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リテラシーと理解について考える

「本気にする人が居たらどう責任をとるつもりだ?」

 言論の自由の認められた社会では特にエンターテイメント等の物語的な構造を持つ「虚構」での「創作物」の場合にでも嘘や出鱈目を表現することが認められています。
 通常は「普通の人から見れば創作だとわかる」形であれば現実の話に嘘を混ぜていても「騙される人」がいない事とされます。
   
 とはいえ現実には所謂「リテラシー」は誰にでも何時でも在るものとは限りませんし、その「作品」の社会的な位置付け=文脈を理解できるものではありません。
           
 不特定多数の人の目に触れる創作物の場合「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」と書かれることも多いでしょう。明らかな創作物であっても不特定多数に触れられる作品ではそういった配慮が行われるのも妥当でしょう。
 そういった創作物でも「現実と関係のない」日本やアメリカや地球が出てきます。
 受け手はその「現実と関係のない日本やアメリカや地球」が現実の日本やアメリカや地球「でもある」事も文脈として理解し、作品の整合性として読み取ります。
 作品的な必然性からみた形で解釈された現実の「それ」から派生した形での「現実と関係のない」「それ」であるというのも文脈でしょう。
 原則的に嘘と現実が入り混じった形で「現実と関係のない」創作物は作られます。
          
 現実社会を題材にした作品、例えば推理小説で「現実と関係がない」からといって説明もなく死んだ人物が生き返ったり、物理原則では不可能な事件の「トリック」を用いたりすれば「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」と書かれていても作品的な瑕疵とされるでしょう。
       
 ジャンルや作品ごとに嘘と現実の割合や虚構のレベルは異なります。
 SFだと文脈によって「あり得ない」物理原則を起こさせるのもそれ自体は作品の瑕疵とはされません。
 ファンタジーだともっと「あり得ない」事を起こさせたとしても作品として成り立たせることに問題はありません。
 恋愛的な状況をテーマにした作品等では「あり得ない」(都合の良い)反応をする登場人物も出てきます。
  
 だからといって全ての部分で「現実とは明らかに違う」作品が受け入れられるのは少ないでしょう。どこか「現実的」な部分が混ぜられ、それが受け手に共感できる物ではない限り受け容れられ難いでしょう。いわゆる「前衛的な作風」でそんな作品はありますが場合によっては猛烈な反発を受けることもあります。需要は小さいでしょう。
    
 多くの作品では人間が認知する形での「現実」と「虚構」が入り混じる形で創作が行われます。受け手は虚構であるという合意とともに何らかの現実の延長線として物語を受け止めます。
 何らかの「真実」が含まれていると感じる作品のほうが多くの人に届くといえるでしょう。
 「虚構である」という認識が共有されている筈の創作物であっても何らかの形で受け手が「本気にする」部分は存在します。
 「人生において大切な事をこの作品から学んだ」「この作品の社会や人間についての洞察が人生の指針になった」何らかの形で虚構が現実の一面を示すと考える理解は一般的には妥当です。
     
 これは逆に作品から何らかの偏見や誤解を受け入れてしまう可能性をも否定できない部分です。
 創作者の偏見や誤解、場合によっては便宜的な虚構や誇張などの演出の部分を「一面の真実」として取り込む事は珍しくはありません。 作品を容れるにはある程度は受け手の共感が必要な場合と考えられる部分もあります。
 受け手の偏見や都合の良い理解や誤解を補強する役割をしてしまう部分や間違った事実関係を刷り込んでしまう可能性はあります。
        
 例えば多くのサスペンスやアクション物、社会派のエンターテイメント創作物においては「製薬会社」はデータを偽造し告発者をどんな手を使っても口止めするものですし、医者はミスを隠蔽し組織ぐるみで揉み消しを図るものです。
 現実の社会でも製薬会社の不祥事は存在しますし問題のある医師もいます。
 しかし少なくとも現在のシステムでは製薬会社のデータの偽造はあまり「わりに合う」物ではなく例外的な事件を除けば起きにくい筈ですし、組織の隠蔽も可能な物と困難な物が有るのは当たり前です。
 現実の「報道」という制度が「事件や問題を伝える」という形である為に例外的な事態が「目に付く」事は多く、結果的に少なくはない人達が製薬会社や医者を創作物の中にある虚構の存在に近いと理解しています。
 「こんなものだろう」と刷り込まれてしまい医療不信を助長している部分は否定できないでしょう。
    
