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リテラシーと理解について考える

間違いであった

 何らかの事情で自分が今までの行為が「間違いであった」とされるとどんな感覚なのだろう。

 これは尊敬する誠実な先人から学び、苦労をして身につけ、日々多くの努力をし、懸命に考え、人の役に立つと考え、心から喜んでもらった経験があり、生き方として信念を持ち、ささやかながら生活の糧とし、永年にわたり家族や仲間に誇りとして来た人生そのものです。
 同じ志と想いを持つ人達と手を携え、協力し合い、夢を実現させるために歩んできました。
 自分の事よりもまず第一に他人や社会に対し誠実であろうとしてきたつもりはあります。
 自分が良い思いをするだけの為にしたつもりはありません。
        
 実はそれについて今までも問題視する意見は聞いた事があります。
 単なる偏見から頭ごなしに否定された事も有ります。
          
 それらを日々の誠実な努力によって時間を掛け出来る限り誤解を解いてきたつもりです。
 可能な限り改善し、問題を乗り越えてきました。勉強を怠った事はありません。
 経験上は間違いなく「良い事」をして来たはずです。
 一部から出てくる批判には全く説得力を感じませんでした。根拠を示し誤解を解いてきました。
 自分の知る範囲では何も悪い事だとは思えません。
     
 外からは「同じ側に居る」とされる、仲間とはいえない一部の不届き者の過ちには心を痛めてきました。
 自分達の努力を踏みにじられたとも感じ、憤りを持ち、自分への戒めともしてきました。
 可能な範囲で過ちを正すために勇気を出し、矢面に立ち声を上げてきました。
 若者達に見本となるべく大人としての責任を果たし、後に続く者達の為に道を示したつもりがあります。
 
 思いがけない批判が沸き立ちました。
 今迄の多くの誤解の延長のような気がします。
   
 丁寧に説明をしましたが相手側は全く聞く耳を持たないような印象です。
 聞いた事が有る様な話に良くわからない新しい「理屈」がつき、どんな風に説明しても理解してもらえません。
      
 あれよあれよという間に自分が今までの行為が「間違いであった」とされてしまいそうです。
 大きな力を持つ連中が「簡単に」自分の生き様を否定して来ました。
   
 今迄の努力は無意味で、善い事と信じてきた生き方が悪事だというのです。
 場合によっては謝罪と賠償を求められる愚行をしてきたといわれるのです。
 他人の為にとしてきたことが、やる意味も無く、相手を傷つける汚らしい私利私欲だといわれるのです。
            
 指をさして哂う人が居ます。
 したり顔で「あいつ等が愚かなのは知っていた」と自慢げにいう人が居ます。
 これ幸いとよってたかって叩かれます。
           
 自分を今でも信じてくれる人達はいます。共に心を痛めています。
 相手側は理不尽に納得できない「根拠」とやらを振りかざし「攻撃」を強めてきます。
  
 負けるわけにはいきません。
 正しい事はいつかは認められるはずです。

  
 仕方なく誰かを批判する時には想像力を持ちたいと考えています。