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リテラシーと理解について考える

「本題」と「批判」

 
 これは重要な指摘だと考えます。
     
 自分が重要な「批判」を行っていると考えている場合にその批判の「本題」を逸らし「本題ではない」一部を批判されたと理解すれば「批判批判」を利敵行為としてみるのは当然です。
 自分を「批判する側の人間」としているのだとすればその「本題」の解決に繋がらない「批判批判」は「文脈を理解しない」「優先順位が間違っている」無責任な意見でしかないでしょう。
   
 これはまた「ニセ科学批判」に対してもそう思われる訳で、一般に思想性の強い「ニセ科学」や「道徳科学」を支持される方は「間違った現実」に対する批判者だとご自分の立場を理解し「西洋医学」「栄養学」であれ「近代文明」「現代社会」であれその批判者として行動されているわけです。
 ですからそれに対する「批判批判」は「本題ではない部分、つまらない重箱の隅や表現を殊更に取り上げて揚げ足取りしている」批判だとの大前提があるのです。
 当然その前提だと「ニセ科学批判」は「揚げ足取り」の「嫌がらせ」に過ぎないので自分を守るため多少の無茶は許されるべき、という結論に辿り着きもします。不当な攻撃に対し多少の事は「正当防衛」の範囲内です。
 「重要な本題」から話を逸らさせる「敵対行為」は現実の問題に対する「優先順位」を理解しない「当事者性」に欠ける愚かで卑劣な行為と認識されるでしょう。
          
 そしてこれは「ニセ科学批判」の側にも常に意識されるべき部分です。
     
 「ニセ科学批判者」にもご自分が何らかの批判をされた場合に「本題ではない部分、つまらない重箱の隅や表現を殊更に取り上げて揚げ足取りしている」と理解され反発をされる方も見受けられます。
 理性的で優れた「批判者」でありながらご自分の言説が批判された場合にはその「批判批判」を「本題」から逸れた単なる「嫌がらせ」と理解されて反応をされた経験も残念ながらあります。
 自分を絶対的な「批判する側の人間」とみなした場合には自説に対する「批判」は「本題」からずれ「当事者性」の欠如した無責任な意見にしか見えないでしょう。
 自分の側の「批判」を「本題」としそれに対する「批判批判」を「文脈を理解しない」「読解力に欠ける」つまらない「重箱の隅」「揚げ足取り」としか読み取れないでしょう。
           
 言論においては全ての人間が「批判者」でもあり「批判批判者」でもあります「批判する(だけの)側の人間」は存在しません。この界隈でいわれることもある(批判)「奇数組・偶数組」というのは相対的な物であり本質的な意味がないというのは大前提でしょう。言説の内容ではなく「立ち位置」を問う議論は不毛な物になりやすいでしょう。
    
 これは全ての言説についていえる話で自分の側を「批判する側の人間」とした主張は容易に批判を受け入れない「党派的」な主張になりかねないでしょう。認知的な「バイアス」が入りやすい部分です。