 日本政府や外国の政治機構は「見えない強い力で裏から動かされ」「陰謀を張りめぐらせる」のが普通で、政治家や官僚や資本家は私利私欲のためだけに何でもしますし、エリートは傲慢で卑怯、役人は怠惰で強欲、学者は頭が固く世間知らず、司法は機能せず、社会制度を不正に用い寄生している「連中」はのさばり、外国人は「我々」を憎んでいます。
 勿論そういった事も一部では存在するでしょうし、どんな人間集団でも問題のある個人は存在します。
 現実では例外的な「事件」であるそういった事が作品の中では主題として大きく取り上げられ「事実」として示されます。
 創作物においてはこういった人間や社会の造形は「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」という前提の下、強調・誇張された表現として描かれるのが認められています。
 しかしそういった創作物が「一面の真実」として取り込まれる事で、前提としての事実関係の認識が結果的に歪んでしまう可能性は否定できません。
 作品単体では創作物として妥当な虚構であっても「本気にする人」が存在します。
 
 医療については怪しげなニセ医療の前提に共有される概念と同じ部分が多く有りますし、乱暴な「医療制度改革」論の前提として現実の政治の中で発言力を持つこともありえます。
 事実関係を丁寧に確認しない人や都合の良い情報のみを拾い出す人の「隠れた前提」として影響があるとする理解は否定できないでしょう。
 明らかな創作物に対し「本気にする人が居たらどう責任をとるつもりだ?」と感じる関係者は少なくはないでしょう。
   
 このブログでもよく取り上げる「歴史」の創作物についても同じ点があります。
 歴史小説などの創作物は現代では基本的にその時代のわかっている事実関係を基に創作者の想像力や思想を描き出すものです。
 多くの事実関係については「歴史」に沿いながら、同時に基本的には客観的には根拠のない部分についても作者の想像や願望、物語として必然性を感じる「虚構」を混ぜ合わせて書かれ、「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」筈の創作物として取り扱われます。 
 人物像の解釈や人間関係、記録のない行動や発言について虚構を混ぜ合わせることが容認されています。
 所謂「歴史小説」から「時代小説」「伝奇小説」といった形で内容の虚構の範囲も広げることも認められ「歴史エッセイ」等を名乗る推測や憶測を混ぜ合わせた事実上の虚構を発表する事も特に問題とはされません。
 「学問」としての歴史は古くはそういった創作物との範囲もあいまいでしたが、近年では推測の部分と根拠の存在する部分についての区別が求められます。特定の信念や主張にのみ都合の良い「歴史」というものは存在しない筈です。
       
 創作物として用いられる歴史は「特定の信念や主張にのみ都合の良い」として操作されたものであることは建前としては自明です。
 実際に「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」という但し書きをわざわざ入れている物もあります。
 ある有名な作家は自分の作品で人物像を造形した英雄が現実の人物そのもののように扱われることに違和感を表明したとも聞きました。
 しかしそういった歴史を用いた創作物がまるで現実の様に扱われ社会に影響を与えることもあります。
 「織田信長」を行き詰った現状を突破する時代の先を見据える近代人的な英雄としてみられる事もあり、「明治維新」が壮大なビジョンと先見性を持つ成功の約束された改革であると考える人は少なくはないようです。
 このような「虚構」から生まれた…少なくとも事実関係としては「そのように断定する根拠はない」想像の産物のようなイメージが、現実の政治の役割として理解される場合があるのは事実といえるでしょう。
 本来の「歴史小説」の共有されるべき文脈としては現実を基にしている物の具体的な部分については作者の想像や、商品としては受け手のニーズに見合う形で虚構である筈ですが間違いなく「事実である」と混同しやすいものです。
     
 自称「竜馬」や「維新」といったものはその意味では「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」レベルの印象を現実の社会に持ち込んだといえるでしょう。
 現実の歴史的な事実として根拠が示せる範囲を超え自分達の都合の良い誰か(自分自身も含め)を英雄や志士になぞらえる事はよくある話です。
 ある種の自由経済主義者やリーダーシップ論者が現代社会と比較する「ローマ帝国」や自然派復古主義者の求める「江戸時代」も同じようなものです。事実の一面のみを都合よく解釈・再構成した創作物に自分の都合を読み込み、自己の主張に沿う事実の根拠として修辞として用いられます。
 本来は虚構であるという大前提が有りながらも社会に影響を与える可能性があります。場合によっては実害があるかもしれません。
 「本気にする人が居たらどう責任をとるつもりだ?」これが妥当ならば歴史を用いる創作物の内容には大きな足枷がはめられるでしょう。
      
