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リテラシーと理解について考える

水戸黄門、暴れん坊将軍、遠山の金さん―時代劇主人公の「実像」

 少なくともある年齢以上の人たちにはおなじみのテレビ時代劇のヒーロー。
 シリーズ化され主役の俳優が変わっても何年にもわたり「ゴールデンタイム」で放送され作り続けられた「国民的」なキャラクターです。
 「ワンパターン」だとかも言われながらも痛快な娯楽作品として愛されてきました。
        
 登場人物はドラマでは「物語のお約束」で大きく脚色がされ、キャラクターとして表現されています。
 嗜好品である作品としては正しい手法で、楽しい時間を与えてくれる創作物です。いわゆる「歴史もの」の一つですが比較的史実を尊重する「歴史ドラマ」より自由な表現が楽しめます。「幻想の江戸時代」というべき優れたフィクションの形式です。
         
 とはいえその「モデル」となった実在の人物が存在することもあります。
 時代劇は学問的に確からしい「歴史」とは異なる部分もあり、史料に残るその人物とは関係のない「記号化」されたキャラクターとして受け手の期待に沿う活躍を見せてくれます。
 テレビドラマだけではなくいわゆる「チャンバラ時代劇」はメディアの違いはあれ長年多くの人たちに楽しい時間を与えています。
   
 興味の有る人向けに近年の研究からその「実像」を紹介してみましょう。
      
 最初は「水戸黄門」こと徳川光圀です。
 義公こと権中納言徳川光圀(元は光国)は水戸徳川家2代目当主です。徳川家康の十一男・頼房の三男つまり家康の孫として江戸時代初期の1628年に生まれました。
 色々と経緯があり兄を差し置き家を継ぐことになります。戦国の遺風残るその時代、十代のころは乱暴な「傾奇者」であったとされます。
 18才の頃からは一転品行もおさまり学問や詩歌に目覚め「ライフワーク」として史書等の編纂に力を入れ、藩政にも力を注ぎます。
        
 水戸徳川家当主は基本的に江戸に在府・常駐し「藩主」時代には数える程しかお国入りはしていません、逆に江戸以外の場所にも鎌倉に行ったことが確認される程度です。
 幕府公儀においては実権は無いものの一族としての存在感発言力は示していたようです、「副将軍」という役職は存在しません。世間的な人気や評価は高かったとされます。
 隠居後は殆どの時間を水戸領内で過ごし民政や学問研究に勤しみ、全国を漫遊したという事はありません。資料収集のため全国に調査員を派遣した事実が物語に反映されているといわれています。
         
 文化事業の「大日本史」等は「水戸学」として江戸時代後期からの思想や社会に大きな影響を与えます。
 その反面、多くの予算のかかる文化事業は財政を逼迫させ、水戸学のドグマは幕府と水戸家を破滅に導く一因になりました。
 近世初期の武威の統治から文徳の政治に向かう時代を体現した人物といえます。時代劇のキャラクターにもそれが表れているのでしょう。
 近年小説としても史料に沿った作品がベストセラーになり漫画化もされ「実像」も知られはじめています。
         
徳川光圀―「黄門さま」で名高い水戸藩主(日本史リブレット人) 鈴木暎一 山川出版社

徳川光圀―「黄門さま」で名高い水戸藩主 (日本史リブレット人)

徳川光圀―「黄門さま」で名高い水戸藩主 (日本史リブレット人)

徳川光圀 (人物叢書) 鈴木暎一 吉川弘文館
徳川光圀 (人物叢書)

徳川光圀 (人物叢書)

    
 「水戸黄門」は読み物・歌舞伎・講談等で庶民にも愛されるキャラクターとしてテレビ以前から存在しましたが「暴れん坊将軍」はテレビ時代劇から生まれたある意味新しいキャラクターです。
    
