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リテラシーと理解について考える

敬意

 賢い人が書いたらしい文章を読みました。

敬意や尊敬は獲得する物であり強制する物ではない。
敬意や尊敬を得るのに教育や強制が必要な物は敬意や尊敬に値しない事の証明でしかない。

    
 敬意とは基本的に全ての人が全ての他者に持つべきものだと思います。
 その相手や立場、集団が基本的に害悪ではない場合には程度はともかく「最低限」の敬意を持つのが現代の平等・対等を重んじる社会に於いては必要だと考えます。
       
 敬意には個人的な敬意と社会的な敬意があります。
 個人的な価値観に基づく敬意のみを敬意とした場合には力関係において優位では無い対象に敬意を持つ必要がなくなります。
 敬意を持たないほうが利益を得る場合には敬意を持つことは余り有りません。
 敬意を持たないで良い理由などは幾らでも探し出せます、少なくともその本人の具体的な過ち以外の部分を理由とするべきではありません。
 それ以外の場合は敬意を持てないことを正当化すべきではありません。
      
 勿論、権力や権威による過度な敬意の強制を許すべきでは有りませんが、自分の意思や価値観の表明を相手の責任にすべきではありません。
 最低限の敬意や尊敬は本来相互に持ち合うべきものであるとの建前は寧ろ権威や権力による敬意や尊敬の強制に対する最大の武器で有るはずです
           
 権威と権力を持つ「あいつら」を否定するには便利な論法かも知れませんが、それが弱者に対して用いられた場合には邪悪な暴力にも成ります。
 権力と戦うための論法らしいですが実際には「暴力性」が隠されています。この論法に自分自身の無謬への過信が隠されていることに気付くべきでしょう。
       
 自分を超越的な立場に置き、イノセントを気どるのは自由ですがそれがどの様な意味なのかよく考えるべきです。
 「敵」であっても基本的な社会的な敬意を持つべきだと考えます。
 正義の行使のつもりが差別にも成り得ることを忘れてはいけません。
 言論の相互性を忘れるべきではありません。