はてなビックリマーク

リテラシーと理解について考える

「データから見た格闘マンガ」序説

 近年、「格闘技・武道漫画」の『枠』が減っているのかという話です。
 id:gryphonさんのhttp://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150504/p2http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150512/p2の記事から続けたまとまりのない不完全な簡易調査のメモ書き等です。作品の内容評価については基本的に論じません。

 自コメントより。

 商業出版の今現在進行形の格闘技・武道漫画はとりあえず「火の丸相撲」「UBS」「はじめの一歩」「刃牙道」「鮫島、最後の十五日」「修羅の門」「鉄拳チンミ」「ツマヌダ格闘街」「リクドウ」「喧嘩稼業」「ハナカク」「オールラウンダー廻」「鉄風」「陣内流柔術流浪伝 真島、爆ぜる!!」「バガボンド」「愛気」「雄飛」「マイボーイ」「七帝柔道記」「セスタス」「ケンガンアシュラ」「明治異種格闘伝 雪風」「あさひなぐ」「はやて×ブレード」の24作が有るのを確認しました。
     
 抜け落ちもあると思います。今年中に終わる可能性があるのが3作前後。
 これが多いのか少ないのか、増えているか減っているかはわかりません。
 2015/05/09

 ブックマークコメントをしました。

 今年完結済は「軍鶏」「りきじょ」「ジュウドウズ」。   
 2015/05/12


 5月9日時点の連載で抜けていて気づいたのはフェンシングの「銀白のパラディン週刊少年サンデー5月13日24号で完結しました、同じくフェンシングの「DUEL!(ヤングガンガン)」レスリングの「弾丸タックル(月刊少年チャンピオン)」、柔道「KIMURA 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(週刊大衆)」もありました。サンデーの『枠』はその時点まで有ったと見ることもできます。
「バカビリーバー(週刊ヤングマガジン)」が格闘マンガに進むかもしれません(上記記事コメントから)。4コマですが現在唯一のプロレスマンガかもしれない「強くてカッコイイ女子は好きですか?」はTwitterアカウント「ツイ4」とWebサイト「最前線」で掲載された作品から書籍になったものですがこれも商業出版の格闘マンガといえるでしょうか。
 まだあるかもしれませんがとりあえず29作か30作程度だったという事になります。(あったら追記します)
 【追記】月刊少年シリウスのSF格闘もので馬場康誌「ゴロセウム」がありましたのでこの時点で31作でした。
   
 このうち昨年2014年の新作(続編を除く)は「火の丸相撲」「ジュウドウズ(完結)」「銀白のパラディン(完結) 」「リクドウ」「雄飛」「マイボーイ」「七帝柔道記」「明治異種格闘伝 雪風」「強くてカッコイイ女子は好きですか?」の8作、2014年に完結した作品は「史上最強の弟子ケンイチ」「BUYUDEN」「空手小公子物語」「ロックアップ」「モングレル 」「ウチコミ!! 」「真・餓狼伝」の7作を確認、もう少しあるかもしれません。
 2015年の新作は一応現在「UltraBattleSatellite(UBS)」「DUEL!」とまだわかりませんが「バカビリーバー」です。【追記】「ゴロセウム」もありました。
修羅の門」と「鉄風」の完結が確定し、あと何作か終わる可能性のある作品も有ります。今年5月までで3作4作新作で後半も同じようなペースだと昨年末時点の31作から25〜28作で微減程度でしょうか、この2年が平均的な推移なのかはわかりません。
 
 特に「格闘技・武道漫画」のファンというわけでもないのでそれ以前はわかりません(実際、ここに書いてある作品もちゃんと読んでいるのは5分の1もない)。興味がわいたのは「格闘技・武道漫画」ではなく「その状況」です。
 平均的な作品数がわからないためとりあえずは量的に衰退していると断言はできないでしょう。
   
