見かけます。有る部分において「論理的」な「偉い人」のご意見や説がそれほど「論理的」でも「科学的」でもないのは現在でもそれほど変わらないとも思います。
 個人的にはどの時代においてもその時代なりの論理や科学と不合理や迷信がせめぎあっていると考えます。
 その時代の論理や科学が後には不合理な迷信とされた歴史も多く有ります。そこから現代の広義の「科学」は産み出され、有る意味では未だに成長過程の途中でしかありません。
 現代の根拠に基づき懐疑によって検証され「確からしさ」を見つけ出す「科学」の積み重ねはその中から産み出されたものです。
 『「科学」の確からしさ』と『「科学者」の正しさ』は混同してはいけないというのが現在の「科学」の立場のはずです。これはある意味で永遠に未完なのかもしれません。
   
 現在でも有る部分においては「論理的」でも「科学的」でも無いだろう人が日常的には合理的な判断が出来たり、職業や生活においてはより適切な判断が出来ていたりもします。逆に「論理的」「科学的」な筈の人が日常において合理的な判断が不得手な場合も有ります。
 個人の利害や人間関係、政治的な理念、嗜好、特定の事柄については不合理な言動を行う「論理的」「科学的」な筈の人を幾らでも見かけます。
 勿論自分自身も「論理的」「科学的」思考を常に行う自信は有りません。
   
 ですが多くの人がその人なりの合理性により「論理的」「科学的」な判断をしているとするのが適切な理解だと考えます。
 それがある種のより「確からしい」正統的な「論理的」「科学的」とずれている場合に「疎か」であるとされるのでしょうがそれは本当に「疎か」なだけなのでしょうか。
    
 いったい何をもって「論理的に考えることが疎かになっている」と言えるのでしょう。
 昔は「疎かでなかった」とする根拠があり、「疎かになっている」と出来る根拠はあるのでしょうか。
 それこそ、この発言そのものが「論理的に考えることが疎かになっている」とも言えるのでは無いのでしょうか。
       
 今までは「対話を」せずにいた人たちの意見と初めて出会い、自明な筈の「論理」を持たない人と出会う機会が増えただけ、又は今までは自分の目に入らなかった事が見えるようになっただけだとは考えないのでしょうか。
 自分の今まで見ていた「世界」を全てだと考えているだけなのかも知れないと考えないのでしょうか。
 その場が特殊な状況であるとは考えないのでしょうか。
    
 自分には出来る事、自分にはそれ程困難ではない何か、自分には向いていて努力は必要だったが出来た事、自分には向いていた何か、それが出来ない人がいた場合にそれを何らかの「欠落」と理解し、「疎か=努力不足」とする考えを持つのならそのような「論理」は傲慢であると感じます。
 自分の出来る事を基準にそれが出来ない人を何か「足りない」とする認識はそれ自体が「論理的」では有りません。
   
 有る意味で「論理的に考えること」が出来ない人でも「論理的に考える」人よりも「論理的」に行動が出来ている人や自分の不足を理解し慎重に行動をする人も少なくは有りません。自分に不向きなことを「誰か」に援けてもらい、より良い行動が出来る人は多いはずです。
   
 自分にとっては間違いが無いと考えられる「論理」や「科学」を誠意を持って丁寧に説明しても理解されない場合は多々有ります。
 その場合に単に問題を相手の側の努力不足や理解力の無さ「のみに」答えを求め、相手の何らかの不備に理由を求め、一部の事例から原因を決め付け何かを一般化しようとするならそれも「論理的」とはいえません。「意味」を過剰に読み取る事は「論理的」でも「科学的」でも有りません。
 「わからない事」はわからないと立ち止まる思考こそが「論理思考」の第一歩だと考えます。
 それさえ出来れば高度な科学知識や論理思考力が足り無くともより適切な判断が可能になるのではないかと考えます。