 ここまでは基本的には表現の自由言論の自由について創作物の虚構を見極めるべき受け手側の責任を重視する、自由を重んじる立場で書きましたが、それだけで済むとは考えていません。
 むしろ表現と言論の自由を守る為に寧ろ否定的に扱われるべき虚構も存在するとは考えます。
             
 それは「ヘイト」に関わる表現です。
 「ヘイト」とは敵対心を表す言葉でもありますが、言論においては通常「憎悪・憎しみ」を表す概念で「ヘイトスピーチ」とは所謂差別発言でその個人や集団の属性をあげつらい貶め、対立や暴力を煽るような言動です。不当に人を傷つける言論や表現の事です。
 「虚構である」「この作品は現実の人物、団体、事件とは一切関係はありません」といった言い訳であってもそういった表現は「市民社会」としては容認されるべきではないと考えます。
 憎しみや対立は寧ろ表現の自由言論の自由そのものを危うくします。
 具体的な暴力として現実に社会問題化しているのだとすれば何らかの抑制策も講じられるべき場合も有るでしょう。
                   
 しかしこの点についてもとても難しい部分も有る事は否定できません。
 一般に「少数者」「弱者」とされる人たちを極端な形で悪人や敵として表現することには問題があるとは考えます。その人達の属性そのものが悪であるとする表現は避けられるべきです。
 とはいえ「少数者」「弱者」は相対的なものでもあります。事実関係によっては立場が変わることにもなります。
 例えば日本の公務員は強者なのか弱者なのか、日本では少数派の韓国・朝鮮系の人たちも母国では多数派で、東南アジアの多くの国では中国系の「華僑」は少数派ですが支配層でも有ります。
 極端な表現で明らかな「ヘイト」は存在しますが、社会的な事象を取り込む形の創作物ではどこまでが「問題」なのかを容易に決めることは出来ません。
  集団の場合「弱者」という立場を誤用する個人も人間ですから間違いなく居ます。「弱者」を無垢なイノセントとするのもある種の差別です。
 それを根拠に「弱者が権力者だ」として寧ろ非難されるべき集団であるとする主張は存在します。陣取り合戦や非をあげつらう罵り合いになる事も有ります。
              
 これ自体が「政治的」な問題として持ち上がる事もあります。
 特に政治的な風刺はタブーに切り込むもので、多くの民主主義社会では容認されていますが、問題になることも有るでしょう。
 「弱者の味方・代表」を名乗る政治勢力への風刺を「ヘイトスピーチ」とするべきなのかは簡単にはいえない場合もあります。言論の封殺に政治的に利用される可能性は否定できません。
 例えば表現そのものの善意や悪意を問う事が出来るとするなら多数派の不快感を感じる表現を封殺することも出来ます、「多数派」の中の「弱い個人」を要求の主体とすれば主張は可能です。「愛する素晴らしい指導者同志」を揶揄されると不快でしょう。
                
 「不当とは何か」という点には簡単な答えはありませんが、不当に人を傷つける表現・言論は虚構であっても社会的に問題が有ります。
 だからといって「傷ついた人が居る」というだけで問題視できるとするのも簡単では有りません。
       
 明らかに虚構であり直接の被害者の居ない創作物でも「人を傷つける表現」は存在します。
 所謂「非実在青少年」といわれる性表現における虚構の創作物についてです。
 勿論ですが「絵」に描かれただけの「青少年」や「児童」に対する性的な「表現」は虚構です。それ自体は何の被害を生み出すものでもありません。
 しかし実は一つだけ「事実」が含まれています。
 それは充分に「子供達」を不当に傷つけるだけの暴力性が存在します。
      
