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リテラシーと理解について考える

天然酵母とは 醸造編

 前の「天然酵母とは パン編」に続いて食品で「天然酵母」が話題となる事も多い醸造について述べます。
        
 特に「天然酵母」という表現がされることが多いのはワインに於いてです。
 「自然派ワイン」という形で語られる、農薬や化学肥料等の利用を控えて造られるワインではそういった「天然酵母」を名乗る物が存在します。
   
 現実には多くの現代ワインでは選抜培養をされた専用のワイン酵母を用いることが多いです。
 選抜酵母は旺盛で安定した発酵を行い、雑菌による「腐造」を起こし難く、クリーンで心地よい香りと味わいで高品質のワインを供給することに役立ちます。

 ブドウの果皮などには元々酵母類が生息しています。昔からワインではその「野生」の酵母が用いられてきました。
 現在でも変わりませんがワイン用のブドウは収穫後基本的に洗浄等はせずそのまま破砕又は搾汁を行い発酵させます。ワインを水臭くしない事とブドウに生息する酵母を用いて発酵させるためです。(水の悪い地域では洗浄したほうが腐造し易いでしょう)
 そのため腐敗果等雑菌が多いブドウで醸造したり、何かの理由で野生酵母がうまく働かなかった場合にはワインにならない事もありました。
 中世には経験的に実用化されていたようですが、多くの雑菌に抑制効果のある亜硫酸塩(二酸化硫黄)に対し多くの酵母は比較的に強いので、発酵樽を硫黄で燻すなどして果汁に少量添加し、果汁の中で酵母が優勢になる様な状態にして発酵を行うようにされてきました。相当改善されたのでしょうがそれでも酵母がうまく働かなかったりする場合もあります。
   
 パスツールがアルコール発酵を酵母が行うことを発見してからも、長年基本的には「野生酵母」を用いる発酵がワインでは行われてきました。20世紀初頭まではワイン用のブドウの3割が畑で腐り、3割が腐造し、残りがワインになると言われていたという話を読んだことがあります。
 第二次大戦後にアメリカ等で選抜酵母を用いる醸造の研究が進みますが、フランスも含むヨーロッパでは1980年代初頭までは殆ど昔とあまり変わらない「野生酵母」を用いた醸造が行われてきました。近年では当たり前により亜硫酸塩に対する耐性が高く、ブドウ品種や味・香り等の条件に合い旺盛な発酵を行う「選抜酵母」が用いられ安定的に高品質なワインを作ることが可能になっています。
  
 一方高級ワインでは個性のある風味を持つことが重要で、特定の産地・優れた生産者でしか表現しえない味や香り等を持つ「特別」なワインが存在するとされ、科学的な手段を用いてそれを再現しようとしても容易ではないと考えられています。
 近代的な醸造技術を用い品種改良をしたブドウを用い、優れた選抜酵母を用いる事で安定した品質での生産が可能になりますが「特別なワイン」を造るのはそれだけでも無いようです。

 ワインというのは特殊な発酵・醸造食品で、ブドウ果汁がもともと高い酸度を持ち、それに果皮に生息する酵母の発酵の際の殺菌力によって、条件さえそろえば「放っておいても」ワインに成るものです。人間が介入するのは基本的にその条件を確実にするという事だともいえます。
 実際ワインは基本的に前近代的な方法でも醸造が可能であり、現代の醸造法もそのプロセスをなぞっているだけです。

 元々近代醸造のワイン生産でもブドウの搾汁段階で亜硫酸塩が添加される白ワインや、場合によっては発酵段階では添加されない赤ワインで選抜酵母を用いる場合でも野生の酵母は生存していて共に発酵を行うと考えられています。実際、発酵の段階によっては活動する酵母は添加された選抜酵母ではない場合も多くあると見られています。
 ワインにおいては選抜酵母が安定的な発酵に大きな役割を果たすのは間違いありませんが、全ての発酵を行うのでは無く野生の酵母や乳酸菌等も活動しているようです。
 その野生酵母等が「特別」なワインの「個性」の部分に何らかの意味を持つのではないかと一部では考えられています。その産地独特の優れた味わいや香りを持つワインに元々のブドウに存在する微生物の生態系が関与しているとの仮説も有るようです。

  
 そこで近年「自然派ワイン」等の一部では選抜酵母を用いない形での「天然酵母」のみによる醸造が再評価されてきています。現在の衛生管理技術を用いた形での生産は、丁寧な選果等条件さえそろえば不可能でも無いようです。
 リスクも高く手間もかかりますが一般的に「天然酵母」のみで醸されたワインにも存在意義があると考える生産者や消費者がいることには一理有るとも考えられています。
  