 徳川吉宗は1684年生まれで家康の曾孫になります、年齢的には光圀の孫くらい。江戸幕府8代将軍です。
 紀州徳川家から事実上血統の絶えた徳川本家に入り、幕府中興の祖とされます。その後は最後の将軍慶喜以外の将軍は吉宗の子孫です。
 ドラマとは違い将軍に就いた30才過ぎには既婚で本妻とは死別していて複数の側室との間に子ももうけていました。 
        
 吉宗は享保の改革といわれる将軍権力の再構築から綱紀粛正や財政再建、制度整備を行います。
 濫費と財政基盤であった金銀資源の枯渇もあり幕府公儀は大きな節目を迎えていました。 
 綱吉期から3代にわたり続いた新規召し抱えの御用人等による側近政治から代々仕えた家臣団・譜代門閥を尊重する形にし、新儒学的なイデオロギー政治に向かう流れから武士政権としての建前を尊重する等ある意味で復古主義的な政策に戻しつつ率先して倹約を行い武威を示し幕府公儀の求心力を回復します。
            
 最初はいわゆる重農主義での財政再建を目指しますが、新田を切り開き徴税を強化し、米自体の税収は増えたにもかかわらず米相場の下落から行き詰まり経済全体もデフレ化に向かい百姓一揆・暴動も頻発します、後の元文改鋳から積極的な通貨供給を行い「リフレ」的な政策で経済を刺激し財政再建を成功させました。
           
 積極的な人材活用を行い、法や制度の整備を進めます。都市整備や民政にも力を入れます、税の徴収も強化された「大きな政府」路線です。
 洋書の翻訳出版への規制を緩和し、海外産物の国産化を行い技術開発の強化等も力を注ぎ「実学」的な社会を方向付けます。
 日本近世封建社会の完成に大きな役割を果たしたといえます。
    
 当時としても長身の180cmの背丈で、相撲取りも投げたり片手で帯を掴んで人を持ち上げたりもしたという話もある怪力らしいですが、怒るところを見たことがないといわれる冷静温和な性格で「暴れん坊」ではないです。
           
徳川吉宗―日本社会の文明化を進めた将軍 大石学(日本史リブレット人) 山川出版社徳川吉宗 (人物叢書 新装版) 辻達也 吉川弘文館
徳川吉宗 (人物叢書 新装版)

徳川吉宗 (人物叢書 新装版)

    
 その徳川吉宗の家臣であった大岡越前こと大岡忠相は吉宗より年上の1677年生まれ、一族の養子となり幕臣としては比較的上位の中級旗本*1の家を継ぎます。
 物語とは異なり(伊勢)山田奉行当時には吉宗との直接的な接点は無いようですが既に大変有能な人物として高く評価されていて普請奉行から南町奉行に抜擢されます*2
 町奉行とは司法・警察だけではなく行政の役割も重要で忠相はその面で大きな成果をあげます。行政機構の整理、防火体制の構築と防火都市計画、株仲間制による物価の安定と流通の整備、風俗取締り、小石川療養所の設立といった都市機能の改善で実績を残します。
 
 読み物(実録小説)「大岡政談」に書かれた裁判の中で実際に忠相がかかわったのは1件だけでそれ以外は他の奉行・代官の実績や中国日本の小説・説話から取り込んだものだそうですが、充分有能な裁判官でもあったとされます。忠相のもとで行われた法典の整備や判例の整理はその後の司法の基盤となります。
    
 町奉行の仕事と並行して地方御用掛として関東の幕領の農政の「テコ入れ」の仕事も行います。武士の役人だけではなく民間から採用された人材を地方巧者(じかたこうしゃ)といわれる農政官として活用し、彼らを代官として新田開発や河川の普請等基盤整備にあたらせ甘薯・さつまいもの導入も図ります。検地を新たに行う等本来の農政機関である幕府勘定所の再建に繋がります。
  
