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リテラシーと理解について考える

図書館問題

 前の記事で小説「ローマ人の物語」の読者の受容について書きましたが、書いた動機としてあるのが図書館における「ローマ人の物語」の扱いについての不満です。

 大学の図書館や大都市の大きな図書館ではどうなのかは知りませんが、地域のそれほど大きくはない図書館に於いては小説である「ローマ人の物語」が「歴史」のスペースに並べられている事が多いように見えます。
 近所の幾つかの図書館では何処でもヨーロッパやローマ帝国の「歴史」の棚にずらりと並べられるか、そこに案内が置かれ書庫に収められている事が多いです。
         
 勿論図書館の利用者にとってはこの「小説」が歴史についての「知識」を得るために有用だと感じたり、この「作品」を探す際に「ローマ史」の棚にあることが便利なのは間違いないです。
 ですがこれは「小説」であり「物語」です。出版している新潮社でも時代小説に分類しています。
 検証能力がある人が読めばわかるように歴史の史料を利用しつつも塩野氏の個人的な解釈や思い込みが自由に書かれ、広い意味での随筆であって事実を正確に書くことや論理的に示すことより嗜好に基づく主張や感想に重きが置かれています。
 形式の上でも内容的にも「歴史書」として扱うべきものではありません。
         
 特に公共の学習の場であり、専門的な知識の無い人達が少しでも教養を得たいと頼る知の発信源である公立図書館が「フィクション」を「ノンフィクション」として扱うことには大きな問題があると考えます。
 公共の「メディア」である図書館が「リテラシー」を混乱させることは批判されるべき問題です。
 少なくとも「自称」歴史書である井沢元彦氏の「エッセイ」や他の政治的な偏向がある「歴史書」はとりあえずは自ら「歴史」の本であるとしている訳ですから歴史の本として分類することはやむを得ませんが、自ら「物語」とし出版社も「時代小説」として分類しているものを歴史書として並べるのは公共の情報発信源である図書館としては役割と責任を放棄したものと見做されても仕方ないでしょう。
   
 現実と「フィクション」を混同するような事は可能なかぎり避けられるべきです。
 逆に「フィクション」を現実と同様に考え「不道徳な」「物語」を排除することにも繋がります。
    
 「何を細かいことを言うのか」と思われる方も多いかもしれませんが頭の良いインテリの方とは違い多くの「普通の人」たちは「公的な分類」は何らかの根拠に基づく専門家の「リテラシー」として受け取ります。
 たとえば他にも公立図書館の棚では健康や食についての知識を得ようとした場合に根拠のない「代替医療」やカルト的な集団の怪しげな主張が「医療」「健康」「栄養」の棚にずらりと並びます。
 利用者からのリクエストで仕入れ、著者や出版社の主張として棚に並べているのかもしれませんが結果的には公共機関が「迷信」の発信源としての役割、「嘘」に保証を与える役割をしていることは事実です。
 図書館の役割としては出版物を検閲しないことが当然であることは認めますが、理想的には「分類」である程度のリテラシーについての責任を果たして欲しいとも考えます。
    
 その点について図書館が著者や出版社の主張に沿う形での分類をしているとの立場であれば「ローマ人の物語」は小説として並べるはずです。それを「歴史」として並べるのが可能ならば逆に根拠のない代替医療陰謀論の本を「オカルト」の棚に並べる事も求められるべきです。
 整合性よりも「都合」を主張されるのならば知的誠実さと社会的な責任を軽視する姿勢と受け取らざるを得ません。
 「小説」をノンフィクションの棚に並べるのは図書館による表現の自由に対する不当な介入です。
 教育者が便宜的に「嘘」を教えることや政府が情報を操作したり報道機関が根拠のない「デマ」や「煽り」を無自覚に垂れ流すことと何ら変わらない無責任です。
 言論と出版の自由を重んじ知や教養に価値を見出す立場で公共の責任を担う事を生業とするのならば誠実な行動をすべきです。
     
 地域の小さな書店では怪しげな本がよく売れるのか棚の多くを問題のある本が多く並びます。
 書店では「商売上の都合」があるのでやむを得ないのでしょうが公共の図書館は役割が違います。
 現代社会のリテラシーの問題は当事者全ての責任でもあります。知と教養について公的な立場を自覚してもらいたいものです。
      
 ……ここまで書いてから確認したところ新潮社では「ローマ人の物語」を一部を除いて「歴史書」に扱いをかえている事に気づきました。 http://www.shinchosha.co.jp/search/result.php?pageId=2&publishCode[30]=30&genre2[V500]=V500&publicationDateRange=0&template=M&limit=20&sort=2 現在「小説」として扱われているのは最終章「キリストの勝利」のみのようです。現在品切れ中なので次の版から歴史書になるのでしょうか…。
 だとするとこの「出鱈目な」「歴史エッセイ」が日本の言論界では「事実」として扱われることになるようです。
 こうして「迷信」が社会的に許容され権威を持ち、現実を動かしていくことになるのでしょうね。
 またも「近代」や「理性」が「物語」や「感情」に敗北していく事になりました。
 表現者の「嗜好」に基づき、都合良く意味付けられた「物語」を「権威」として利用してしまう事には違和感を感じます。
 都合の良い「物語」を与えてくれる「権威」を求めてしまうのは現代の社会にある我々としてはやむを得ないのでしょうか。