 それは、そのような表現が存在し「子供達を性的な対象として見る大人たちが居る」という事実を示すという点です。
 個人差はあるでしょうが存在それ自体が子供達には不快でしょうし恐怖でもあります。
 幾つもの創作物では暴力や虐待を用いる形での「子供達」への性表現も存在します。
 「この児童に見える非実在のキャラクターは実は成人だ」といった言い方もありますがそれが子供達の不快や恐怖をなくす物ではありません。
 何らかの不運でそのような創作物を目にしたり存在を知った子供達には耐え難いものでしょう。勿論そのような物が存在することを知っている親御さん等にも充分に不快なものです。
 いわば「虚構でありながら不当に子供達を傷つける表現」です。
 表現そのものの悪意や悪趣味の存在は充分に読み取れます。。
 通常は「ゾーニング」といわれる子供達の目には触れないように区別した形での存在が日本では認められています。
 しかしその虚構は「子供達が本気にして傷つく」だけの力のある表現物です。
 他の多くの性を扱う虚構の創作物でも「本気にして傷つく」側面は有ります。
 規制をすべきだと考える人達には充分な理由にもなります。
   
 当然ですが如何なる「学説」も構造としては「仮説」であり、あらゆる「論」も「提案」や「主張」でしかありません、「報道」も「記録」も現実の全てを記した物では有りませんし目に映る「事実」ですら何らかの一面でしかありません。
 ありえるのは何らかの根拠による「確からしさ」でしかなく、そういった何らかの情報に基づきそれを伝えたり行動に移したりするのは基本的にはその個人の責任においてのみです。
 「間違いのない情報のみが表現されるべきだ」とするなのは一つの理念ではありますがそれを絶対視した場合には表現そのものの本質を見ないものです。
 十字軍やナチスの蛮行に用いられた「聖書」やテロリストの狂信や専制国家の道具にされる「コーランクルアーン)」。
 人を救う経済の学説でありながらスターリン主義毛沢東主義ポルポトを生み出したマルクス
 「本気にする人が居たらどう責任をとるつもりだ?」とするならこれらも排斥できるでしょう。
         
 「伝言ゲーム」によって原典の虚構であるとしている部分が失われたり改変され「デマになる可能性がある」等といった主張はそれこそ言い掛かりに過ぎないでしょう。まともな仮説が「伝言ゲーム」でデマ化したり妥当な報道の「結果的には正しくなかった」部分が一人歩きする事はよくある話です。
 それこそ科学者が書いたSF小説の敵役の詭弁を切り取り「科学者自身の主張だ」とでもいわれるのなら表現の自由すら脅かされます。
 「(本気で)言っていない証明をしろ」というのは本人でさえ無駄な負担になり、例えば著名人らの物故者の発言を捏造・改変した場合等は証明が不可能に近いのはいうまでも無いでしょう。それこそ歴史小説などは書けません。
 「伝聞」であっても何かを伝える場合の第一の責任は発言者自身にあります。
    
 どのような虚構の表現物にでも「本気にする部分」「人を傷つける可能性のある部分」は存在します。
 如何なる表現も人間の「欲望」や「自己顕示」がある事をもって否定する事は可能です。表現を指して意図のみを問うのは悪手です。
         
 ただその部分のみ指して批判するのはそれほど説得力のある主張とはいえません。
 表現の自由言論の自由が必要とされる社会では社会全体の中での兼ね合いとしての総合的なバランスを忘れるべきではないでしょう。
 誰かを「黙らせる」事を目指す活動は危うい物であるという自覚は必要です。
 可能な限り言論には言論で対抗すべきでしょう。
 「その一点は正しい」部分のみで複雑な事象を二分法的な理解が出来ると考えるのだとすれば、すでに何らかの認知のバイアスがある可能性を自分の中に確かめるべきでしょう。
        
 嘘一般については此方で述べています。
>「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」と「ニセ科学批判」についての見解
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20110116/1295105034
           
 現実の社会の情報としては「事実」のみを並べてはいますがそれが恣意的に選択され真実を示さない場合もあります。報道等での誘導も見極める責任はあります。
 それが虚構であれ事実であれそれから真実を見分けるというのは近代の市民にとっては少なくともベストを尽くすべきであるという合意は近代社会と民主主義、自由、人権をも守るための基本的な原則です。
 「リテラシー」は不可能なのかもしれませんがそれは逃れられないものです。
 特にそれを誰かに伝える場合には伝える側にも間違いなく責任は存在します。
 表現の自由言論の自由を守るのは市民のリテラシーであることも忘れてはいけないでしょう。