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リテラシーと理解について考える

サイエンスコミュニケーションなんていらない(暴論)

 低学歴の肉体労働者として思うことですが「サイエンスコミュニケーション」やら「リテラシー」とかは基本的には高等教育の枠組みですべきことじゃないのでしょうか。
           
 個人の好奇心や趣味で色々調べるのが好きなのですが、結局まともに調べようとすれば何らかの根拠やちゃんとした論理のない物は参考意見や印象のレベルの事でしか無く、いくら面白くてもカタルシスがあっても娯楽レベルでしか無い情報ですよね。
 自分自身にその方面の基礎知識がないとまともな根拠が示されていない限りその情報や認識が確からしいかすらわからないですし、その媒体や発言者の立場や他の「詳しそうな人」のそれに対する扱いや態度で取り敢えず判断するしか無いわけです。
      
 それで調べたり考えたりしていると結局まともな「論文」の形式が最もましな情報の伝え方だというのがわかります。
 自然科学だけではなく人文科学や社会科学でも論文形式だと根拠を示しながら情報を伝えることが必要とされ、おかしな部分があれば査読?とかで批判されるはずですよね。
   
 これは本来は高等教育段階では皆さんが学んでいる筈の情報伝達の形式ですよね。
 授業はそれが目的で指導が行われ、実際に「論文」を書くことが義務付けられ、それを専門家であるはずの教官が確認するのですよね。
 「理系」だけではなく文学部でも何でも基本的にはそういった情報の扱い方が出来るように訓練がされる筈ですよね。
 根拠や論理のある文章を読んだり書いたり出来ることが高等教育の目的ですよね。
 「教わる」ことが目的の初等中等教育とは違い、自分で考える自力でのリテラシーそのものが高等教育の目的ですよね。
 リベラル・アーツ liberal artsとか言うんですよね。わざわざ学士とかの称号も付きますよね。
                
 社会では専門分野だけではなくとも学歴による雇用や地位の分別が行われるのはこれが出来ることが前提なわけですよね。 少ないのかも知れませんが税金が投入され教育が行われるのは最低限のまともなリテラシーが出来る人を育てるためですよね。
     
 特定のジャンルの専門知識だけを得るのなら専門学校で良いはずですよね。単なる事務能力の高さが必要ならそれだけの専門教育でも良いですよね。大学が特別なのはそれが理由ですよね。
 専門分野でなくとも大卒が採用基準になり得るのはそれが理由ですよね。
                     
 個人的な理解としては「大学」等というものは知識だけではなく教養や見識とも云われる「考え方」や「理解の仕方」も学ぶはずのものですよね。
 ちゃんとした「論証」をして「議論」ができ、まともな「リテラシー」を行う訓練をしているはずですよね。
 特に一流大学出身者が「エリート」とされるのは特定の専門知識だけではなく「リテラシー」が身に付いているからではないのでしょうか。違うのかな?。
  
 一流大学ではなくとも基本的にはそれなりの高等教育を受けると最低限のリテラシーが有るはずですよね。
 今の社会は昔よりも多くの人達が高等教育を受けているのは事実ですよね。
 社会全体ののリテラシーは底上げさえて居るはずですよね。自分のようなボンクラは偉い人達に難しいことは任せていれば良いはずですよね。
 高等教育を受けた方がその人なりのリテラシーを行い可能な範囲での社会的な役割を担うべきですよね。
 勿論個人単位では変なことを言う人や間違う人はいるのでしょうが全体に於いては適切な形でのリテラシーが行われてきている筈ですよね。
 その為の「論証」や「議論」が当然出来るはずですよね。
              
 それを受け取る方にも多くの高等教育を受けられた方が居るはずですから基本的に出来る範囲でのリテラシーは社会全体で行われるはずですよね。
 学者さんや専門家は一つ階層の専門性の低い方に対し説明し、それを受けた方がより広い範囲に対し可能なかぎり説明し、末端の人間はリテラシーの出来る方に任せていられる事がひろく高等教育を行う目的ですよね。
 社会においてその範囲でのリテラシーが出来ないのなら高等教育に余り意味が無いという事ですよね。
 「コミュニケーター」が必要とすると高等教育が社会的な責任を果たしていないといわれても仕方がないですよね。
 大卒で馬鹿だと馬鹿にされても仕方ないですよね。大学教授が馬鹿だと非難されるべきですよね。
              
 自分がよく教師の方を批判するのは今の日本では教師は高等教育を受けた筈の「リテラシー」の高いはずの人達で、「コミュニュケーション」の専門家としても責任のある役割で、少なくとも未だ高等教育を受けていない生徒に対し社会から強制力を預けられている高等教育を受けたはずの人間としての責任を問うているのです。
 教師がリテラシーが低いのは許されるべきではありません。
      
 今時大手の新聞や放送局などは殆どが高等教育をうけた方たちが多く居られるのですからリテラシーが出来ないわけはないですよね。
 専門家に適切な質問をし一般の人達にわかる形に「翻訳」することが本来の仕事です。双方の意見を相手に分かる形で伝えなければ存在する意味もありません。
 責任は教育者にも劣りません。リテラシーの低い報道機関は存在する価値はありません。
 特に公的な電波を預かる放送局には責任があり、高等教育を受けた記者がリテラシーに問題があることは許されません。
             
 高等教育を受けた人が多くなりることは本来は社会のリテラシーが上がることですよね。 
 高等教育を受けたはずの方が自分の責任の範囲でリテラシーを行うのなら「サイエンスコミュニケーター」なんていりません。