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リテラシーと理解について考える

人は間違う

 社会や人間を目的に基づきある程度理解するにはそれなりに穏当な手段である修辞学的な論理が、事実関係を正確に認識する為に用いるには限界があり、その矛盾を無理に辻褄を合わせようとした場合に何らかの(敢えて言えば)迷信的な解釈を必要とするわけです。
 何らかの専門的な高等教育・科学教育・思考訓練を受けていたとしても人間の認知に限界があり、何らかのバイアスが存在する可能性が残るのですから常にあらゆる間違いが存在し得るはずです。
    
 人間がリスクのある現実を生きる残る事を目的に進化してきた知能というシステムが、その基本的な必要性の限界を超えた事柄に対し適切に対応できないのは止むを得ないのが本来でしょう。科学的な認識は人間本来の認知機能の性能を越えるとでも考えるべきでしょうか。
 その人間の限界を一部でも限定的に制御しようとするのが現代的な知性という物なのでしょう。
      
 ある点で適切な知性を示した人が別の部分では迷信的な認識に引き摺られることや、状況において知性を見失うこと自体は人間として当然でしょう。
 敢えて言えば加齢による認識力の低下や利害当事者としてのバイアス、面子やプライド等や人間関係を守るための欺瞞も人間には避けては通れない事でしょう。
     
 技術的な問題としてはその状態から如何にして知性を取り戻し得るか、又は修正訂正が可能な形での状況認識を持たせられるかの部分でも有るのかも知れません。
 矛盾した無理な論法でもそれが必要な場合には違和感を感じることもなく持つことは出来る筈ですし、より重要とする何かを守るためには強固な信念として抱え込まざるはえないでしょう。
     
 それらを一つ一つの論点を潰し、主張が成り立たなくなるようにしたとしても守るべき信念がある場合にはそれを変えること難しいです。
 価値観的な解釈と事実的な認識は最終的には異なるものですが人間の認知はそれぞれを厳密に区別できない様です。複合的に組み合わさった複雑な事象もありそれを事実的な認識のみで行うことも寧ろ不利益に繋がる事も有ります。  
  
 正しい答えはなく適切な手順と確からしい事柄しか無い「世界」は居心地が悪くそれだけでは人の生きられる世界では無いのかも知れません。
 人間の存在そのものの矛盾を認める事から現代的な知性は有り得るとしないといけないのでしょうか。