 他に「キン肉マン」等を格闘マンガに入れるべきかどうかもあります。
 
 「格闘技・武道漫画」は週刊少年サンデーに『枠』が有った様に見え、週刊少年ジャンプは力を入れていないように見えますが2000年以降でみれば新作はサンデーの「タケル道」(短期集中連載)2000年「KATSU!」2001年「史上最強の弟子ケンイチ」2002年「武心 BUSHIN」「いでじゅう!」2006年「BUYUDEN」2011年「銀白のパラディン 」2014年の7作、ジャンプは「A・O・N」「UltraRed」2002年「キックスメガミックス」「ごっちゃんです!!」「サラブレッドと呼ばないで」2003年「タカヤ -閃武学園激闘伝-」2005年「K.O.SEN」2008年「クロガネ」2011年「無刀ブラック」2013年「火の丸相撲」「ジュウドウズ」2014年「UltraBattleSatellite」2015年の12作(Wikipediaより)で実際はジャンプの方が新作投入数は多い(特に02〜03の大量投入が目立つ)ようなのでこの2誌では単に『枠』というのは難しいのかもしれません。
 ただ週刊少年誌一般としてはより大きな『スポーツ枠』というのは有るかもしれないとは感じます。
    
 Wikipediaではわかりにくかった(時系列で書かれていない)のですが週刊少年マガジンでは「はじめの一歩」の他「新・コータローまかりとおる! 柔道編(27巻、シリーズ計94巻)」が2000年末までで、2001〜2002年に「霊長類最強伝説 ゴリ夫」がありますが近年は基本的に「はじめの一歩」があってその他もう1作が有るかどうかの状況。
 週刊少年チャンピオンは基本的に「刃牙」があり、2009年からは「バチバチ シリーズ(上記の「鮫島」、計30巻〜)」が始まり、10年からは12年は「ハンザスカイ」その後13〜14年「真・餓狼伝」「ウチコミ!! 」ほぼ2〜4作程度は掲載しているようです。Wikipediaで見たところ正確ではありませんが(タイトルからだけでは内容が掴みにくい)新作は2000年以降10作以上。
週刊ヤングマガジンでは基本的に「空手小公子」及び「喧嘩商売(稼業)」のいずれか1作又は2作掲載されていて、週刊ヤングジャンプも「タフ」以降も抜ける時期は有るものの1作は載せられているようです。これらの雑誌は『枠』が有ると見る事も出来るかもしれません。
 但し同じ雑誌の場合はヒット作の大長編の後には類似する作品の人気が出にくいという側面もあるのかもしれません。
     
 現在最古参の「格闘技・武道漫画」は「鉄拳チンミ」が1983年開始(「キン肉マン」1979を除く)で2年の中断期間がありますが32年(計77巻〜)、「修羅の門」開始が1987年(本編1996中断、2010再開、計61巻〜)「はじめの一歩(110巻〜)」が1989年〜、「グラップラー刃牙(計117巻〜)」が1991年から、「高校鉄拳伝タフ」が1993年から「TOUGH」の2012年まで(計83巻)、「軍鶏」は1998年から(34巻)、同「バガボンド(37巻〜)」。2000年「空手小公子(計56巻)」「史上最強の弟子(計66巻)」。この辺りが代表的な「大長編」。(連載ストーリーマンガの場合週刊誌だと年4〜5巻、隔週誌や月刊誌だと年2〜4巻が標準)
    
 一つの仮説(歴史観?)としていえば夢枕獏の影響を受けた1987年「修羅の門」開始(奇しくもこの年、梶原一騎が死去している)から始まる現代「格闘技・武道漫画」の歴史が、90年代半ばからはブーム的な状況になり、2000=00年代には長編、大長編になるヒット作が綺羅星の如く並ぶ「黄金時代」を迎え、2012年辺りからそれらの大長編が終わりはじめ(2010辺りが頂点?)、2015年「修羅の門」完結と共に「世代交代」又は「黄金時代が終わる」時期になったと考えられるのかもしれません。
    
