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リテラシーと理解について考える

「幻の酒」プレミア価格の事情 その3(プレミア酒についての私見)

>その1 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120229/1330525525
>その2 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120301/1330531042
      
 この「問題」の「すれ違い」の前提となるのが「酒」(等の食品工業生産品全般がですが)でも「製品」は「出来上がり」を想定した形の「酒質設計」が行われる、という点です。
 想定されている価格やテーマ、商品としてのランクや役割を勘案して造られています。 
 高級酒は高額な原材料を多くの場合手間と時間を掛け、コストの掛かる、掛けないと出来ない商品である事が多い筈です。
 清酒だと米自体が高額な「山田錦 吉川特A地区産」等といった高額な「酒造好適米」で米の芯の部分だけを用いる「精米」を行い、仕込にも手間を掛け、使用が難しい酵母を用い、低温で時間を掛けて発酵させる「吟醸大吟醸」といった造りとそうでない比較的に低コストの商品は最初から別個に造られます。
         
 多くの「幻の酒」の生産者は標準的な製法よりも手間とコストを掛ける造り方をしていますが、それは勿論現実的な範囲でしかありません。
 清酒1升瓶2,500円程度の標準的な商品は他社の同等品と本質的には大差ない「造り」ですし、「幻の酒」の生産者ではなくとも品質の高い生産者は多くありますし、多くの生産者はそれなりに誠実に努力しています。 
 もちろん多くの「幻の酒」の生産者は多くの場合技量も優れていますし、比較をすれば品質は高い筈ですが極端に違いがある事は殆ど有りません。
 「幻の酒」であっても生産者が想定している価格よりも高額な「プレミア」がついた価格で売られると値段に見合わない商品となります。言うまでも無くこれは本来は生産者の責任では有りません。
         
 幾ら「腕が良い・品質が良い」とされても「生活用品」でもある通常の酒の枠組みではそれ程誰にでも目に見える違いは有りません。
 そのジャンルでありえる材料とコストに基づく産品に過ぎません。その中で可能な「素晴らしさ」です。
 銘柄としての「幻の酒」が良いものだからといってそれこそ本醸造普通酒クラスのものがプレミア価格である場合に同等の価格の吟醸酒にかなう物では有りませんし、プレミア焼酎はその値段では年代物のシングルモルトやバーボンやコニャック、マールやグラッパ程のものではありません(定価で同等の物にはそれ程負けないだろうが)。
         
 その辺りを過剰に解釈し、いわば極端な「良いもの」と「劣ったもの」が存在する様に語るのはある意味ではセールス・修辞的な方法に過ぎません。現実には段階によって繋がる「程度問題」の違いでしかありません。
 どちらにしろ所謂「ブランド志向」をもたらす人間の認知の構造がもたらす必然です。
 これは嗜好品を市場経済で流通させる場合には避けては通れない「偏り」です。
 
 たとえば味であれ音楽あれ映像であれ文化的なことを語り、論評する場合に「まず本物を知るべきだ」という価値観は有りますし、それは「知」について語る場合に「これまでの研究の蓄積を知るべきだ」というのと変わりません。全体像又は「本質」を把握しないまま語ることが知的怠慢とする理路は一般には妥当です。
   
 なんらかの意味を持つ価値判断を行う場合に「スタンダードを押さえていないと語りえない」とする基準は珍しくはありません。
 「本物を知る」事が評価能力を担保すると考えるのは不自然ではないでしょう。
     
 比較的簡単に「本物」にめぐり合う為に知名度の高い「ブランド品」を用いる事は不当とは考えられません。
 音楽であれ書物であれ衣類・装飾品であれ人間関係であれ「自分」の在り方を感じるために「本物」を求めるのは人間の自己顕示として否定されるものではないです。
      
 文字や映像やプログラムだと等価の製品を追加生産する事が比較的に容易な再現性が高い「商品」である事が多いですでがある種の「工芸品」の場合は簡単に複製生産する事は出来ません。
 絵画などでの場合でも「ポップアート」と呼ばれる運動では芸術の「再現」が試みられましたが、それと現実には「対立する」形の「オリジナル」や「限定品」といった価値を「新たに」発見する文化が求められる志向は寧ろ拡大しているとも考えられます。
    
 「文化資本」と呼ばれるらしいですが、より限定された「価値」を理解する事が「資本」としての価値を失う事は有りませんでした。 
 より限定された「本物」を知る事の値打ちはこの先も増える一方でしょう。
   
 こういった文脈において少量限定生産の「幻の酒」は「生活用品」と「ブランド品」という価値の狭間で消費者の自己認識や表現、知るべき「教養」又は文化的「通過儀礼」、打倒されるべき権威、「スノビズム(俗物根性)」としてのイメージを負う形で語られる事が避けられないでしょう。
    
