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リテラシーと理解について考える

「正しい」のはだれか 後篇   

 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20101213/1292249805の続き
 見ていて実はこれはその部分の論理や科学思考の問題ではなく「正しい」とは何か「正しくない・間違い」とは何かという、事実の認定や価値の位置づけの捉え方の違いについての対立ではないかと考えています。

 人が「正しい」と考える物は大きく「事実関係的な正しさ」と「社会的な正しさ」に分けることができます。
    
 科学の「正しさ」はこの「世界(宇宙)」の事実を人間の知覚出来るに研究や観測に基づき示したもので、結果ではなく手段やプロセスなので、その時点の科学に間違いがあっても科学そのものは「常に限定的」という前提は有りますが基本的に「正しい」ものです。
 社会的な「正しさ」は何らかの目的や理由に基づく条件付きの「正しさ」です。少なくとも「人間にとって正しい」が大前提です。科学を理由に用いることは有ってもまず「価値観」という文脈に基づく「正しさ」です。
 他にも「正しさは」有るでしょうが、「正しさ」とは基本的には前提や文脈がある「限定的な「正しさ」です。多様な形の「正しさ」が組み合わさって存在しているのが人間の在り方なのでしょう。
   
 しかし現実にはその「正しさ」がどの「正しさ」なのかを区別せず、いちいちどの「正しさ」かを確認せず、社会的な合意として存在する「正しさ」を信頼し用いることも多いでしょう。
 すべての「正しさ」を区別し検証する訳にもいかないのですから現実的ともいえます。内容や意味をを確認せずに「正しさ」を「信じる」事は充分合理的です。思考のコストを下げることが可能でしょう。
 その代りその「正しさ」やその理解に間違いが有った場合には修正がし難くなります、元の「信じている正しさ」を変えるのは困難を伴うのでしょう。「信じる」形の認知を行う思考パターンが多いと整合性を保つ事が出来難いので無理な辻褄合わせをするか、修正を排除せざるを得ない事にもなります。
   
 科学や論理や事実関係の「正しさ」はそれ自体は何の意味もなく、基本的には価値観とも離れて存在すると考えています。科学から「倫理」も「真理」や「人間存在の意味」を見つけ出すことは出来ないでしょう。
 それをどのように用いるか、又はその「正しさ」にどのように向き合うかといった判断が関わって初めてそれが倫理や価値観といった人間的・社会的な意味での「正しさ」になると基本的には認識しています。
 そして「正しい」も「正しくない・間違い」も文脈によって意味が違い、その「強さ」も違います。
 「正しさ」もはっきり区別できる物だけでもなく「間違いとは言えない」程度の「弱い正しさ」や、正しいけれど大して重要ではない「小さな正しさ」もあり。
 単純な事実関係のみの「正しさ」だけでなく立場や関係性等の特定の文脈による「正しさ」も人間の価値としての「正しさ」はそれを複雑に組み合わせた価値観によって存在していると考えています。
 個人の価値観とはその「正しさ」そのものの違いだけではなく、どの「正しさ」を上位に置くか重要視するかや、どの「正しさ」とどの「正しさ」が近いか又は同じかとする優先順位や区別の仕方でもあるでしょう。
 「正しさ」と一纏めにされる事も階層も文脈も有る多様な概念であるはずですが、それに共通する絶対的な物を感じたり、単純に二分法で解釈する価値観を持つ事はあり得ます。
 幾つもの「正しさ」を同一視したり、逆に一纏めにして必要以上に忌避したり、主張や利害の為に混同させたり、党派的に都合良く用いたりするものなのでしょう。思考はそれに縛られる事があるのでしょう。
     
 上の話での論点お噛み合わない部分は、一方が区別している「正しさ」をもう一方は繋がった意味のある「正しさ」としている違いではなのでしょうか。
 基本的には価値判断のない「正しさ」の概念の存在が理解し辛い人やし難い場合がいる事が有るのだと思います。
 部分的な「正しさ」を批判されることが全体的な「正しさ」を批判されているように感じ人格的な「正しさ」の否定に感じる感覚もあります。
    
 算数では教育又は教育者の「正しさ」を重視し、科学の話では人間の都合と関係なく存在する「世界(宇宙)」の理解又は知覚できない「正しさ」を人間的な価値の中の「正しさ」と直接繋げているように見えます。
  論理の持つ部分的な正しさとその論理を用いる側の人格的な正しさを同一視したり、「正しさ」は「信じるべき」ものであると理解していたり、関係的・立場的な「正しさ」を毀損する事が認められなかったりすることは有るのでしょう。
 「正しさ」の有り方に方向があると感じ、「正しさの」発信する側と受け入れる側に力関係を読み取る事はおかしくはありません。
 「正しさ」を持つものが優位で「正しさ」が権力的であることは事実です。
 「正しさ」に人間の関係性を読み取ったり、人間的な「意味」の無い「正しさ」に耐えられないとする認識は理解できます。「正しさ」を党派論的な意味とすることも普通です。
 しかしこれらの場合は「科学」や「数学」といった属人的でない否定できない事実関係の事です。
 実は文脈により幾つもの違う意味を持ち、組み合わせても用いられる「正しさ」という認識を、区別すべき時にも混同してしまう事が有るのでしょう。

   
 本来手段である教育とそのために用いられる権威を表す「正しさ」の為に単なる思い込みを押し付け、より重要な「正しさ」を犠牲にするのは間違いでしょう。
 制御できない「正しさ」をもつ科学を人間の価値観の中に嵌め込む事で相対化して制御しようとするのは無理があります。
 これらの擦れ違いの原因の一つは「正しさ」が文脈の違う幾つもの意味を持つ事で、どの意味の「正しさ」かの理解の混同や違いが、認識の共有を邪魔する事のだと考えます。
 算数の話しのように指導者の都合で決められた「正しさ」を論理が否定したり、科学のような人間の価値観の外に存在する「正しさ」に違和感を感じたりする「正しさ」の所有の問題は受け入れがたいものもあるのでしょう。
 自分の「信じている」「正しさ」を相対化されるのを恐れる感覚は分からないでもありません。
 教師の行う強制でもある「教育」や人が生きるために必要な「真実」への介入に違和感を感じることは有るのでしょう。
   
 どうにも纏まりの悪い文章ですが、つまりこの手の問題はどちらにしろ何処か事実関係を論じるのとは別に、「正しさ」をコントロールしようとする思考が有るのだろうなと考えているわけです。
 本来多様な筈の「正しさ」を「信じるもの」とするか、条件や文脈による限定的なものとするかの認知の違いが基本的にあると考えます。
 結果的に政治的・人間関係的・社会的に「正しい」のか論理的・物理的乃至は事実関係として「正しい」のかのすれ違う議論に陥るのでしょう。