 吉宗政権下の政策立法立案機関である評定所一座のメンバーになりその後唯ひとり政権の全期間吉宗の政策ブレーンとしてその座を保ちます。ただの「イエスマン」というわけではなく緊縮財政と通貨価値の名目に拘る吉宗に改鋳による通貨供給の強化を認めさせます。
 評定所一座として公文書システムの整備を行い行政民事訴訟裁許でも敏腕を発揮します。
    
 吉宗の高い信頼のもと後には寺社奉行となり*3大名にとりたてられ奏者番にも任ぜられます。
 司法、行政(町政・農政)、立法の全てで大きな実績のある徳川政権下を代表するスーパー官僚です。
 庶民からの人気も高かった様です。没後早い時期に読み物「大岡政談」が出版されます。
 ただドラマなどとは違い基本的には町奉行期には吉宗とは殆ど書類や御側御用取次を通じた関係で直接長時間会話をしたのはそれほど多くないようです。
     
大岡忠相 (人物叢書) 大石学 吉川弘文館
大岡忠相 (人物叢書)

大岡忠相 (人物叢書)

大岡越前守忠相 (岩波新書) 大石慎三郎     
 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵こと長谷川宣以のぶため)は実在の人物です。
 記録の少ない人物で1745年か46年に生まれたらしく、比較的小身の旗本ですが父の同じく平蔵宣雄は家格を大きく超え火付盗賊改役から京都西町奉行にまで昇進し、そこで亡くなります。当時は基本的には家柄・石高によって地位が決まりますが、ある程度の評価を得られれば親や身内の実績やコネを引き継ぐ形でのキャリア形成が珍しくなかった為、宣以は田沼意次政権下、武官として順調に出世をします。
 長谷川家は家禄は400石とそれほど高いとはいえないながら父の代の倹約と土地の活用など資産の運用が成功していて裕福な家です。平蔵宣以こと銕三郎は派手な服装と言動、若い頃には遊蕩で知られた人物でした*4。武芸に秀でていたとする史料は有りません。
      
 寛政の改革の時期に御先手組頭の警察的業務である火付盗賊改役に就任します。
 宣以は目立ち過ぎの部分はあるものの清濁併せ呑む大変有能な実務家で人望もあり、部下を掌握し密偵を活用し、的確な判断によって実績を上げます。当時の庶民からも広く支持を集めていたようです。その当時「鬼平」と呼ばれた事実は確認されていません、作家の創作です。
         
 宣以の大きな足跡としては人足寄場の設置があります。無宿人と呼ばれた難民や不行跡・犯罪等で除籍追放された人たちや軽犯罪者の自立と社会復帰を支援する施設です。
 天災が続き社会システムも過渡期的な混乱もある時期、「強制収容所」では有りますが技術訓練や教育指導を行い、手当のある労働作業をさせその一部を強制積み立てし、就業の斡旋も行うという当時としては画期的な施設です。
 予算不足の中、宣以は公金による(インサイダー情報ともいえる)独自運用から資金を調達し、敷地の活用等で経営として成立させます。
 宣以の火付盗賊改役退任後町奉行所に管轄はうつりますが幕末まで存続します。
      
 派手な言動と「山師」的なアイデアマンという人物像、密偵の活用等下々にも通じた行動が老中松平定信らと同僚の一部から疎まれ、異例の長期間火付盗賊改役に留め置かれ出世が遅れ、退任後直ぐに亡くなります。
                      
長谷川平蔵―その生涯と人足寄場 (朝日選書) 瀧川政次郎  現在新刊で手に入るのはオンデマンド版
長谷川平蔵
 中公文庫の同書(図版は少ない)「長谷川平蔵―その生涯と人足寄場」も絶版のようです。
 著者の瀧川政次郎は法学者・法制史家で戦前には軍部や右翼によって大学教授を追われますが戦後の東京裁判においては海軍大将嶋田繁太郎の弁護を引き受けるなど硬骨漢として知られ、上記の本は85歳の頃の著作です。その元となった長谷川平蔵研究は1961年に「日本行刑青蛙房」の中で発表され、池波正太郎はそれらを参考にした可能性もあります。
     
