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リテラシーと理解について考える

知る学ぶ教わる

 何らかの知識や思考法・論理の体系を得たり認知や解釈の技術を身に着ける為には自力で考えるだけでは普通「人生」は短すぎます。
 物理的に個人の感覚能力や理解能力には限界があります。目には見えない事柄や考えただけではわからない事は多くあります。
 ですから人間の社会というのはそういった情報を伝達する事で成り立ちます。
    
 そういった「知」を得る為の手段が「知る」という事でもあるのでしょう。
 しかしその事柄が受け手にとって簡単に理解できるとは限りません。
 単に情報をそのまま並べれば理解できる範囲は限られます。誰にでも直ぐに間違いなく伝達が可能な情報の提示は不可能でしょう。
 これは情報を「出す」側の問題なのではなく受け手の側の理解力の限界もあります。
 簡単に言うと聞いた事の無い外国語をその場での思考で完全に理解できる人はいません。
         
 「知る」為には場合によってはその情報を理解するための「前提」についても知らなければなりません。共通の前提無しでは「知る」事の出来ない情報もあります。
 その場合その情報は他者の思考や認識等といった合意に基づく込みコミュニケーションの手段や技法も含めた形での「外部」の情報伝達のあり方を自分の認知のあり方と擦り合わせる形で「受け入れる」と考えられるでしょう。
 
 外部の他者の認識のあり方を基本的には一方的に刷り込まれる形になるとも考えられます。
 それを自己の認知のあり方と擦り合わせる事でコミュニケーションが可能になるはずです。
 これを指して「学ぶ」と言ってもよいと考えます。
         
 「学ぶ」といっても極単純な事柄で人間の認知として容易に共有できる情報や人間の機能として誤認し難い情報伝達だけではなく、その認知を得る事がそれ程容易で無かったり、習熟が必要で有ったり、誤解が起き易いものもあります。
 その情報をより妥当な形で認知できる形でコミュニケーションを用いて介入的に伝達するのは効率的な方法です。
 情報や認知において「持つ」側が「持たない」側に優位なコミュニケーションによる介入を行う形式になる筈です。
 基本的には「持つ」とされる側の認知を「持たない」側が一方的に受け入れるという技法です。
 受ける側にとっての「教わる」というのはある程度の介入を受け入れるという面はあります。
    
 「持つ」側が認知の誤認を一方的に正し、前提の共有を「押し込む」側面は否定できないでしょう。
 そこで得た共通の前提に基づき次の認知を得、理解に役立て、「教える」側の立場になり、場合によってはそこから新たな認知を見つけ出す場合もあります。 
              
 これはある意味である種の「思考・内心」への「強制的」な介入といえるでしょう。
 結果的には一方的に「持つ」側に「持たない」側がコントロールされる部分が存在します。
 これが「教わる」という行為の一面であることは間違いありません。
      
 人間同士の関係ではこういった状況においては「権力」的なコミュニケーションは固定的になり易い側面もあります。
 特に「教わる」側が未完成な人間とされる若年の人で「教える」側が「大人」である場合、公共から権限を任された立場である場合には力関係は一方的にもなりがちです。
 介入する側次第で内心や認知を有る程度は操作が可能です。
 間違いを教えたり、「受け手」の内面への過度な介入は行われてはいけません。
 示す情報や認知については全力を尽くし妥当なものでなければなりませんし内心の自由を束縛する関与には慎重であるべきです。
       
 ですから「教える側」の知的誠実さと倫理は常に問われるべきなのです。
 情報の内容についての誠実さと人間関係における倫理は共に存在します。
 教える情報の正確さと内心への関与については高度な倫理を求められる事が教えるという行為です。
   
 「教える」という行為は教える人間の持つ本来個人には属さない「情報」を教える人間の個人に属する「コミュニケーション」によって教えるものです。
 その点が関係性の中で混同され、情報の正しさが教える側の人格の正しさを示すように理解され教える側も情報の修正が必要な場合でも人格的な正しさを否定されるように感じ、修正できなくなる場合もあります。
 教わる側も何(情報)を得たのかではなく「誰から得たのか」その教えた人の「人格的な価値」から学んだと理解することもあります。
 「人格」と「情報の正しさ」との関係が有るのは事実ですがそれのみで考えるのは過大なあり方でそれは「信仰」にもなり得ます。これは本来の「情報を得るため」の「知」とはずれている部分もあります。
 情報を伝える為の関係が必要以上に固定化されるのは「知」とはいえません。
    
 「教わる・教える」の関係性にはそういった本来の目的である「情報を得る」事を阻害する機能が含まれていると考えるべきです。
 「教える」という事と「間違わない」という事と「間違いを正す」という相互に干渉しあう複雑な行為を適切に行う事は難しいのが当然でしょう。
       
 一方では「社会」においてはこの「教わる・教える」関係というのは相対的な事柄です。
 ある点について「教える」側が別の点では「教わる」側であることは極普通です。
 社会的には「教える」事は一部分でしかなく全く異なる行動原理や思考の形式は多く存在します。
 所謂「知的活動」とはされない「知恵」や「知識」「見識」を持つ人も多くいます。
       
 物事の判断や社会的な実務においては知識や体系化された技法としての「知的」な行動だけではなくある意味ではより複雑な現実の人間全般と関わる経済活動や広い意味での「政治」ともいえる社会的な活動の部分が多くあり、学問や科学といった「勉強」といわれる様な現在の知的活動だけでは網羅できない人間の営為が存在します。
 そういった領域では「知的である」事が有用ではなく、場合によっては行動の足かせになる場合もあるかも知れません。
 少なくとも「知的である」事が社会的な役に立たない人もいるのは現実です。
 限定的ではない「知」は存在しません。
 それのみで「世界」を正しく把握出来得る「知」は存在しません。
 「ある」と考えるのならばそれは「信仰」です。
           
 「教える」という行為はその特定の「知」についての限定された「立場」である事は忘れてはいけません。
 限定された状況で限定された「知」を「教える」事しか人には出来ません。
 自分が常に「教える側」である事はありません。
 「知」という「道具」の重要性と限界については慎重であるべきです。
      
 「知」の重要性については勿論理解しているつもりですが「知」という物の取り扱いについて余りに素朴に考える人も多いようにも感じます。
 「知」の価値を自分自身の「値打ち」と思い込み「知」を云わば権力として安易に用いる人も見かけます。
 「知」という道具に振りまわされないようにするのも必要でしょう。