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リテラシーと理解について考える

良心的な価格

 安易に嗜好品の販売価格について値段が安いことを「良心的」と書いたり、社会的な評価の向上や経営努力による価値の創造、需要の拡大による価格の上昇を「便乗値上げ」と書く人がいるのは個人的には我慢がならないです。
     
 最初に申し上げておきますが何らかの「善意」で値段を安くする事もありえますしそれも常識の範囲なら正当な商行為です、工夫や努力で価格を安く抑える経営は正しい経営です。
 独占業者の便乗値上げやカルテルなど違法な価格操作は問題がありますからそういった行為については適切な論評は社会的には何の問題もありません。
      
 生活必需品についての市場を独占乃至は支配的な立場の売り手が根拠を明らかにしないで代替品が事実上存在せず選択が不可能な場合での不当と考えられる過剰な利益を求めるのは問題があるのは明らかですが、充分な競争原理が働き、「嫌なら買わなくてよい」「別の商品・店舗でも充分に代用が可能」「飽きたらもう買わない」「興味がない人には価値がない」物の値段については売り手の自由裁量による価格の設定は当然の権利です。
 経営者は事業や雇用についての責任を持ちます。競争原理が働く限り自らの信用は自己責任で維持されます。
 「良心」のみに基づき「安価で提供する」「値上げをしない」事を求めるのなら何らかの責任を負うべきです。
                      
 何らかの理由をつけて「タイミングを見計らって」「理由付けをして」値上げをするのは寧ろ社会的な抑圧に対する止むを得ない対応です。
 「従業員の生活水準向上のために値上げします」「経営基盤の安定のために値上げをします」「当社の商品は他社の商品より優れているので値上げします」といった市場経済では当然の理由での「値上げ」が特に中小企業や個人商店では認められない社会である事に問題があります。
 その様な理由だと消費者が良い気持ちにならないというのは仕方ないのかもしれません。
 ですが場合によっては累積的なコストの上昇やリスク管理のために時機を見てまとめて値上げをせざるを得ない場合もあり、仕入れの相場や何らかの再投資等の経営上の理由の必要にあわせて「自己責任」での価格決定権を持つ事が当然認められるはずです。
              
 価格を低くするのは市場原理による価格競争についてか「信用」の獲得や市場の確保といった経営方針です。
 価格が低い事が経営努力によってなされる事もあるように値上げが長期的には適切な市場を維持し、消費者の利益になりことや社会的な役割を果たす場合もあります。
 消費者に自由な選択が可能な場合には値上げはそれ自体「悪」ではありません。価値の創造を批難する理路は不当であると考えます。
 「良い物」が値上がりする事は不当ではありません。「価格に見合わない」と感じたのなら見捨てればよいだけです。
 より「見合う」物を見つけ出したり紹介する事が適切な論評です。「価格が不当」とするなら正当なものを示すのが論拠になります。
 品質の向上を理由に値上げをするだけではなく市場価値の上昇についても価格を判断する根拠になりえます。
 それは売り手の自己判断でも不当ではありません。
 嗜好品については適正な商品を適切な価格で供給した場合でも消費者の嗜好の変化や代替品可能な商品の登場、他の外部条件などの供給者の責任の範囲ではない形での市場の縮小などでの不安定要因が有り、基本的にそれは経営者の自己責任での対処が求められます。
 特定の「アイテム」ではなく同等の役割を示す他の商品が事実上存在するのなら価格設定は当事者それぞれの責任と権利で行われるべきです。
     
独占禁止法の概要 公正取引委員会
 http://www.jftc.go.jp/dk/gaiyo.html
 http://www.jftc.go.jp/dk/qa/
      
>「便乗値上げ」と市場の機能(1)  そもそも「便乗値上げ」とは何か? SYNODOS 清水剛

最初に問題となるのは、そもそも「便乗値上げ」というのが非常に曖昧な概念である、ということである。基本的には非常事態において、とくに生活必需品について値上げをする、というような状況を意味しているが、それは通常の値上げと何が違うのだろうか。
       
ここで考えるべきポイントは「非常事態」と「生活必需品」のふたつである。ここで、非常事態とは、天災やテロリズムなどにより生産が途絶、あるいは急速に縮小している状況を意味する。もし生産量をすぐに拡大でき、財が安定的に供給されるのであれば、「便乗値上げ」というのは問題にならないから、このように考えるのが自然であろう(なお、経済学の教科書に出てくるような競争均衡モデルにおいては、財の供給は柔軟に変化することが想定されている)。つまり、このような状況においては、財の供給をできるものが限定されており、財の供給量にもかぎりがあることが想定される。
     
もうひとつの生活必需品、すなわちたとえば食品や衣服、石油やトイレットペーパーのような生活を維持するのに必要な商品、ということであるが、生活必需品でない場合には後で生産が回復するまで待つことができるのに対して、生活必需品の場合には、生産が回復するまで待つことができないという違いがある(いま食事をせず、あとでまとめて食事をする、というわけにはいかない)。
          
すなわち、「便乗値上げ」とは、消費を後回しにできない財について、財の供給者と供給量が限定されている状況における値上げ、と整理することができる。
 http://synodos.livedoor.biz/archives/1714704.html

                           
 他の人から見れば取るに足らない仕事でもそれほど簡単に上手くいく訳でもなく、それなりの苦労や努力によりなされています。
 もちろん幾らかの幸運や周囲の協力や支持を得る事も必要になります。
 しかし結局は経営者の責任において経営はなされ失敗の責任も負うことになります。従業員の生活や取引先等に対する責任もあります。

 成功者がそれなりに多くの見返りを得るのは正当な権利です。そうでないとリスクを負う形での努力や挑戦を存在させられません。
 それを認めない場合はリスクやコストを自らも分担して背負うべきです。逆にそれが「公共」の役割です。
                  