 以前はそれほど知られた人物ではありませんでしたが「鬼平犯科帳」によって知られるようになり、寧ろ作品のキャラクターが独り歩きし異なった理解が受け入れられない状況にある様にすら感じられます。時代・歴史小説には熱狂的なファンも多く作品を現実のように考える人も少なくないように見えます。
 どれほど優れた小説でもその意味では作者の理解・想像による「仮説」としての人物造形であり過大な「真実」を読み取るべきではないでしょう。
   
 「遠山の金さん」で知られる左衛門尉(さえもんのじょう)遠山金四郎景元も実在の人物です。1793年に生まれ1855年幕末動乱の始まったころに亡くなります。
 こちらも500石という比較的下位の旗本ですが父・金四郎景晋が学問に優れ幕臣の学問吟味(学力テスト)で最優秀の成績を出し、遠山家の養子だった景晋は実家の後ろ盾もあり、蝦夷地の調査や長崎奉行としての対ロシア、対馬藩を通じた朝鮮との外交交渉等も行い後には勘定奉行に就き能吏として知られます。
      
 景元は家庭の事情から、父の養父の子で父の養子となった景善の養子とされます。若い頃には家を出ていた時期があるとされます。
 養父景善が亡くなったため実父の景晋の後、家を継ぎます。既に将軍世子徳川家慶のもとに出仕していた景元は順調に勘定奉行まで昇進しました。
    
 享保の改革の時期に北町奉行に就きます。過激な復古的改革・統制を行う水野忠邦鳥居耀蔵らとは同調はせず、過度な規制に否定的で穏健で現実的な路線を選びます*5
 実務能力に優れ将軍家慶や部下からの信頼も厚かった景元は江戸庶民からも支持を得ます。しかし大目付に棚上げされ現場から遠ざけられました。
 水野の失脚後、南町奉行に就くという異例の人事が行われキャリアを全うします。隠居後にも元部下からの相談をよく受け、没後も南北両奉行所の元部下や町名主らが弔いに訪れ墓所に碑を建てられる等人望は有ったようです。
 
 講談や歌舞伎等での大活躍自体はフィクションで事実ではありません。刺青自体も有ったという噂は当時からあったようですが確実な証拠は存在しないようです。    
 
遠山金四郎 (講談社現代新書) 岡崎寛徳
遠山金四郎 (講談社現代新書)

遠山金四郎 (講談社現代新書)

遠山金四郎の時代 藤田覚 校倉書房  
遠山金四郎の時代

遠山金四郎の時代

     
 書店に行くと特に文庫本コーナーで時代小説が大きなブームを迎えているように見えます。 
 新刊が平積みになり人気作品がシリーズ化され新しい作家が次々と登場しています。映像化される作品も有ります。
     
 新しい歴史の研究など多くの資料を取り込んだすぐれた作品が多くあります。一昔以上前の伝承や講談・歌舞伎ネタと想像だけのような作品は少なく、よく調べている作家の方も多いようです。旧来の「チャンバラ時代劇」よりも「リアル」に感じる作品も多くあります。
 だからと言って小説はフィクションですから「嘘」も多く有ります。人物像や風俗でも物語の必然や現代の読者が違和感を感じないように脚色されています。
 「作品」の中の主人公らは多くの場合「近代人」として読者が共感しやすいように描かれ、キャラクター化された願望の受け皿として存在します。
 「物語としての幻想の江戸時代」でもあるという事は基本的な了解事項でしょう。
       
