世界が「グローバル化」を迎えている最中、日本では社会システムの綻びが見えるようにも感じられ「我々日本人」同士であっても相互の信頼や敬意が失われつつあると考える人もいるのかもしれません。
人の出来る事は限りがあります。
手近な所で自分たちの国を愛し社会を守るという考えもそう悪いことではないでしょう。
先人の努力や思いを感じ、それらを未来に伝える為にも自国の「本当の歴史」について学ぶ事も必要かもしれません。
イデオロギーや教育・受験制度の都合であまり学ぶ事も少ない「真実の日本史」もあります。
「我々の国」の歴史を知る事で先人への敬意を持ち、自分たちの国を誇りとする「愛国的」な歴史観も持ちえるでしょう。
学校などではあまり教わらず、教科書にもあまり出てこないだろう日本の歴史について講釈を垂れます。
日本の縄文時代は1万7000年ほど前に始まったとされます。
長い時代区分で地域によっても異なり細かく分けると複雑ですが狩猟採集と漁撈、一部では初期的な粗放農耕も行われていたとされます。ほぼ現在の「日本」の領域全体で幾らか幅の有る形で「広義の」縄文文化圏が成立します。
縄文期は(時期によりますが)ある種の資源や資材などの比較的広域にわたる交易圏が存在していたことも知られます。
近年の説ではほぼ3000年前、紀元前950年頃から主として朝鮮・韓半島から来た本格的な水田稲作の技術を持った人々が北九州に現れ、本州も西部から徐々に「弥生時代(文化)」に変わるとされています。
東北北部と北海道では当時の気候と技術では水田稲作が困難で有ったようで「弥生時代」を迎えることは有りませんでした。
もともと縄文時代でも天然資源などに恵まれどちらかと言えば豊かな生活圏です。
そこに住んでいた人たちは比較的豊かな資源を元に狩猟採集・漁労を行い粟・黍等の一部の農耕の他、地元や遠方の産物を弥生人らとも取引をする交易を行う縄文的な生活を続けました。この地域のこの時代を現在「続縄文文化(時代)」としています。
東北の日本海側の一部では早い時期に交易ルートを通じ本格的な水田稲作が入ってきたようですが、おそらく気候の寒冷化等で定着はしなかったと考えられています。
本州では弥生時代とされる紀元前3世紀頃から古墳時代の7世紀頃までが「続縄文文化(時代)」とされます。
7世紀頃から本州の文化が交易などを通じ徐々に浸透を始め「輸入」された鉄が使われ土器も本州の土師器の影響を受けたものに変わります。この時代を土器の形状から「擦文時代(さつもんじだい)」と呼びます。
「続縄文時代」の3世紀頃北海道北部や南千島に、より北の地域から「続縄文人」とは異なるおそらく大陸の北方民族の系統の人々が渡ってきます。より寒冷地に適応した文化・生活習慣を持つ人々で便宜的に「オホーツク人」と呼ばれています。
大和政権の記録の中にある「粛慎」であると考えられています。現在の樺太等にも住むニヴフ人(ギリヤーク)の先祖と見られています。
「続縄文・擦文人」と「オホーツク人」は緊張・対立関係が存在し、時には大和政権とも共同し擦文人はオホーツク人と戦うこともありました。
9世紀頃には北海道東部・国後に一部の勢力を残し多くのオホーツク人は北へ引き揚げます。
一部残った「オホーツク文化(人)」は擦文文化の影響を受ける形で「トビニタイ文化」へと変化します。
そして13世紀頃には擦文文化に吸収される形で姿を消します。
その頃大陸では渤海・遼(契丹)・金(女真)等の北方の大国が勢力を持ち、大陸南部にも繋がる広く活発な経済・交易活動が行われていたようです。
本州では平安末期から鎌倉時代に掛けての「中世」の始まりになる頃、擦文人はオホーツク人を文化の一部をも取り入れる形で融合し、大和政権や奥州藤原氏らと大陸や北方の領域との交易を活発にし生活を行う「アイヌ文化」を成立させたと考えられます。
一時は本州勢力の金等の鉱物資源の開発とも関与し、本州からの農業移民も受け入れたとされます。
交易・狩猟漁撈民としてのアイヌの人々は生活圏を大きく拡げ、東北の一部や樺太・千島にも進出し、「骨嵬(クイ)」として大陸のアムール川下流域では当時の中国の元(大元ウルス)政権の大軍との武力衝突も記録されています。
鎌倉時代末期に津軽や「蝦夷地」においてアイヌと思われる人々の軍事的活動が活発に行われ「蝦夷(えぞ)の乱」として北条政権を動揺させ、鎌倉幕府の滅亡に繋がる原因の一つである事は知られています。
一方生活としては矢羽や毛皮や鮭等の狩猟漁撈資源等や絹織物などの大陸との交易品を経済基盤とし、本州の鉄器や漆器、陶器や織物、時には米も含めた「輸入」により成り立つ形での所謂「自給自足」とは異なる形での国際的な流通経済システムに組み込まれていきます。
