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リテラシーと理解について考える

古代ローマ帝国の税制と社会 「ローマ人の物語」について その2

 古代ローマ帝国の税制と社会 「ローマ人の物語」について その1の続き。
     
 基本的に古代ローマ帝国は属州の社会の「上に」支配者として君臨したものです。
 本国は属州経営の「利益」で「食べていた」訳で低い税率で効率よく暮らしていたわけでもなく、比較的に「平和」であったとしても殆どの属州の住民には現代に比べそれ程暮らし易い社会でもありません。税金等の出費も「十分の一税」だけではありません。
      
 たとえば日本の歴史で言えば征夷大将軍の代わり(又は上)にローマ総督がいて日本全国から「十分の一税」をとるシステムです。
 人々の負担が軽いわけではありません。ローマに対する負担は少なく見えても属州の「自治」に対する負担も勿論存在します。
 ローマの「十分の一税」の負担が少ないのなら論理で言えば「日本の幕府政権は臣下や国民からは基本的に所得から税金を取らない」ということに成ります。
 幕府や幕閣は自分の荘園経営で収入を得るか、自領の領民から年貢を取るのであって基本的に「税金」を取らないからです。
 勿論これは「詭弁」に近い書き方です。
   
 今の日本で言えば日本政府(属州)の上にアメリカ(ローマ帝国)がいて「十分の一税」がアメリカに支払う状態です。
 属州もローマ軍に属する属州兵「補助軍」とは別に「自衛軍」程度の軍事力は独自に自費で運営し、場合によってはローマの戦争にも駆り出されました。その際に「ローマ市民権」が属州軍人に付与されたとは限りません。
 ポンペイウスカエサルの軍事力としても都合で属州軍は動員されました。
    
 「ローマ帝国」はアウグストゥス当時は400〜500万人のローマ人が属州も含め人口5000万人の帝国の支配集団として存在する体制です。
 その上多くの労働は奴隷によって行われます。解放制度はあるにしろ自由な「労働者」ですら無く剣闘士として生死を見世物にされ、命を落とす物も多くいます。素晴らしいインフラも高度な建造物も食料生産や流通も奴隷労働により成り立つ社会です。人口の15〜20%が奴隷でした。特にイタリア本土では最大で人口の半分が奴隷であったようです。
 家内労働の奴隷はまだしも農村・土木奴隷の生活は厳しく、鉱山労働や海運に携わる奴隷の命は使い捨てと言えるものです。
 基本的には子孫を残さないので戦争による奴隷獲得がなければ社会が維持できないシステムでした。
     
 ローマ市民であっても極一部の貴族や資産家と少数の騎士階級らが多くの平民達の上に存在する厳密には世襲ではない物の階級社会です。兵役と引換に最低限の生活を保証されてる平民も多くは一生貧しい生活で過ごさざるを得ません。
 現実には少数の軍事貴族による寡頭制社会です。現代の日本の多くの人間の方が遥かにましな生活をしています。
 事実上の「支配階級」が行う「公共事業」を現代社会の資産家の行う「慈善事業」と同様に考えるのは単なる「歴史音痴」でしょう。
 有力者の行う「公共事業」は与えられた特権との引換えに行われたもので公私の区別の弱い古代社会での公の在り方です。
 「ローマ人」が政治と軍事と土木建設に優れた人たちで「古代ローマ」が偉大な文明であったことは間違いないでしょう。
 古代社会としては当時の他の国よりは相当「ましな体制」で「平和な時代」かもしれませんが近代国家とは比べるまでもありません。

 戦争による戦利品と捕虜として連れてこられた人や攫われた人、没落し売られた人々が奴隷として用いられていることで「全盛期」の社会は成り立ちました。
 後には平和な時代が続き帝国の富と権力は分散されローマの支配力が弱まることに成りました。属州出身の支配者が帝国の中枢を担います。「古きよきローマ帝国」は戦争と強権支配による野蛮な世界でもありました。小説「ローマ人の物語」の理想とする世界です。
               
