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リテラシーと理解について考える

食える 外来生物 追記

http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20110701/1309448935についての見解です。
      
 他にも「食べる」ことの出来る生き物は多く有るでしょう。
 今の我々がこれらを食用と考えないのは歴史的な経緯に過ぎません。
 江戸時代までは日本の高級料理では欠かせなかった干海鼠などは今では殆ど見ることすらありません。食の歴史は必然と偶然が絡みあう形で変わり続けてきました。
 「今食べないもの」は何らかの理由で食品とされていないだけでしか無いのかも知れません。
 自分たちが今「食べない理由」を安易に正当化するのは間違いだと考えます。
                     
 人間の歴史から見て如何に色々なものを「我々」が食べてきたのか今でも食べ続けているのかを考えると面白いです。
 今の多くの日本人が食用と考えない物でも食用とする人々は居て、楽しみとして生きる糧として多くの命を「戴いて」います。
 自分手を汚さない人には単純に「可愛い生き物」や「気味の悪い生き物」又は「スポーツのテーマ」なのかもしれませんが、何らかの形で(植物を含め)命を奪う事で存在する「我々」の在り方を受け入れ、その中からより良い形でそれらに関わり、共に生きる事が人間のあり方だと思います。
 自分を気持ちよくする綺麗事の為に狩猟者(現実には社会に必要)や漁労者、そのほかにも命を奪う仕事を行う人々を否定したり面倒なことを負う立場の方たちを非難する事には違和感を感じます。食のタブーは相対的なもので価値観の表明として用いる場合には慎重にするべきです。
 「美味しい」「不味い」等は文化的な意味合いも多く安易に事実関係についての根拠として用いるのは難しいでしょう。
    
 だからといって狩猟や漁を無原則に認めるべきだとする立場にもありません。
 現在天然記念物とされるトキやツルなど幾つもの種類の野生生物が数を減らした理由には(特に食料不足の時期の)狩猟が大きく関係しているとされ、現在も幾つもの魚種が無計画な乱獲のために「資源枯渇」や種の存亡の危機にあります。
 「食べて美味しい」や「ニーズがある」を言い訳にして安易に乱獲をするのは間違いです。
 感情的な理由だけで不合理な区別をするべきではありません。
 でしたら現実に流通している多くの野生生物…天然魚等と同程度の安全性と経済性がある可食生物については妙なレトリックを用いてよくも悪くも「偶像化」するのではなく合理的に関わることも意味があると考えます
                       
 申し上げておきますがこの文章は特に野生の動物を食べることを勧める意図はありません。
 例えば陸棲の野生動物との接触には感染症の危険はあります。無理に食べる必要はありませんし関わらないことは悪いことではありません。
 御自分が利用しないことは自由ですし、特に狩猟肉の生食は避けるべきだと考えます。
 現実には管理されて生産していない野生の動植物の摂取は含まれている成分の管理が困難なためにリスクが有りことは否めません。
 生息地によっては重金属などの問題も有るかとも思いますし加熱不足や衛生管理の不備による微生物汚染等の心配も有ります。
           
 しかしある種の「食用」が一般的とされる「天然物」と「ゲテモノ」とされる生物が特定の「文脈」に基づく「価値観」であり科学的に見た合理性とは異なる場合があることは頭の片隅に置くことも悪くはないでしょう。
 命を奪うことに対する一般的な忌避感情はおかしな事ではありませんし自分が食用と見ない生き物を食べることに違和感を感じるのは誰であれ有り得る事です。
 ですがその食用が可能な「生き物」を食べ物として扱うことやその文化自体を合理的な根拠もなく否定することは偏見以外の何者でもありません。

 自分達が食用としない食材を「ゲテモノ」としそれを用いる人々や文化を蔑視したり自分の文化的な忌避感を正当化するために偏見を意味付けし文化的な不寛容を意味有りげに語ることを偉いとでも思う人がるのならそれはくだらない「文明人」なのでしょう。
            
我々は人間として自然に依拠し、ひととして文明に依存している事を忘れてはいけません。
 「自然」を自己投影の道具と考えるのは傲慢な姿勢でしょう。それこそ「命を」弄ぶことにもなりかねません。