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リテラシーと理解について考える

嗜好品の商品レビューと言論

 ネットではよく見られる言論の形式として嗜好品としても存在する何らかの「意味」をもつモノに対する受け手(客)の個人としての感想や印象、使用感や取引全体についての実感について述べる一連の意思表明があります。
  
 ややこしい書き方をしましたが基本的にはブログやSNSの記事やAmazonやグルメサイトのような掲示板方式で行われる一般的な「レビュー」という言説一般の事です。
 元々個人的なレベルでの言説としては存在していたのですが「サイバースペース」の拡がりと共に近年特に可視化されてきています。
  
 「レビュー」にも幾つかの形式があるのでしょうが基本的に共有が可能な「機能」について述べる部分だけではなく、特に嗜好品の場合は受け手の感覚的な部分からくる個人的な「感情」についての意思の表明が行われます。
  
 当然嗜好品は本来的には受け手の都合の為に取引がされ、受け手の個人的な都合による解釈や消費が行われる筈のもので、それは最終的に供給者(売り手・作者)のコントロールから離れた物であり、基本的には受け手がどのように感じるか理解されるかについてどうこうしろと指図出来る物ではありません。
  
 ですが当然現実には供給者の都合により情報が提供され印象を操作しようとしますが、受け手はそれも自分の都合で理解し解釈します。
 両者の関係は基本的には不安定で、共通の了解だけではなく都合のよい誤解や都合の悪い誤解が入り交じった複雑な「意味」についての意思の疎通が有るわけです。供給者の意図が過大や過小に受け取られたり誤解が利益になることも不利益になることもやむを得ない事です。どちらかに完全なコントロールが可能なものではない筈です。
 供給側は自らの都合から印象付けを行いますが結果が期待に沿うとは限りません。
 自覚的ではなくとも都合の良い誤解も利用してしまっている側には都合の悪い誤解を排除する事は困難です。
  
 「レビュー」というのは結果的にはその「意味」の遣り取りについて受け手の解釈が表明されるものです。
 受け手の「正しい」解釈や感想だけではなく「誤解」に基づく感想や「期待」と「現実」とのギャップについての解釈がなされる訳です。それは供給者の都合や意図に沿う事もありますが基本的には受け手の解釈は自由です。
  
 嗜好品の感想については何らかの基本的な合意があるという双方の「了解」(現実には「誤解」も含む一方的な物)が前提になります。
  
 形としては受け手が供給者の「するべき」事を推測と願望に基づき決め付け、自己の理解の範囲で評価します。
 それは受け手の理解している範囲での供給者の役割と嗜好品のあり方についての意味や価値や感覚を基本的には一方的に押し付け得るものです。
 意思の疎通としては言論としての公共性に担保されず対価の支払が行われることを前提に受け手は根拠に基づかず表現することが可能です。供給者の意図や「文脈的」な意味に縛られず個人の見解を述べることも不当とはいえません。
  
 受け手は自身の個人的な期待に基づき、自身の理解力の限界を気にせず論評を行う権利を持ちます。根拠を示さず「感じたこと」を「感じたままで」述べることが許されます。
 それが無理解や誤解によるものであったとしても嗜好品の感想としては不当なものではありません。
 前提を理解せず結果に責任を負わない意見表明も問題とされません。
 受け手の見識や感覚が如何に優れたものであるかを表現するためにそれを批判するという手法は「消費」のありかたとしては問題はありません。

 重要な真実や素晴らしい見識が語られる場合も多くあり、供給者もそれに向き合うべき場合も多くあります。
 情報の共有によって正しい選択ができたり指摘により問題が解決されることもあり進歩や発展に寄与する言説も多くあります。
 先ず嗜好品としては受け手の「感想」はそれ自体「アンケート」としての価値は間違いなくあります。
  
 それが専門家や評論家による論評であったりレビューそのものが嗜好品としても消費される存在である場合はその論評やレビューそのものが価値観や意味による判断にさらされます。自己の信頼を求める論者は発言を評価されることに甘んじなくてはなりません。
 本来的には「言論」として取り扱われる事を求める場合は自身の「言論」について責任が伴います。
  
 場合によっては根拠に基づかず理解もしていない「嗜好品のレビュー」であってもそれに共感を感じたり納得したりして受け容れられてしまう事もあります。
 その「嗜好品のレビュー」に触れた者が類似した認識や要求を持ち、認知においてそれが説得力を持つ物として理解され受け容れられるという事は「嗜好」としては間違いではありません。
 批判のための批判、自己表現のための批判も「嗜好品のレビュー」においては基本的には不当ではありません。嗜好品の「消費」のあり方としても容認される範囲です。「話のネタ」や「酒の肴」として扱うことも嗜好品の役割です。
 実際にはそれらのものから多くの利益を享受していながらその在り方を全て否定することも可能です。
    
 嗜好品のレビューは基本的には供給者の意図を理解し意図に沿う感想を述べる責任は有りません。供給者は事実関係についての間違いを除けば反論を行うことは良いことではありません。
 嗜好品の受け取り方について供給者の説明や釈明を受け手が聞き容れることは義務ではありません。
 都合の良い「事実」のみを選択し、自由に解釈し、供給者に要求し、それに基づく「感想」を述べることは嗜好品のレビューとしては不当な事ではありません。外部に発言し間接的に意思を表明するだけではなく、供給者に直接に感想や希望を伝える事も自由です。
 匿名性に基づいての嗜好品のレビューも発言そのものは自由です。供給者に自己の要求を示すことにも責任は問われません。
 受け手の都合だけで根拠もなく前提を決め、それに基づく批判も自由です。
  
 「私」にとって「都合が良い」かだけを基準にして批判することも不当ではありません。
 要求の実現が可能か、要求が公正なものかもそれ程重視されません。
 供給者は自らの判断と責任で要求を解釈できますが要求そのものについて責任は問えません。
 自分の都合による「好みではない」「理解できない」を否定の根拠としても構いません。
 供給者は何らかの広報や宣伝での対応を行うことは出来ますが「レビュー」そのものを拒否することは出来ません。
 勿論そういった言説は少なくとも有る特定の受け手の解釈についての「アンケート」としては価値はあります。
    
 供給者には社会的に容認される範囲での「自己責任」において「自由」な「表現」が認められます。
 基本的には安全で公正である限り本来何をどんな風に「表現」「造形」「生産」し「価値」を決めることが可能なはずです。
   
 何かの言説や意思表明が「嗜好品のレビュー」なのか「言論」なのかが見分けにくい事もあります。
 論評だけでなく「報道」として示されるものや「真実」として伝えられる物の中にも現実には「嗜好品のレビュー」でしか無いものもがあります。発言者自身が区別せずに伝えることもあります。自分でも区別できずに語ることもあります。
 
  言論」として行われる意見の表明が現実には「嗜好品のレビュー」になる場合もあります。
 自分自身の理解が「嗜好品のレビュー」でしか無いか根拠のある意見なのかを見誤ることも有ります。
 ある意見が「嗜好品のレビュー」でしか無いか「言論」と言えるものなのかを判断をするのも「リテラシー」でしょう。