 ブームの終わりなのか読者の高齢化か短期的な不作か端境期か堅調期か飽和状態なのか実際のところはわかりません。作品数に関してはできれば20年位は比べたいものです。
 とはいえ現在でも競技スポーツ物では無い(ブームを支えた)「修羅の門」系の「最強」異種格闘技・総合物も6〜8作でそれなりのニーズは有るようです。
 もう一つの「王道」部活スポーツ格闘・武道物は女子物が増えましたが男子の「弾丸タックル」「火の丸相撲」が気を吐いています。
 2010年以降の新作で10巻以上の長編は10年の「ハンザスカイ(完結)」、11年からの「あさひなぐ」「BUYUDEN(完結)」、12年からの「ケンガンアシュラ」辺り。近年新作の大ヒットに恵まれないといえるでしょうか。

 少し気になるのがネットでの「格闘技・武道漫画ファン」の新作に対する厳しさです。
 「黄金時代」が頭にあるのかマニアに限って新作をほとんど評価しない……。観測範囲だけかもしれませんが印象的には「衰退期」の特徴のようにも見えます。
 ブームの始まりは(おそらく)不完全でも採りあげられるだけで喜んだマニア・ファンの読者が新作が出ると「名作」の到達点と比較し、低く評価し、後継者が育ちにくいというのはありえる状況です。優れた作品が続き、受け手の目が肥えるというのもブームの終焉の理由の一つなのかもしれません。面白い作品と「正しい」作品が一致するとは限らないでしょう。
   
 とりとめがなく抜けの多い相当粗い記事ですが、もしよろしければどなたかこの後を続けてデータを集めて戴き(引用されるなら要件を守り)、「格闘漫画全史」や「21世紀の格闘技・武道漫画」「格闘マンガデータべース」「格闘マンガ年鑑」といった研究にしてください(既に同人誌などで存在するかもしれませんが)。こちらへのご指摘も歓迎します。
 格闘技・武道物だけではなく音楽物や料理物も00年代にブームになったといえるのでその辺りを調べるのも面白いかもしれません。
    
【追記】2015年に終わった作品は「軍鶏」「リキジョ」「ジュウドウズ」「銀白のパラディン 」「修羅の門」「UBS」「鉄風」「ハナカク」「明治異種格闘伝 雪風」「マイボーイ」の10作で、始まったのは「DUEL!」「UBS」「バカビリーバー」「BlackBox」「修羅の刻 昭和編」「暁の暴君」「世界はボクのもの」【追記】「ゴロセウム」【追記2】「ごっつあんです」の7作9作、マイナス3作1作ですが2016年早々「修羅の刻 昭和編」「弾丸タックル」の2作も終わり、1年強で5作4作3作減ったので2016年1月初めの時点では減少気味といえるでしょうか(【追記】2月に2作新作が有ったので大差は無いといえる様です)。

読書メモ抜粋

 「はてなブックマーク」に書いている「100字読書メモ」の一部、現在200冊強の簡易紹介です。
 飲食、酒造、歴史、刃物、銃刀、軍事等。
 最新>http://b.hatena.ne.jp/settu-jp/?url=http://www.amazon.co.jp/

日本料理の歴史 (歴史文化ライブラリー)

日本料理の歴史 (歴史文化ライブラリー)

平安の中国風の宮廷料理から室町期に完成する儀礼的な本膳、桃山期からの茶懐石から近世にいたる京都を中心とした日本料理史。文献資料によるものだが江戸・地方料理や市販料理本・技法等のより俯瞰的な視点がほしい 2011/06/22

信長のおもてなし―中世食べもの百科 (歴史文化ライブラリー 240)

信長のおもてなし―中世食べもの百科 (歴史文化ライブラリー 240)

江戸の食についての 書誌研究の第一人者による中世の食について詳しく調べた物、文献は読みこんであるが理解が浅い。唐の芋をさつま芋としたり(里芋)瓜を漬物用としたり(甘い真桑瓜もある)おかしな部分がある 2011/06/24