 明治以降新政府によって「江戸時代」は単に「遅れた古い時代」とされ、戦後には左翼らの「マルクス主義史観」のような政治機構を単なる搾取機関として解釈し、全ての百姓を中世欧州やロシア等の農奴同様としてみる「江戸暗黒史観」が存在しました。
 近年の歴史研究はそういった政治的な目的のある一方的な認識ではなく多くのその時代の「生きた人間」がいた近代にも続く「リアル」な社会として事実関係を根拠に基づいて理解する方向にあります。
 近世江戸時代には為政者も少なくとも建前としては仁政を目指し人々もその時代の条件において充分な合理性を持った行動をしていました。単なる「貧農史観」は既に過去のものです。
       
 それが逆に「江戸時代」を過度に美化する言説を一部で産み出している風潮もみえます。
 現代社会を批判するために美化された江戸時代を用い、「日本は江戸時代に戻るべきだ」といった時代小説的なロマンチックな幻想を安易に現実に当てはめたり、想像の中の江戸時代を「根拠」として現代の世の中の在り方に意見を述べたりする人も出ています。 
              
 そういった方たち程寧ろ歴史の学問的な研究成果を確かめもせず、主張にとって都合のよい情報のみを持ち出し「時代劇」レベルの認識しかされていません。
 厳然たる身分差別があり、暴力が蔓延し、、栄養・衛生状態が悪く周産期や児童の死亡率の高さ等現代社会からみれば「遅れた」社会であることは事実です。
 実際の近世の江戸等の大都市は農村の余剰人口を吸収しつつ多くが若年で死亡し、人口が再生産されないとする「都市アリ地獄説(速水融 歴史人口学)」や子供の「間引き」が存在する「命の軽い」社会状況です。
 それを乗り越えて現在があります。過度な美化は先人の歴史に対する冒涜であり、道徳的な不義ですらあります。
          
 近頃蔓延している「ニセ伝統主義」として「江戸しぐさ」というのが有ります。
 「公共広告機構」テレビコマーシャルでも流され学校などでの教育に取り込んでいる人たちさえも存在します。
       
 「江戸しぐさ」というのは戦後に特定の個人が「創作」した「講演会」用のネタとしか言えないものです。江戸時代とも日本の伝統とも何の関係もありません。
>怪しい「江戸しぐさ」 杉岡幸徳の人生は夢のように
http://sugikoto.cocolog-nifty.com/kotoku/2007/03/post_dca7.html
    
>もう、「江戸しぐさあったあった詐欺」と呼んでいいですか? 無楽斎の極小右記
http://murakusai.doorblog.jp/archives/27337007.html
     
>捏造された「江戸しぐさ」(偽史・ウソ)
http://togetter.com/li/528635
  
 それを生業とする特定の団体の「登録商標」だそうです。
 江戸時代(後期)の庶民・商人の倫理道徳について真面目に知りたければ例えば石門心学についてでも学ぶべきでしょう。
    
 創作物は楽しむためのもので「心地よい」だけの嘘を現実社会に持ち込む事は慎重でなければなりません。

*1:幕臣の家格には上位の旗本と下位の御家人という区別があります

*2:元々幕臣は役職にかかる基本的な経費込みで家禄を与えられているので家格以上の地位に就く(家格までの地位はある程度世襲される)と赤字になる為、出世をさせた場合には家禄の加増が行われていたがそれが「手柄」として相続対象とされ、公儀の財政負担が重くなる一方で人事が停滞しがちだったが、吉宗の政策として「足高」制という在任中にのみ支払われる役職手当制を導入した。石高1920石の忠相が役高3000石の町奉行に就いた場合足高は差額の1080石。因みに火付盗賊改役=御先手組頭は役高1500石

*3:物価統制を狙った強硬策で大商人達と対立し町奉行を更迭・棚上げされたともいわれる

*4:宣以は側室の子ですが本妻の養母は5才の頃に亡くなり、軋轢から遊蕩に走ったというのは考え難い

*5:同時代の多くの町奉行達は比較的民意や経済を重視していて景元が特別でもないようです