 それに古代ローマ帝国の統治については残されている史料が限られていて、制度や経済についてもわかっていない部分も多くあります。
 ローマの支配層の当事者の都合の良い部分はそれなりに書き残されてもいますが実像については未だまだ研究が進んではいません。
 数百年にも渡る長い期間続き、制度も時代ごとに変わり地方によっても違いもあります。
 思いのほか複雑で社会全体について語り得るほどの事実はわかっていません。政治史の一面のみで社会について論じるのは不可能です。
        
 「ローマ人の物語」「だけを読んだ」方にはその点を理解していない方がおられるような印象があります。
 塩野氏はイタリア好きの「カエサル」ファンとしての偏りの有る書き方をしています。ローマの「英雄たち」の視点から見て書いています。読者も「上から」の視点で「ローマ人の物語」を読むことに成ります。
 書いてあることにそれ程は嘘は無いのでしょうがご自分の主張に都合の悪い事は書かず、良い印象を感じるように情報やエピソードを選択し、表現や論旨を操作しています。結論有りきで「物語」を「作って」います。
 形式上としては塩野七生氏も「物語」として書き、新潮社も「小説」として出版しています。
 「創作物」としての「ローマ人の物語」は優れた作品でしょうし、「小説」として読者がどの様に楽しんでも何の問題もありません。
 ただ「ローマ人の物語」を「歴史書」として読むのことは問題です。「歴史の事実」として受け取るべきではありません。
 歴史について学ぶならば「事実」に基づいて学ばなければ意味がありません。少なくとも人文・社会「科学」としての価値はありません。
      
 才能と幸運に恵まれた現代人である塩野七生氏個人の主張に合わせて脚色され理想化された「事実」とはいえない「歴史小説」です。
 現代人の「価値観」で歴史を観て「消費」しようとする「クリエイティブ」なメッセージを持つ結論有りきの「創作活動」です。
               
 経営者や「ビジネスマン」等の人たちや「今の世の中について何か言いたい」人には都合の良い部分が有る「創作物」ですから多くの人に「嗜好品」として受け入れられるのは問題有りませんが、この「小説」を「歴史」の事実として受け入れるべきではありません。
 読者に都合良く書かれた創作物が都合が良いのは当たり前です。何の根拠にも成りません。
         
 ローマは属州に対し「十分の一税をとる」としているのであって「十分の一税しか負担を求めない」とはしていないのは押さえておくべき理解です。現代の近代国家のような全ての人間に「権利」のある民主的な社会ではありません。特に属州の住民に対しローマは基本的に責任を負いません。「ローマの支配地を守る」という責任は現代社会の国際社会や国家のおける安全保障に対する考えとは明らかに異なるものです。
     
 「古代ローマ帝国」は属州の住民等に対する「搾取」を行う軍人「階級(集団)」である「ローマ市民」による支配体制であるという基本的な理解を抜きにして語ることは合理的ではありません。
 基本的に「現代」は比較的に優れた社会で、過去に例の無い位に「良い社会」です。古代社会と比べるまでも有りません。
 問題は多くありますが力を合わせて改善すべきものです。有りもしない古代の理想郷をもとにし批判することは無益です。
           
 小説や物語を引きあいに出し現実の社会の問題を語るのは主張としては慎重に行うべき事です。
 特定の思想信条に都合のよい部分がある様に書かれた「創作物」から現実について読み解くのは良い事ではありません。
 「小説」を歴史として理解すれば「ニセ歴史学」になります。
 現実には有りもしない理想の「ローマ帝国」をダシに現代社会を批判し、「保守系新自由主義者」等が都合が良いと考える「野蛮な社会」を優れた社会のように理解するのは「迷信」とも言えます。
 この「物語」が今の社会で「経営者」や「政治家」らの社会の指導的な立場の人々に「歴史」として読まれているらしいのは気味の悪い話です。「ニセ科学」の蔓延とも重なる「事実の軽視」であり「新しい迷信」だと考えます。
                   