日本めん食文化の一三〇〇年

日本めん食文化の一三〇〇年

「今」の日本めん食史の基本的な研究。俯瞰的に見ることが出来、現在迄にわかっていることが書かれている。著者の新説も興味深い。幾らかは甘いと感じる書き様はあるが史料と実証のバランスは良い。 2011/07/02

麺の文化史 (講談社学術文庫)

麺の文化史 (講談社学術文庫)

麺食研究の古典「文化麺類学ことはじめ」の文庫版。この本を読まないで「麺類史」を語ってはいけない。 2011/07/02

誰も知らない中国拉麺之路―日本ラーメンの源流を探る (小学館101新書)

誰も知らない中国拉麺之路―日本ラーメンの源流を探る (小学館101新書)

恐らく全世界で中国の(現在の)麺類に最も詳しい人の一人。この先消え去るであろう中国の地方麺食の資料。未だ全貌が明らかではない麺食文化。歴史的な経緯や技術史については乱暴な書き方がある。 2011/07/02

「粉もん」庶民の食文化 [朝日新書065]

「粉もん」庶民の食文化 [朝日新書065]

軽いタイトルですが内容は本格派です。実は少ない地方の大衆食のまともな本です。「思い入れ」からでも丁寧に実証することにより良い本になります。2011/07/02

コメを選んだ日本の歴史 (文春新書)

コメを選んだ日本の歴史 (文春新書)

コメの日本伝来については一部判断を保留するが律令期から中世・近世の日本の中央政権らのコメに対する独特の思考や明治からの近代のコメ政策についても詳しく多く学ぶ部分があった。近代のコメ統制史は特に面白い。 2011/07/15

アメリカ大陸コメ物語

アメリカ大陸コメ物語

近代に南北アメリカ大陸に渡った日本人移民の夢と挫折。作者自ら現地を訪ね自分の目で見、人に会い確かめた最後の「真実」。学問的には不備も有るだろうが貴重な記録。凄い面白い。 2011/07/26

アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史)

アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史)

ギリシャの栄光」と大王個人の覇業のみが知られる通史からより俯瞰的に時代を示し、現代の歴史学の有り方と史料その物の意味にまで触れる好著。「森谷節」は面白すぎるので少し注意。後継者戦争も詳述。 2011/07/27

古代ローマを知る事典

古代ローマを知る事典

古代ローマについて史料に基づくデータから描く。「物語」としての歴史だけではなく根拠に基づく現実の社会として視るならお勧め。通史や政治史とは違う(一部書いてある)のですがローマ史の何冊目かに。2011/07/28

五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語 (新潮選書)

五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語 (新潮選書)

興味深い粘土板史料の楔形文字を読み解き古代メソポタミア・シュメルの文化・生活(初期王朝時代)を明らかにする。行政資料も残り面白い。時代の枠組みを知っている方や古代人の息吹を感じたい方にお勧め。2011/09/24

アイヌ民族の軌跡 (日本史リブレット)

アイヌ民族の軌跡 (日本史リブレット)

文献資料から読み取れるアイヌ民族史についての簡潔で堅実な入門書。絶版らしいがもったいない。「政治的」な理由で出鱈目を言いふらす人が多いので重要。2011/09/28

倭国と渡来人―交錯する「内」と「外」 (歴史文化ライブラリー)

倭国と渡来人―交錯する「内」と「外」 (歴史文化ライブラリー)

古墳時代から奈良時代にかけての極東アジア情勢を「渡来人」というキーワードから読み解く。軍事を含む外交と通商を行う豪族達から中央政権に役割が移り律令国家を形作る。現代の知見を史料を基に堅実に書かれている 2011/10/07

夜食の文化誌 (青弓社ライブラリー)

夜食の文化誌 (青弓社ライブラリー)

少し怪しい落語論だけでは無く資料としての価値のある近代の食文化についての論文も含む面白い論考集。近代の都市の闇や地方のハレの夜食まで。階層論、屋台、ラーメン、間食、農山漁村。 2011/10/12