 優越的な立場を利用して従業員の賃金を抑えたり取引業者に無理を押し付けたりする「良心的」な経営もありえます。
 単に他の収入源がある事で価格を抑える事ができたり、資産があるので「半分趣味」でコストパフォーマンスを上げたりもできます。
                        
 特定の消費者にとっては都合の良い事なのでしょうがこれを「良心的」とする事には違和感があります。
 現実に価格について「良心的」と述べる方で価格の根拠を理解している方は多くはありません。
 リスクやコストの負担についてのまともな経営の実態を理解して「良心的」と述べる方は多くありません。
 自分や「消費者」をイノセントの立場であるとして「あいつら」が自分たちに利益を与える事のみを求め、相互的に存在する社会的な責任分担を理解せずに無自覚に「搾取」を行う事を正当化しているようにさえ見えます。 
 自己責任による経営方針について「良心的」な人たちの生活に責任を負わないのなら「良心的」等という言い方で「良心的でない」価格を暗に想定した論評を行うべきではありません。不当とはいえない利益を得る事を「良心的」では無いとするなら言論による暴力です。
 目先の自分の利益に適うもののみを「良心的」とする価値観は中立的でも客観的でも有り得ません。私利に基づき人格を評価するものです。
        
 より低賃金で高度な内容の仕事をしリスクを負い過重な労働をするのがより「良心的」であるとするのなら人格論を盾にした搾取にほかなりません。
 現実にその意味で言う「良心的」な業者は自営業・中小企業や流通・サービス業などの労働組合が存在しないか有ったとしても機能していない企業などを指す場合も多いでしょう。経営内容も理解せずに価格を云々するのは社会人としては如何なものでしょう。
       
 ちなみに「ぼったくり」とは本来は市場価格と異なる法外な価格を強要するもので、表記された形又は社会通念上想定される商品やサービスとは異なる、常識的な対価とはかけ離れた金額を、同意に基づかずに要求するものです。
 揶揄として割高に感じた商品をその様に表現する事は可能でしょうが、明記された価格で想定された内容の商品を売る場合には基本的に当てはまりません。面白くない作品や美味しくない料理は基本的には「ぼったくり」ではありません。
 それに絵画を紙の値段と画材の原価から「ぼったくり」とするのは難しいでしょう。市場価格からかけ離れた価格を嘘を用いて売る場合には当て嵌まるでしょうが、「手間賃」や「時間給」を理由にできるなら水墨画や書の価値まで否定できます。
 自分に価値が理解できないものを「ぼったくり」というのならそれは社会的な意味合いを持つ批判ではなく個人の価値観としての特定の文化に対する否定でしか有りません。
                                  
 繰り返し書きますが生活必需品を独占的に扱う場合を除いては「便乗値上げ」という言い方は感情的な非難の域を出ません。
 適正な経営努力を行い市場原理が働く世界においてその様な非難は不当です。
 このような言葉を使われる側は「相手側」を道徳的にコントロール出来る概念なので都合が良いのかもしれませんが、ルールに則って社会活動を行う正当な業務を行い、責任を負って取引を行う側に対する中傷にしかなりません。
     
 値段が安いのは経営方針であって「良心的」だからではありません。基本的には経営戦略に基づく自己責任での価格設定が行われます。
 嗜好品についてはその商品の特性や役割を前提にせず、経営方針や責任を理解せずに価格を論じる事は幼い感情論でしかありません。
 嗜好品の内容について「価値が無い」とする論評は社会的な倫理ではなく自分自身の価値観に対する信用により行われれば良いでしょう。
 立場に基づき利害を強要する形での相手の人格を担保とする言論は不愉快です。
 常識的には正当な理由も無く安値で販売し他の業者の経営を圧迫するのならば「ダンピング(不当廉売)」にあたり寧ろ不当なビジネスだとも考えられます。 
         
 少なくとも「市場原理」がはたらいている場では価格は当事者相互の必然によって価格は決まります。
 物不足の時代や状況における市場観や商業観をもとに選択可能な市場を批判し、「政治」的な優位を得る形での「立場」から現実にはより立場の弱い側に圧力をかける事にもなり、社会の紐帯を弄ぶ形になり得る論理です。
 「敵」を想定し「対立・闘争」を前提とする「論理」は近代社会の論理だとは思えません。         
 特殊な条件でしか成り立ち得ない理想的なモデルを前提に相手側を道徳的に非難することで優位に立てるとするならそれは「政治」的な主張に他なりません。
 価値を道徳とする姿勢はむしろ「道徳的(政治的)に正しい」が「価値の低い」商品やサービスの跋扈にも繋がりかねません。
 事実上選択が可能で文化的・社会的な意味を持つ嗜好品については消費者にも当事者としての責任が存在し、選択や発言にも主体的な役割が必要とされるべきです。安易に「被害者」の立場に逃げ込み無責任な「道徳」を振りかざす「イノセント」を気取る主張には価値が有るとは考えません。
                               
 言論界や科学や医学、場合によっては労働や社会、時には「経済学」についてまともな事を書きながらもこのような発言をする方がいるのは残念です。このような事を述べられる論者の「立派な意見」には個人的には説得力を感じません。
 もともと「良心的」なつもりの学者や研究者、医師や教師・公務員等の方はご自分たちが今社会から受けている批難や「仕打ち」がある部分においては「(金銭的に)良心的になれ」と言われているのだとは理解してはいないのでしょうか。
 生活経済についての理解は現代の社会においては市民としての責任ともいえます。
 「価値を問う」事は「価値感を問われる」事でもあることを忘れてはいけないでしょう。