経済と生産の一部を外部に「依存」する交易社会として発展しました。
食料の生産については主に漁撈採集資源と粟・黍等の農耕に頼る形です。
本州では室町時代に入り武士勢力が大きな力を蓄えます。
大陸中国では元政権が北帰し明政権との対立のなか北方の交易は停滞したのかもしれません。
アイヌの人たちも明との朝貢貿易を行いますが往時の繁栄は見られません。
本州側の勢力が軍事的な力を背景に北海道南部に進出し交易の権益を抑える動きが始まります。
その時期にはある程度成立していただろうアイヌの首長層と取引する形で交易を行う事で活動を行う本州側の勢力が「北海道」に足場を築きます。
取引上のトラブルから衝突に至る場合もあり、軍事的に優位で交易ルートと生活物資を押さえた本州の勢力が間接的な関与の中から徐々に社会や経済に対する支配を強めていきます。
「蝦夷地」のアイヌの社会では首長層を頂点に有力者層、平民、隷属民という社会的な階層は存在していたようで、それに介入する形での本州側の関与が進み、生産手段の限定や管理によってアイヌ社会の本州に対する依存を強めていく形で支配を進めていきます。
本州の収奪に対する反乱も何度も起きますが多くの場合手段を選ばない本州軍事勢力の力が勝ります。
江戸時代に入るとその時代によって「松前藩」や公儀の直轄などの形で当時の幕府による「小中華」制度の中での国外の「蛮夷」と位置づけられつつ服属を強制されます。「日本国内」とは位置づけはされていません。
本州の産業構造の変化やロシア帝国の北アジア侵攻により交易は下火になりアイヌの人たちは本州勢力の支配下で漁業労働者とされていきます。農業生産も衰えます。
幕末に入りロシア帝国の南下に伴い近代国家的な国境概念が日本に入り、その中でアイヌの地である蝦夷地も「日本」に組み込む形になります。
明治維新後には旧蝦夷地は日本領「北海道」とされアイヌの人たちの自治や権利は奪われ「国内植民地」としての移民が行われ、土地や生活の手段を奪われたアイヌの人たちは苦難の歴史を歩む事になります。
「南西諸島」でも先島諸島を除く沖縄・奄美辺りでは縄文文化の一部が共有される形(前期貝塚文化)で人々の定住が始まったと考えられています。
本州が弥生時代に入ってもこれらの地域では縄文的な文化が残り、それが(後期)貝塚文化と呼ばれる漁撈と狩猟採集を中心とした生活で続きます。
おそらくその生活の一部として九州や韓国・朝鮮半島、大陸との間で螺鈿細工の原料等として用いられる夜光貝や装飾品用のイモガイ(芋貝)・タカラガイ等の交易も盛んに行われていたようです。
本州で畿内の政権が制度を固め、奈良時代・平安時代と時代を重ね地方にも支配を強めていきます。
その時代に政治的理由や経済的な理由なのかは様々でしょうが当時の「大和」の領域から離脱し、南西諸島へ向かう人々がいたようです。
当時はほとんどの南西諸島は「国外」とされていました。
その地へ農耕技術をもち「日本語」を話す人たちが漁業や交易等を生活の糧とする社会を持ち移動して行きました。
当時の「くに」は現在の国家や国境の概念とは異なる社会のあり方です。
沖縄・奄美諸島全般に「元大和人」達は拡がり、元の「貝塚文化」の人達を吸収していったようです。
独自勢力として最初に台頭したのは奄美の人たちです。当時としてはよくある話ですが、「海賊」としての顔も持つ交易民として平安時代には九州での略奪行為の記録があるそうです。
大和政権は奄美大島に隣接する喜界島に軍事拠点を置き監視と交易を行います。
平安時代末期には馬や産出される硫黄が火薬の材料などとして当時の中国・宋政権や高麗との交易も盛んに行われました。
本州も含む広い範囲での海上交易が行われ、福建辺りの中国や一部では朝鮮・韓半島からも商人や技術者らも移り住んだともいわれます。
東南アジアとの交易もあり文化的な影響を多く受けます。
12世紀には「グスク時代」と呼ばれる稲作・畑作を基盤とした独自の社会が成立しています。
14世紀にはその中で沖縄本島で政治勢力が大きな力を示し「三山時代」と言われる「三国・戦国時代」が始まります。
この頃には中国明政権との交易が最盛期を迎えます。朝貢貿易の権益を巡り多くの軍事勢力が大きくは3つに別れ覇を競う時代です。
元々は南西諸島から台湾までも含む「琉球」と言う名前での明政権からの冊封を受け入れます。
本州との交流も盛んで当時の仏教(主に禅宗)や神道が入り、表音文字としてのひらがな、鎧兜や弓矢・刀等の軍事技術が移入されます。