幕末銃器生産事情

 gryphonさんのブログ記事http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150304/p2で3月4日・NHK総合の「歴史秘話ヒストリア 銃声とともに桜は散った 桜田門外の変」という番組が放送されるのを知り、見る事が出来ました。3月10日に再放送の予定です。
 http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/234.html
     
 この番組で示された「井伊直弼暗殺」に用いられた銃はこちらの記事と同一の銃でしょう(これは新聞記事の転載かもしれません)。
     

井伊直弼を撃った短銃? 幕末の複製和銃見つかる

ペリーが日本に贈った短銃を複製したとみられる幕末・日本製の精巧な6連発短銃が見つかった。幕末の精巧な和製短銃は現存しておらず、手に入れた大阪市の古式銃研究家、沢田平さん(74)は「日本の工作技術の高さを証明する貴重な資料」と話す。沢田さんは水戸藩で作られたと推測、「桜田門外の変井伊直弼を撃った短銃の可能性が高い」とも話している。

 米・コルト社製の複製で、全長35.4センチ。銃身内に七条の施条線が刻まれるなど高度な技術が使われていた。グリップは中国から輸入された高級紫檀(したん)。全身に桜の花が彫られ、一部には純銀も使われている。安政年間(1854〜1860)に活躍した彫工「鎌田壽次」の名が彫られている。

 ペリーは1854年の2度目の来日の際、将軍家や江戸幕府の閣僚などに最新式のコルト社製短銃を贈ったとされる。当時、その銃に接することができるのは大老や国防関係の閣僚に限られていた。

 茨城大の磯田道史准教授によると、このレベルの短銃を生産する能力を持っていたのは幕府や海防参与だった徳川斉昭水戸藩薩摩藩など。同准教授は「ペリーの銃が国内で複製されていただけで驚きだ。大名の持ち物であった可能性は高い。現物が残っているのは奇跡に近い」。

 沢田さんによると、この短銃は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、米国に渡っていた。1987年に日本の収集家に買い取られ、十数年前に沢田さんが入手したという。

 斉昭が好きな桜の花をあしらっていることなどから、沢田さんはこの短銃が水戸藩で作られ、1860年に大老井伊直弼水戸藩の脱藩浪士らが暗殺した桜田門外の変で使われた可能性が高いとみている。井伊直弼の致命傷は短銃で撃たれた傷だった。
http://blog.livedoor.jp/kiha1314/archives/28207197.html

 この銃はアメリカのコルト社のモデル1851と同一の形状を持ちます。コルトM1851はパーカッション式のリボルバーです。
 記事や番組では沢田(澤田)平氏が日本(水戸藩)製の銃で桜田門外の変安政7年3月3日(1860年3月24日)で用いられたものだと主張されています。
 しかし残念ですがこの銃は少なくとも1860年以前に日本で作られた銃ではなく、おそらく後代、戦後のスペインかイタリアで作られた複製品ではないかと思います*1
               
 では当時の日本と欧米列強の銃製造技術の「差」についてまず纏めてみましょう。
                
 日本では戦国時代の終わりと共に銃器の発展は留まり、武芸として砲術等が一部残ったのを除けば狩猟や害獣対策を除き銃を用いられることが少なくなります。それなりの数の銃が有ったのは事実ですが基本的には昔ながらの「種子島」が作られていただけです。
 とはいえ堺の鉄砲職人などは多銃身で連発ではなく一斉に発射する斉発銃を試作していたりもします。
 19世紀に入ってからは欧米勢力が日本周辺に現れます。日本国内でも国防意識を持ち、欧米の軍事技術を学ぶ人たちも一部ですが表れてきます。高島秋帆が知られます。同時代には他に久米通賢や片井京助や吉野*2吉雄常三らが雷管の研究を行い独自の銃器の開発を試みます。
         
 実際日本の火縄銃「種子島」は世界の火縄式の中では高性能な部類に入るとされ、現在でも前装銃射撃では人気が有るそうです。
 しかし産業革命が始まり、技術が飛躍的に進化した欧米の銃器とは技術水準としてはかけ離れたものになります。
        