 とは言え現実には当然ですが腐造等の醸造事故の起きる可能性も高くなります。(選抜酵母でも醸造事故は有りますが)
 問題のあるワインを「自然派だから」等と言って胡麻化して販売する問題もあります。

 「天然酵母」というより「野生酵母」という言い方のほうが適正だとは考えますが(チリのワイナリー、エラスリスではWild Ferment ワイルド・ファーメントと表現しています)基本的には特におかしなものでもありません。
   
>ワイン造りと酵母 WORLD FINE WINES
http://www.worldfinewines.com/yeast.html
     

 ワインとは少し違うのが日本酒やベルギービールや醤油や味噌等での「天然酵母」です。
 これらの場合で用いられることのある「天然酵母」という表現は主として「蔵付き酵母」と云われる物になります。
 ビールの場合は麦を発芽させ麦芽にしてデンプンを糖化させ、日本酒・味噌・醤油は麹というカビの一種で糖化させたものを酵母で発酵させます。
 糖化した材料に、蔵に「住み着いた」酵母類が「自然に」入り込み発酵を行ってきました(前に発酵させた残りを「スターター」として使う事もよくあります)。当然発酵の仕組みのわからない昔は腐造も有り、リスクは存在しました。雑菌の増殖を抑制しにくい日本酒の場合は特に難しかったようです。
    
 現代では日本酒の協会酵母を筆頭に選抜酵母が多く用いられますが古くは発酵蔵に生息していた「蔵付き」の酵母が用いられてきました。現在でも自家蔵で採取した酵母を培養して用いている蔵も少なくありません。
 独特の味わいを持つ「蔵付き酵母」を用いている小さな味噌蔵・醤油蔵は珍しくありません。日本酒の蔵でも少数ですが「蔵付き酵母」を使う醸造法を用いている蔵もあります。
    
 醤油や味噌で用いる酵母酒類とは違い強い塩分のある条件でも発酵を行うZygosaccharomyces rouxii(チゴサッカロミセス・ルーキシィ)や後熟酵母のCandida versatilis(カンジダ・ビルサチルス)という酵母になります。
 味噌の場合は酵母だけではなく乳酸菌やバクテリアなどの多くの微生物が共存する生態系を取り込む形で個性的な味わいが形成されていると考えられます。
 前に作った味噌や醤油を発酵を行うための「スターター」として用いることが多いようです。塩分を多く用いる醸造では比較的に制御し易いようです。
 手間は掛かるそうですが上手くできると安全性に問題もなく風味豊かで食品を作ることも可能です。
        
 ベルギービールの「ランビック」は国際的にも認められている地域独特の特定の地域のみに存在するらしい野生の酵母を用いたビールで、長期熟成もする酸味などの「癖」のある面白い味わいのビールです。
 酵母等を除く多くの微生物の繁殖を阻害するホップを煮込んだ麦芽汁を用いることで現在でも個性的な味を守り続けています。
        
 何れも地域やその蔵ごと独特の味わいを目的とした醸造食品で現在の微生物管理の知見と技術を用いることで個性豊かな食文化を可能としています。
 酵母類による発酵は有害な微生物の被害を受けにくく、問題が起きた場合は比較的見た目や味で確認ができるという特徴があります。
   
 本来は両立可能で、対立するものでは無いかもしれない「伝統的」な手段で「天然」を用いる「人為」と、多くの「知見」に基づくより進んだ「人為」を相互排除的な関係と理解するような認識は不幸な事だと考えます。
 「健康」や「安全」といった即物的な「効果」を求めるような物では本来ありません。

   
※ワインの醸造について一般書ですが参考になる文献を挙げておきます。
>ワインの事典 柴田書店(基本的な部分から解ります)
http://www.shibatashoten.co.jp/detail.php?bid=03533300
>ワインづくりの思想 銘醸地神話を超えて 麻井宇介 中公新書 
(現代ワインの思想について、大手メーカーの醸造責任者で日本と南米のワインに大きな足跡を残した醸造家の遺言です)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2001/09/101606.html
>ワインの自由 堀賢一 集英社
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-780286-8&mode=1
>ワインの個性 堀賢一 ソフトバンク クリエイティブ
http://www.sbcr.jp/products/4797338857.html(国際的なワイン研究家の本2冊です。「自然派ワイン」には批判的な立場の専門家です)
>ほんとうのワイン 自然なワイン造り再発見 パトリック・マシューズ著 立花峰夫訳 白水社
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=02750
自然派ワインについての議論を当事者からのインタビューで纏めた物です)
>ワインの科学 ジェイミー・グッド著 梶山あゆみ訳  河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309252230
(ワイン研究の科学的な成果についての現在の知見を解り易く解説しています)