15世紀には沖縄本島の政治的な統一が行われ奄美にも沖縄・琉球王国の勢力の覇権が成立します。
沖縄本島の勢力がそれまでは殆ど交流のない先島諸島を軍事力による支配下に置くのもこの時期です。奄美にも大軍を送ります。
奄美群島や先島諸島に対する沖縄本島の琉球王国の支配は過酷なものもありました。
15世紀から16世紀半ばまでが琉球王国の絶頂期です。明との朝貢貿易だけではなく東南アジアや本州との交易での中継地としても大きな役割を果たし、国内でも中央集権が進みます。
高度な金属加工技術を持ち漆器等の生産も行われました。
古代から「日本」は国際(グローバル)社会でもあり「中世」は東アジアも大交易時代でした。
16世紀後半からは明への本州からの銀の輸出が盛んになります。そのルートをポルトガルが押さえます。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻による断交期はありますが、17世紀に入っても本州と明(生糸や織物)と東南アジアの交易ルートは琉球を介さずに行われることが多くなり琉球経済は大きな打撃を受けます。明の威信の低下もあり国力が衰えます。
徳川政権においては家康は初め明との国交回復を琉球を通じて行おうとします。それを薩摩の島津家に命じます。
徳川政権と島津家は琉球に対し使節を本州に送る事を求めますがそれは徳川政権への「服属」を示すために拒否します。
島津家はその拒否を理由に琉球への出兵を行います。
当時の琉球では刀や長刀・弓だけではなく火縄銃や大砲・火矢でも武装した4000人ほどの兵力を持ちます。
それに対し3000人程度の兵力ですが戦国時代でも精強で知られた島津家は琉球軍を圧倒し、激しい戦いの末、琉球王国は降伏し「世の主(国王)」は一時江戸に連れ去られます。
「琉球王国」の存続は必要と考える徳川政権と島津家は琉球へは少数の「代官」を置く形での間接支配を行い、琉球王国は明とその後の清の中華政権、幕府の「小中華」制度への「両属」を余儀なくされます。経済的な負担も大きなものでした。
明の滅亡後満洲(女真)族の清王朝との朝貢関係の成立、島津家の間接支配の下、琉球王国は文化的には中国(明)化が進められます。
現在の中国的な雰囲気を持つ形での独自の「琉球文化」が成立したのはその頃からです。サトウキビ等の農業生産の役割も高くなります。
豚肉が多く食べられるようになったのもその時代です(宮廷料理は「和食」に近い)。
島津家への「年貢」は有りますが広範な自治は認められ、ある程度の武装も認められる「独立国」として「明治」を迎えます。(幕末にはペリーも来航し独立国として条約も)
1871年明治政府は琉球を鹿児島県管轄にし1872年琉球藩としますが1879年武装警官らを用い王家の排除を行う「琉球処分」が行われ琉球王国は滅亡します。その後王国の回復を目指す活動も起きますが日清戦争でそれも下火になります。
日本への併合後は日本の「辺境」として差別的な扱いと同化政策にさらされ、一時は「蘇鉄地獄」と呼ばれる食糧危機にも陥り海外への「移民」を送り出す事にもなり、太平洋戦争末期の沖縄戦では凄まじい惨禍にあいます。
その挙句にアメリカの統治下での「軍事植民地」として厳しい時代を経て、今現在でも重い基地の負担を負わされています。
他にもここでは詳しく書きませんが小笠原諸島では「日本」とはされず無人島だった200年程前に捕鯨基地として欧米人やハワイ人ら「南島」系の移民が住み始めます。明治に入り本州等からの移民も入りますが欧米・南島系の人々も住み続け「日本人」になりました。
先島諸島も琉球王国の侵攻までは沖縄奄美文化圏とは異なる、台湾先住民やフィリピンなどにも近い東南アジア的な独自の社会として成立していました。現在の姿は沖縄本島の琉球王国による同化政策によるものとされています。
「終戦前」には日本の領土であった樺太からは「日本臣民」ともされていたニヴフやウイルタの人々がソヴィエトの支配・弾圧や「日本人」としての粛清から逃れるために北海道に移り住み、差別を恐れ名乗ることはあまりありませんが今でも暮らしています。(明石書店「講座世界の先住民族 01 東アジア」参照)
>ウイルタ協会について ウイルタ協会のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/uiltakyokai/78445.html
