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リテラシーと理解について考える

関西に納豆食は無かったのか?

 「関西人はもともと納豆を食べない」のが常識だと理解されている人も少なくはないでしょう。そんな風に書かれた本もあります。
 実は現在の食文化史では「糸引き納豆」が過去に関西で食べられていたという文献資料などが幾つも見つかっています。現在考えられている関西の納豆の歴史を見てみましょう。
    
 「納豆」と呼ばれるものにはいわゆ枯草菌の一種「納豆菌」で発酵させる基本的に無塩の「納豆」「糸引き納豆」の他に「寺納豆」や「浜納豆・浜名納豆」「豆支(これは一字で豆偏に支えると書く、「鼓」は当て字)、シ」といわれる塩とコウジで発酵させた現在の中国の「豆チ(「シ」と同じ字、豆支」)とほぼ同じでこげ茶色から黒い色で乾燥し一粒ずつほぐれ「塩納豆・塩辛納豆」ともいい味噌の原型に近いともされるもの、他にも豆を砂糖などで甘く煮て水分とを飛ばし一粒ずつにほぐれた「甘納豆」もあります(これは浜名納豆に似た甘い煮豆を甘名納豆と称したことから始まるとされる)。海外ではクモノスカビの一種を用いる「テンペ」などもあり「納豆」の一種とされます。
      
 「寺納豆・シ」は奈良時代の史料から見ることができ、糸引き納豆より古くから存在が確認されています。中国から持ち込まれたものでしょう。
 他にも同様なものとして「大徳寺納豆」や「大福寺納豆」なども知られます。より水分が多くやわらかいものでは「もろみ」の一種である「金山寺納豆」「味噌納豆/納豆味噌」と呼ばれるものもあります。 
   
 平安時代の11世紀の作品「新猿楽記」が「納豆」の最初の用例らしいですがこれが糸引き納豆か寺納豆かは両説あり、どちらかといえば寺納豆説が強いようで糸引き納豆の初出とはされません。
 そのころの史料にも「納豆」の例はありますが多くは寺納豆とされます。語源は定かではありませんが「納豆」という言葉自体は日本でうまれた言葉のようです。
 11世紀の武士・源義家を糸引き納豆の起源とする伝説もあります。
   
 寺納豆と糸引き納豆は同類と認識され混同されているともいえます。
 糸引き納豆に塩を振るなどしほぐして乾燥させた保存食「干し納豆」もあり、文献によっては解釈がむずかしいところです。
     
 糸引き納豆の確実なもっとも古い文献資料としては14世紀室町時代の「精進魚類物語」が知られます。
 野菜などの精進料理素材と魚介など動物食素材が擬人化され合戦を行う「御伽草子」の作品です。精進側の大将として納豆太郎糸重というわらの中で昼寝をしたり「糸」をモチーフにした甲冑装束を身に着けたりしていて、これが糸引き納豆であることは間違いないようです。
 この作品は京の貴族によって書かれたとされ二条良基の作ともいわれています、この時代すでに京に糸引き納豆があったといえるでしょう。
   
 続いて応永12年(1405年)12月19日「教言卿記」京の貴族 山科教言(のりとき)の日記に「糸引き納豆」が出てきます。寺納豆も別に出てくるのでこれも間違いありません。
 伝説としては14世紀の光厳天皇法皇)が糸引き納豆の始祖とされます。
  
 天正18年(1590年)「利休百会記」では千利休の茶会で「納豆汁」が7回用いられています。
  
 吉田元によると慶長4年(1599年)の「多聞院日記」の「コハク納豆」を糸引き納豆としますhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/85/3/85_3_167/_pdf (PDFです注意)。

 1603年から1604年にかけて長崎で発行された日葡辞書(日本語をポルトガル語で解説したもの)にも「納豆」「納豆汁」がありそこでの納豆は「糸引き納豆」で「納豆汁」はそれでつくられた汁とされます。      
     
 元禄3年(1690年)京都で出版された「人倫訓蒙図彙」にも「叩納豆 薄ひらたく四角にこしらへ こまごまな菜 豆腐を添へる也 値安く 早業のもの 九月末より二月中売りに出る 富小路通四条上ル町」とありこのころには納豆汁用の叩き糸引き納豆と野菜がまとめて売られていたようです。
  
 安永4年(1775年)の与謝蕪村の俳句に「朝霜や 室の揚屋の 納豆汁」と播州室津で納豆汁があったします。蕪村は関西生まれですが江戸で俳諧の修行をしており江戸の納豆汁も知っているはずです、同じものでしょう。蕪村には他にも複数の「納豆汁」を詠んだ句があります。
   