 日本では国内生産のたたら製鉄と輸入による鉄が用いられ、その鉄が板状に加工され、それを棒に巻き付けて筒・銃身を作りました。簡易な「うどん張」とそれを強化した「葛巻き」という製法です。その銃身内部を錐で研削し仕上げます。多くはその筒の一方を尾栓というネジで塞ぎ銃床に固定し、筒の一点に穴をあけ火皿という銃身内部に火を入れる部分に火縄を叩き付けるバネ式のからくりの引き金の部分からなります。
 多くの場合バネは真鍮を用います。真鍮は多くが輸入品だったようです。これらはほぼ手作業の鍛冶や金属加工で作られます。
              
 欧米では14〜15世紀から高炉製鉄が行われます*3。高温で鉄を溶かすためにたたらより効率が良く、たたらのように毎回製品を取り出すために炉を壊す必要もない為に大量の鉄を作る事が出来ます。最初は木炭が用いられましたが18世紀にはより熱量の多いコークスが利用できるようになり、熱風炉の開発でより効率的になります。
 安価な錬鉄と鋳鉄が大量に作られます。
 一方コークス高炉の鉄は硫黄やリンの成分が多く高品質の鋼を作ることはできないのですが、18世紀末には反射炉とパドル法という技術の登場で鋼が作られるようになりました。(とはいえ高品質な鋼は北米やスウェーデンの木炭高炉や坩堝製鋼から作られていた)
 日本では幕末に1858年に橋野高炉、その後佐賀等で反射炉の建設を試みます。しかしその頃には欧米ではベッセマー法などの新しい革命的な製鉄技術が開発されていました。
            
 18世紀には製鉄の進歩とともに蒸気機関の発明があり、産業革命が始まります。
 蒸気機関の発明の基礎となったのは工作機械・マザーマシンの進歩です。
 日本では工作を手技とし、道具の進歩は有ったものの機械化はそれほど進みませんでした。
       
 欧米では一つには近世に入り時計の生産から機械による高精度な加工工作機械の開発が進みます。
 もう一方では鋳造の大砲の砲身内部を均一に研削する「中ぐり盤」等の高機能の工作機がまずは水力を用いて実用化されます。
 この中ぐりの技術を用いる事で蒸気機関は実用の域に達します。そしてその蒸気機関を用いる事で工作機械はより強力になり、効率よく精密な物が開発されるようになります。安価な鉄を多く使う事ができ、工作機械は重量化、大型化も進みます。
 高精度の工作機はその加工技術でより高精度の工作機械を作ることが可能になり、加速度的に機械生産が発展します。*4
        
 19世紀半ばには中ぐり盤の他、フライス盤や旋盤、ボール盤といった高機能な工作機械が一般化し、銃の生産にも用いられます。
 コルトが初期に精密工作技術を持つホイットニー*5に生産を任せていたことも知られます。後に大量の高性能工作機械を導入したコルトの工場は最初期の大量生産工場としても知られます。   
>工作機械の歴史 マシンツールコレクション
http://machinetool.co.jp/rekishi_01.html
 日本が世界レベルの工作機械・マザーマシンを作れるようになったのは戦後の話で、現在では世界のトップレベルにあります。
        
 銃の機能の進歩は日本の戦国時代の終わる17世紀初頭にありました。火縄で発火するわけではなく火打石を用いるフリントロック式です。
 火のついた火縄を常に用意する必要のない効率的な側面があります。しかし銃の威力としては同じ前装式マスケット銃で大きな差は無く、寧ろ衝撃の強いフリントロック式は命中精度が劣ります。
 それから19世紀初頭までは火薬の進歩による幾らかの威力の増大と工作機械の進歩による加工の高精度化以外はそれほど進歩はしません。
 ライフル(旋条)自体はそれ以前に開発されていますが、前装銃の場合弾をライフルに食いつかせるためには弾を布等で包み、銃口から力ずくで押し込まなくてはならないために「ケンタッキーライフル」等を除けば一般化はしませんでした。「種子島」も含め前装銃はライフルの無い滑腔(スムースボア)銃が多数でした。
        
