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リテラシーと理解について考える

水田稲作と弥生時代の始期

 現在の「日本社会」形成の始まりともいえる大きな画期は水田稲作の移入と考える事も出来ます。
 近年の考古学の知見では西暦紀元前1000年以降に韓(朝鮮)半島から完成された畦畔を伴う灌漑水田稲作が技術を持つ移民とともに当時の「縄文社会」に受け容れられたとされます。
          
 「日本」には時期や地域にもよりますが堅果の管理採集を主とし漁労や狩猟と一部の植物栽培から生活の糧を得ていながら既に広く交易も行っていた「縄文社会」が約7000年に亘り存在しました。
 韓半島では「櫛目文土器時代」の早い段階から華北型「雑穀」農耕と初期的な稲の農耕を取り入れてはいましたが「縄文社会」には(稲の栽培を含む可能性もある)初期農耕は限定的にしか受け容れられてはいませんでした。
     
 韓半島には山東半島で始まったとされる畦畔の伴う灌漑水田稲作遼東半島を通じ持ち込まれ、無文土器時代中期の半島中南部の松菊里文化初期に成立した農耕社会から生産性が飛躍的に高まったようで九州北部の「縄文社会」では交易ルートを通じ積極的に技術と移民を受け容れたとも考えられます。
 半島での農耕の発展期に気候の寒冷化で食糧生産が落ち込み人口を減らしたといわれる縄文社会には魅力的な技術ともみられたのでしょう。
 大きな「波」が一度に来たわけではなく持続的に長期間をかけ移民や技術を取り込んでいったと考えられます。
 おそらく百年以上をかけて松菊里文化と縄文文化が混ざり合い弥生文化が生まれたとされます。
 韓半島では稲作と他の穀物の栽培が並行して行われていましたが弥生社会では稲作にほぼ生産が集中していきます。麦や雑穀も一部栽培され堅果や果実等が多く用いられますが選択的に気候風土に合う「米」の生産を重視しています。
 弥生社会は成立してからも九州北部だけで存在し「日本」でも他の地域では縄文社会が並行して存在しました。
   
 本州西部に水田稲作が広まっていったのは九州北部に持ち込まれて200年以上経ってからです。「征服」といった形だけではなく同化拡散していったとみられます。
 弥生人が移入した地域や縄文人弥生文化を取り入れた地域があり、現在では縄文社会と弥生社会は連続性があると考えられています。
 農耕については気候や地勢の事情で中部地方以東では畠作が主流になりますが「日本」の領域の多くが「弥生化」したのは西暦紀元前400年以降だと考えられているようです。
       
 水田稲作の生産性によって人口が増加し「日本」ではそれから「文明化」が進みます。
 縄文時代晩期には7万6千人程度であった人口が2世紀頃の弥生時代末には59万5千人にもなったとされます。その後8世紀には5〜600万人にまで人口は増大します。
 韓半島との交流も常に存在し、弥生時代後期には中国文明との直接的な交渉も始まりました。春秋戦国期には韓半島でも中国社会の直接的な影響が強くなります。
 その影響もあってか西暦紀元前100年頃には「日本」領域でも「クニ」が生まれ、後の日本社会へと繋がります。
        
 その後も「日本社会」の「発展」には米が大きな役割を担います。米の生産が人口や社会にも大きな影響を与えました。
 いわゆる温帯ジャポニカ種は日本の多くの地域の気候風土と相性がよく、面積あたりのエネルギー生産量が多く水田稲作は農作物にはよくある「連作障害」も少ない等 「日本」社会にとってメリットが多いといえます。
 麦や雑穀類は生産性が低い(半分から1/3程度)側面があるので、もし米が存在しなければ全く異なった社会になったでしょう。
 「日本」を作り上げたのは水田稲作と米といえるのかもしれません。
 その意味では「日本の主食」を「米」とするのも妥当でしょう。
    
【参考】
農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 石川日出志

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)

ごはんとパンの考古学(市民の考古学) 藤本強
ごはんとパンの考古学 (市民の考古学)

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農耕の起源を探る−イネの来た道(歴史文化ライブラリー) 宮本一夫
[図説]人口で見る日本史 鬼頭宏
[図説]人口で見る日本史

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(※イネの遺伝から稲作史に大きな足跡を残す佐藤洋一郎氏の研究は大変素晴らしく現在定説とされる大きな発見もありますが「仮説段階」の物も多く、検証されていない説をそのまま用いるのには慎重であるべきでしょう。)