 書かれている事に「事実」が含まれていても現在の現実においてそのまま使えるものではありません。
 その上都合の良い部分だけを都合良く解釈する「物語」から学ぶ事は多くはありません。
 「○○主義者」のいう実在しない「理想社会」から現実を語ることには限界があります。
 企業で「ローマ帝国」の様な「経営」が行われ、社会が「ローマ帝国」の様に「効率的」になり、国民が「ローマ人」の様に「合理的」なることは寧ろ歴史から何も学ばないということです。
 単なる「弱肉強食」の正当化しか読み取らないのだとすると「科学的」な態度とは言えません。
 「国際社会の現実・パワーポリティクス」や「意志を持ち生きる事」等に人によっては参考に出来る内容も書かれてはいますが物事の一面でしか無いです。
 経済誌等でもこの「小説」を事実として歴史を語る場合もあるのはリテラシーとしての問題です。
 たとえこの「ローマ帝国」の方式が「企業経営」にある程度適用出来たとしても、それを現代「社会」に置き換えるのは不可能です。
       
 ちなみにオスマン・トルコ帝国を筆頭に中世のイスラム国家やカソリック教会、古代のユダヤでも「十分の一税」は標準で古代ローマ特有の税法ではありません。
          
 塩野氏の書き様は余りに牽強付会で恣意的な解釈で現代の社会や人間についてローマ帝国を引き合いに出して主張を述べられます。
 創作物である「小説」としては悪い事ではありませんがこの「物語」を歴史(事実)として読んでしまう人がいるのは良いことだと思いません。古代ローマ史の「教科書」のように読まれる事には違和感があります。特に余りに膨大で詳細に魅力的なエピソードが書かれるために他のちゃんとした「歴史書」が読まれなくなることには懸念があります。
 他の資料に当たらずにこの「ローマ人の物語」の内容がまるで「歴史」の「事実」として扱われる様になるのだと困った事です。
 個人的には「ローマ史の基礎教養」や「歴史の入門書」としてはお勧めできません。
 懐疑的・批判的に読めない読者に対しては乱暴で浅薄な理解を摺りこんでしまいます。「歴史」のリテラシーも簡単ではありません。
 小説として楽しむぶんには問題はありませんが、基本的な歴史の素養やセンスのない人が読むには偏りすぎています。
  
 個人的には塩野氏は世間知らずのロマンチストだと感じています。寧ろ「近代」の色眼鏡で歴史を見ています。
 近代国家と古代の社会の違いについてよく認識せず、ローマ市民と属州民や階級についても混乱や混同が見られ、基本的に社会制度や技術を余り理解していないように読めます。頭の中にあるストーリーに合わせて歴史を「物語」に当てはめて解釈しています。
 政治や社会について『「ローマ人の物語」から「歴史」を学んだ』とする方が居るとすれば「フィクション」を根拠に事実を語るトンデモです。この「物語」から古代ローマ帝国を「理想社会」と信じる人は北朝鮮を「地上の楽園」と信じた人を笑えません。
        
 塩野七生氏や井沢元彦氏の歴史の専門的な研究や事実に基づく検証に対する藁人形論法を真に受ける人が多いのは残念な話です。
 自分にコントロール出来ない「知」「体系」へのルサンチマン的な感情を持つ読者には痛快でしょうが、それを相対化出来ないのなら「迷信」にしか成りません。
 塩野氏が根拠もなく大昔の「文芸」としての歴史にこだわり、現代の「人文科学・社会科学」としての「歴史」を理解していないのは間違いありません。表現者としてはそれほどおかしくは有りません、表現の自由です。
 現代の複雑で歯切れの悪い「科学」に居心地の悪さを感じ、居心地の良い「物語」を好むのは人間の感覚として当然です。
             
 個人的には「ローマ人の物語」自体はあまりに長大なので怖気付いて全部を通して読んではいません。
 読もうとした事も有りますが第一巻の最初の部分で考古学的資料で否定されている「伝説」を殆ど「事実」のように論じる部分で読むのは諦めました。幾つかの部分を読みましたが塩野氏個人の思い込みや決め付けによる恣意的な解釈と史料の選択にうんざりして全文は読み通せませんでした。「小説」として自分の「好み」には合いませんでした。
               
 ですから塩野七生氏の「小説」である「ローマ人の物語」その物を批判するつもりはありません。
 「創作物」に於いては書き手の表現の自由は当然認められるべきです。
 読者が楽しんで読んだりそこから何かを読み取ることも何の問題もありません。
 ただ「物語」を「事実」として受け取る事や、それが現実社会に影響をあたえることには慎重であるべきだと考えます。
   
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った人がいるそうですが「歴史を物語(創作物)から学ぶ」ひとは何者なのでしょう。