 17〜18世紀は大砲と戦術の進歩の方が目立ちます。高価な青銅砲中心から安価な鋳鉄砲の信頼向上による火力の増大です、これは日本でも長く使われた研削が困難な白鋳鉄から研削が可能な丈夫な鼠鋳鉄への移行も理由のひとつです。
 日本では戦国時代でさえ大砲の生産は低調で技術も低く、江戸時代初期でも輸入砲でまかなっていたのですから太刀打ちできるものではありません。
              
 19世紀の銃の進歩は衝撃を与えるだけで発火する雷汞(らいこう)の発明からです。
 その雷汞を小さな金属キャップに詰めたものが雷管でそれを用いる銃がパーカッション式と呼ばれます。
 連射が容易で、銃身内の火薬が露出せず、火も外部に漏れないために連発銃の実用性も高まり、ペッパーボックス型からコルトなどのリボルバーの開発にもつながります。初期のパーカッション式コルトタイプのリボルバーは前装式ではありますが銃身の後部が別部品のシリンダー部分で閉鎖されそのシリンダーに装填する為にライフル銃身の使用も可能になります*6
           
 軍用の主力である欧米式の小銃は日本で当時はゲベール銃と呼ばれていました。黒船来航以前から日本では一部でフリントロック式のゲベール銃が幾らかは輸入されていましたが「開国」以降は雷管式のゲベール銃になります。1859年には登録制ですが輸入が自由化されています。
 フリントロック式や火縄式から雷管式への改造は容易で雷管式に改造された種子島も有ったようです。
 これらは発火メカニズムを除き機構、威力や精度の点では基本的には大きくは変わりません。
           
 しかしその頃には既にフランスでは前装式ながら銃弾の形を工夫してライフル(旋条)に食い込むように改良したミニエー式が用いられ始めます。従来の滑腔式前装銃より約3倍の威力と精度があります。*7「ライフルのカッティング法いろいろhttp://www11.plala.or.jp/guutara/html/kyousitu/kousaku/rifle_cut.htm
 幕府は1864年から、薩摩でも1865年以降にはミニエー式への切り替えが始まります。長州には1865年に坂本龍馬が4300丁のミニエー式小銃を納入しています。
           
 その後すぐに紙や金属の薬莢を用いた後装式ライフル銃が誕生し、戊辰戦争時には「種子島」、フリントロック前装滑腔銃、雷管前装滑腔銃、雷管前装ライフル銃、後装ライフル銃が入り乱れて戦う事になりました。
 1868年、戊辰戦争が始まり薩長土肥と幕府だけではなく仙台藩庄内藩、長岡藩、紀州藩を筆頭に多くの藩が大量のライフル銃を購入しました。当時は幾らか威力には劣る金属薬莢の連発銃も輸入されます。欧米の武器商人が全国で銃を売りさばきます。
 結果的には欧米から輸入された銃は数十万丁(1説には50〜70万丁以上とも)にも上り、1丁あたり1〜30両(新型は高額)とされおそらく平均でも10両を超え総額では数百万両にもおよび、幕末日本の大量の金流出の一因になったと考えられます。
    
 金属薬莢は基本的には真鍮を「深絞りプレス」という高度な技術で成形しする装填が容易で雨に強くそれ自体が銃尾の閉鎖の役割も担う大変高性能な実包です。これとライフル(旋条)が戦争の形を変えました。日本も金属薬莢、ライフル以降に開国をしたのならば欧米列強により屈辱的な条件を押し付けられたかもしれません。欧米で余剰の旧式を売られたとしても結果的に銃の進歩の最中の開国は幸運なタイミングだったともいえます。
 金属薬莢の成型技術は精密な工作機械と動力によるもので江戸時代の日本の様な前近代社会では作ることはできません。*8
           