同じく終戦前には「日本領」とされていた台湾や韓国・朝鮮からもその時期に「本土」に生活基盤を移した人たちやその人たちを頼り、その後の戦争や社会・経済的な混乱から逃れて日本に来た人たちとその子孫が日本で暮らします。
近年でも南米等に「移民」をしていた日本人の子孫「日系人」や東南アジアだけではなく世界の多くの「国々」から来た新しい「日本人」もいます。
「我々」の日本はこれらの多くの豊かな「歴史」を持つ人々の居る素晴らしい国です。
「純粋な日本」だとか云ったつまらないものでは無いと考えてよいでしょう。
「単一民族」だとか云ったくだらない幻想は事実関係には基づきません。
多様性を認めない貧しい「純粋」さは疎外を恐れつつ排除や同調圧力を武器とする「弱さ」の裏返しです。
現在の「大和」の人たちでも所謂「和服」を着る事も出来ず、「畳」や「布団」で暮らす「日本=大和」的な生活を行わない「日本人」も多く居ます。
これを指して「日本人=大和民族は滅んだ」という人は多くは無いでしょう。
現在は「日本人」としての生活をし、現代の「日本」的な生活をしているからといってアイヌや沖縄・琉球の人やその他のたちが独自の歴史や文化といった自分達の「アイデンティティ」を持つ事が否定されてはなりません。
本州の各地方のそれぞれも含め「歴史」は様々で豊かなもので、それぞれの人々の大切な「財産」です。
ある「人々」を遅れた文化を持つ劣った人々と見るのも、無垢で純粋な存在として理想化し自分の主張の道具として扱うのも傲慢な姿勢です。
本州の「大和」だけではなく琉球・沖縄やアイヌや韓国・朝鮮系、台湾の人たち自体もその地域や社会での単一の「歴史」しかもたない集団でもありません。様々な「歴史」を負い自分の人格を持つ多様な人々の集まりです。
誰かが大切にしているものを尊重しあう事は人間として必要です。
誰かを否定しなければ成り立たないような「思想」に安易に頼るべきでは有りません。
本州の政治史「のみ」が日本の歴史ではありません。地方史や文化史、技術史などの先人たちの豊かな「生きた証」が歴史です。
それらを含めてこそ今の日本は誇るべき「祖国」でもありえます。
「真実の日本史」を学ぶことは「愛国者」として悪いことではありません。
重なり合うそれぞれの歴史を持つ様々な「我々日本人」に誇りを持つべきです。
この記事の「歴史」については現在の学問的な研究を基に「摂津国人」個人の解釈で書きました。
この先の研究によって書き換えられる事もあるでしょう。
それが根拠のある事実関係に基づく「学問」としての歴史のはずです。
参考
>アイヌの歴史と文化 財団法人アイヌ民族博物館
>http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/rekishibunka/index.html
>目からウロコ!最新の琉球・沖縄史
>http://torohiko.ti-da.net/(通史)
>目からウロコの琉球・沖縄史
>http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/(上里隆史氏のブログ)
以下、参考にした個人的にお勧めの書籍についてです。
「アイヌ民族の軌跡 (日本史リブレット)」 浪川健治
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「アイヌの歴史 海と宝のノマド」 瀬川拓郎
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「アイヌの世界」瀬川拓郎
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個人的にはこの先定説とされる部分も多いと考えています。
>北の考古学 瀬川拓郎氏のブログ
>http://blogs.yahoo.co.jp/arch74324
「目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム」 上里隆史
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上の参考URIの記事を基に書籍化した琉球・沖縄史。
新進気鋭の研究者が現在の学問的な成果をわかり易く面白く語ります。
「世界の食文化 (20) 極北」
- 作者: 石毛直道,岸上伸啓
- 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
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