余所で”「わかりやすさ」志向”は昔に比べ強くなったのかを「感じるか」についての事を質問している方に例によって「意地悪(又は電波)」と思われても仕方のないのですがコメントを書きました。
実はその質問以前に”「わかりやすさ」志向”というのが存在するとしてどうなのかと考えるのです。
基本的に事実として戦後一貫して高等教育への進学率は上がっています。戦前は数%であったのが今では半数の人が大学に進学します。
そして物理的に昔の進学率の低い時代の人達は年々減り、進学率の高い時代の人間の割合は増えています。
理屈の上では社会全体の高等教育の分量は増える一方です。当然「わかる」筈の人間は増えています。
そして情報自体も昔に比べ大量に出回るように成りました。
昔は専門書しか無く、ある事柄についてわかろうとした場合難しい専門書を偉い先生から教えてもらわない限り「わかる」事はできないとされてきたと考えられます。
しかし近代には一貫して出版などの情報提供が行われ続けそれらは事実として蓄積され続けています。
優れた入門書も多くなり役に立つ参考書やインターネットなどの情報機器を介した学習は比較的に容易になり「わかる」為の材料そのものは増えています。
「わかる」筈の人間が増え「わかる」為の材料も増えているわけです。
ですから「相手がきちんと説明すれば、自分がわからない(理解できない)はずはない」というのは事実としての根拠は有るとすることが出来ます。
理屈としては「わかりやすくなっている」筈です。
乱暴な喩え話ですが、昔(30年くらい前)は女性の進学率も低かった筈です。主婦の場合には大卒は例えば十人に一人とかの範囲で他の人達も「女に学問は要らない」との風潮で育った方も少なく有りません。そこに専門家が素人にはわからないだろう専門知識を示した場合「わからないけど仕方がない」で済まさざるをえないのは当然です。何をどう調べて良いかわからず周りにも聞ける人も少ないでしょう。
今だと主婦でも3〜4割は高等教育を受けていて学生時代に女性でもよく勉強していて、書店や図書館には入門書・解説書があり、インターネットで調べたりも出来ます。周囲ににも「自称くわしい」人(それなりの教育を受けているようにも見える)もいて聞くことも出来「わかる可能性」は高くなっています。少なくとも形の上では「わかりやすくなっている」と考え「相手がきちんと説明すれば、自分がわからない(理解できない)はずはない」事は「志向」ではなくそれなりの根拠があります。
「わかりやすさ志向」が強くなっているのではなく事実として形の上では「わかりやすくなっている(筈)」なのであって、そのように見える事象が存在するにしても「志向」ではなく必然的な反応だとも考えるわけです。
噛み合う話ではなくその質問自体への反論だとかではないのですが今の時代で「わかりやすさ志向」に見えない状況のほうがおかしな事のように考えられます。
”「わかりやすさ志向」が強くなっている”とする認識があること自体の前提がよくわかりません。