 江戸では元和9年(1623年)の「醒睡笑」などから17世紀以降の糸引き納豆の例は多くみられます。江戸で糸引き納豆を食べていたとする説に異論のある方はあまり居ないでしょう。
 糸引き納豆は近世には関東も含め多くが納豆汁として食されました。現存する昔の納豆汁のレシピは味噌で味をつけた汁にするか刻むかした納豆を入れるものです。「日本料理文化史(2002年)熊倉功夫」でも近世料理書に糸引き納豆以外の「納豆汁」はないとします。
      
 1850年代までの上方と江戸の風俗を描いた「守貞謾稿(近世風俗志)」に「納豆売り 大豆を煮て室に一夜して これを売る 昔は冬のみ 近年夏もこれを売り巡る 汁に煮あるひは醤油をかけてこれを 食す 京坂には自製するのみ 店売りもこれなきか けだし寺納豆とは異なるなり」とあり当時の京阪では自製して食べられたとしています。
 この文は前半が江戸の糸引き納豆商売を描き、後段で京阪では(元禄期には販売されていましたが)このころすでに同じタイプの糸引き納豆の販売はなくなっていたように書かれます。
      
 明治以降、関西では糸引き納豆は廃れていったようです。もともとそれほど広い範囲で受容されていたわけでもなく関東東北ほど好まれていたわけでもないようで忘れられて行きます。
 西日本では他に熊本にも糸引き納豆の「伝統」があります。現在も消費は多く、山村では自家製納豆も作られるそうです。
    
 関西でも山村では自家製の糸引き納豆の文化は残り、現在の京都北部では現代にいたるまで自家製糸引き納豆を作っていると現地調査も確認されていますhttp://blog.livedoor.jp/kyotomode/archives/51657674.html 。正月に納豆餅で食されることも有るそうです。
   
 他にも大正末から昭和初期にかけての食を聞き書きした民俗資料「日本の食生活全集」の「兵庫」の丹波(P270)にも糸引き納豆の例があり、「平安時代の納豆を味わう 松本忠久」(P37)に東近江湖東歴史民俗資料館の学芸員森容子氏の談話として「湖東町に限らず「糸引き納豆」を家庭でつくるのはこの地方の一般的な風習です」とあり滋賀湖西大津でもhttp://www.city.otsu.lg.jp/kanko/tokusan/nosui/27y/11m/1447893280799.html「関西では馴染みが薄いと云われている納豆ですが、比叡山延暦寺門前町坂本の僧坊では精進料理として、また隣の仰木地区では伝統祭事に納豆餅が使われるなど、大津では昔から一般生活の中で広く親しまれてきました」とあり思いのほか広い範囲でつくられています。 
 和歌山でも納豆集落が発見されていますhttp://www.sankei.com/west/news/160301/wst1603010022-n1.html
    
 第二次大戦前の昭和9年京阪神エリアの納豆メーカーの存在も確認されていますhttp://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65465922.html
    
 最終的には第二次大戦期の食料統制と戦後の食糧難で完全に文化が途絶え(食の昭和史 とっておきの文化食 藤田忠雄 P106 )、一部を除けば戦中戦後にはほぼ完全に断絶があったといえます。
 戦後の関西では糸引き納豆を食べる習慣を持つ人は少なく現在でも消費量は国内最低レベルです、西日本全体でも東日本とはほぼ比較にならない個人消費量です。もともとなかったと考えるのも無理はありません。
   
 現在でも納豆の起源は良く分かっていません。京都から関東東北に広まったものか、関東東北などから京都に入ったのか、東南アジアや韓国にもあるので海外から来たのかそれとも日本でも別に独自で生み出されたのか多くの説があります。

 食文化史も日々進歩し、新たな史料の発見や調査も進んでいます。古い資料や個人の体験からの「思い込み」は客観性に欠ける俗説をうみだしかねません。
 「昔の関西でも糸引き納豆を食べていた」は現在の食文化史の定説といえるでしょう。

【参考】
 日本の食と酒―中世末の発酵技術を中心に 吉田元 人文書院 1991 
 納豆の起源 横山智 NHKブックス 2014
 謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉 高野秀行 新潮社 2016
 納豆のはなし 石塚修 大修館書店 2016
 日本の食文化史――旧石器時代から現代まで 石毛直道 岩波書店 2015