 ワインの場合は生産者と流通業者・輸入業者の契約的な直取引、ワイン商(ネゴシアン、クルティエ)やエージェントを通じた間接的な取引も有りますが、ボルドーの「フリーマーケットシステム」と呼ばれる「入札」に近い販売方式が有り、そこでランクや評価による市場的な価格の決まりかたが有り、他のワインもそれを前提にその位置づけやブランド価値によりある程度価格に反映させる事が容認されています(これが上手く行っているとも言わないが)。
 人気のあるブランドを確立させれば利益率を上げる事が可能です。
   
 日本の「幻の酒」の多くはその意味では「良心的」で生産者はその酒の生産コストによる「特定名称」等の「ランク付け」からそれ程外れない価格しか付けていません。
 「市場価値」はそれ程反映されてはいません。
 その、ある意味では「矛盾」の部分を「利用」する形で「プレミア価格」は存在します。
 敢えて言えば「プレミア」は市場経済的には寧ろ正しい行為です(手続きの不備や酒販の免許がない人の「転売」は違法乃至は脱法行為の場合もあります)。
 「問題」が有るとすれば不当な生産者への「風評被害」が第一です。
 生産者の利益に繋がらないプレミア価格を前提にその価格に見合う価値を求められる責任は有りません。
 勿論ですがある意味で間違った「本物」を価値観の基準として身に着けてしまう弊害もあります。
               
 こんな風に書くと不快かもしれませんが極端にいえば消費者は自らの価値観に基づく「自己責任」です。
 「その商品を手に入れるためには幾ら出す」は個人の判断として自由であるはずです。
 逆に「原価割れ」したバーゲン品を買う事も認められた自由な消費者の当然の責任です。
 少なくとも今の日本の市場には消費者が選択するに足る充分な商品が流通しています。 
 その気になりさえすれば高品質の商品を比較的に安価で手に入れる事は可能です。
 いわゆる「銘柄(ブランド商品)」を手に入れる事は本来消費者自身の自己判断といえます。消費者自身による「商標」による選択が行われる市場に於ける責任でも有るといえるかもしれません。
     
 もちろんすべての商品の「価値」を正しく見極められる消費者は存在しません。
 形としては「本来」は「目利き」の業者からそれに見合った対価を払うか、品質を吟味し責任を負う「キュレーション」的な活動を行う「キュレーター」といえる役割をになう存在が必要なのかもしれません。メディアや評論の役割の一部なのかもしれません。
 ですから「プレミア価格」が消費者のみの責任ではない事も当然です。
 しかしそれに見合う対価を支払い、極端に言えば「押し付けられる」対面販売等より消費者がほぼ完全な主導権を持ちえるセルフサービス等の販売方法が現代の流通では重要な役割を持ちます。
 可能な限りわかりやすい商標や銘柄での販売は必然です。
 特定の「悪い奴」のいる問題ではなく、制度的に必然的にありえる矛盾そのものです。
   
 現実には殆どの消費者はそれ程多くの銘柄を知っているわけでは有りません。
 供給サイドの努力や工夫ほど多様な高品質の商品についての認知は有りません。
 コメの銘柄すら「選べる」ほどの知識を持つ人は多くはいないと思います。
 一度「出来た」ブランドが一人歩きするのも止むを得ないでしょう。
   
 商標を示す商品として比較の対象とされある意味で不本意なものさしで比較されるのは不当とはいえませんし誤解に基づく論評を述べる権利もあります。
 一度出来た「幻の酒」のイメージから見られるのは当然です。
 商標は毀誉褒貶がある物です。
                        
 逆に「幻の酒」の「権威」を否定するマーケティングや、それを自らの見識として表現する消費者の言説も「幻の酒」が有るからこそ可能だという考え方も出来ます。「高い金を払ったのに飲んでも旨く無かった」「世間では(俗人どもが)有り難がるが俺は認めない」という発言も消費者の権利です。
 消費者が「ブランド物」を有り難がるのも、「通」を自称する人が「幻の酒」を腐すのも敢えて言えば妥当な消費行動でも在ります。
 既にブランドとして確立した「幻の酒」はスタイルを変え難い事も多く新しい銘柄がそれを踏み台にする形で新たなスタイルを創る事も有り、「古臭い」と切り捨てるられる事も有り得るでしょう。
                 
 ただこういった「プレミア価格の事情」としては現代社会の一員である市民としての消費者も単なる「被害者」や「搾取される側」だけではない「当事者」としての責任が無いとはいえないという点も考えられると思います。
 個人の選択を支える自由な市場を適切に維持する責任は当事者全てが担わざるを得ないはずです。
 消費者も市場を形成する一員です。
     
 纏まりませんがとりあえずこの辺で。