 日本では上述の高島秋帆1830年頃から欧米銃の輸入研究を始めますが当時の幕府はそれを重視しませんでした、弟子の江川英龍下曽根信敦と共に独力での研究を始めます。
 黒船来航は実際には前年には幕府上層部や一部の学者は把握し、対策は幾らかは講じていたという事は余り知られていないのかもしれません。
 薩摩の島津斉彬も黒船来航の前年1852年にゲベール銃の生産を計画しています。安政年間(1854〜60)にかけてフリントロック式ゲベール銃1500丁、後期には雷管式に変え500丁の生産を行います。雷管そのものも生産を行っています。1858年の斉彬の死により一区切りがついたとされます。
         
 幕府も何もしなかった訳ではなく出遅れてはいますが1855年に老中阿部正弘は江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃(狙撃用前装ライフル銃)が作れるものと考えていたようです。江川英敏(江川英龍の息子)がこれにあたりますが後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。
            
 そして1860年、ミニエー化したライフル銃の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。*9 *10
 1861年小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠(製作所)に蒸気施条機械が搬入されます。*11   
>幕府の米国式施条小銃の生産について 保谷(熊澤)徹 東京大学史料編纂所紀要 
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/11/kiyo0011-hoya.pdf (PDFです注意) 
          
 当時の日本製ゲベール銃についての評価があります
>日本のゲベール銃 須川薫雄    
http://www.日本の武器兵器.jp/wp-content/uploads/2011/05/20120827gewehr.pdf(クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください。PDFです注意)
 部品の互換性が低く、ネジ山が少なく緩みやすい、バネが弱い、ハーフコック(ハンマーを半分だけ上げる安全機構)が無い物が多くある、銃床が小型、ハンマーの鉄が軟らかい、といった品質的にも厳しい評価になります。これが当時の在来技術の限界なのでしょう。
 ゲベール銃はコルトのリボルバーに比べはるかに簡略な機構・加工の銃です。
          
 他に民間や諸藩の鉄砲鍛冶が作った銃も存在します。倣製といわれます。
 堺や江州・国友、佐賀などでも在来技術でゲベール銃は作られ、おそらく価格的な競争力により1860年代前半には国内の需要をある程度は満たしたようです。雷管式は1860年以降には作られるようになり単発の雷管短銃や二連銃も多く作られます。
 「図解古銃事典 所荘吉」によると倣製の中にコルトを模したリボルバーも見られます。これらの生産時期は明らかではないのですが写真で見た範囲でも明らかに簡略化したものが全てで「井伊直弼暗殺銃」のような完全な造形の物は有りません。靖国神社所蔵品のように*12鋼ではなく高価で軟らかい真鍮を使ったものもありライフル(旋条)も無いものが殆どのようです。(個人的にはこれらの銃は早くとも慶応年間から明治初頭以降の生産を想定しています)
        
 日本での本格的なライフル銃の生産は1880年の十三年式村田銃まで待たなければならないようです(しかしライフル銃身はベルギー製らしい)。*13
 幕末日本の新技術への挑戦は明治半ばには実を結びます。日清日露戦争の勝利の一因です。*14 *15
 そして1893年にはライフル銃身を持つ独自設計の国産リボルバー・二十六年式拳銃が陸軍の制式拳銃に採用されます。
          
 日本の在来技術と近代産業の技術には大きな違いがあります。
 もちろん江戸時代でも日本の刃物など金属加工技術は優れたものであり、高度な職人技術がありました。
 ですがこういった鉄の複雑な造形を強度を持たせて作ることはできません。
 刃物用の鋼とは異なる低炭素の粘りのある鋼の加工なので技術の方向性が異なります。*16

 基本的に当時の技術である熱間鍛造と鍛接でコルトM1851のような形状を作るのは大変困難です。
 輪胴・シリンダーはうどん張りの管を束ねるまではできますが銃尾の閉鎖と回転用のラッチやパーカッション用の穴を造形しあれだけ正確にコピーするのは不可能です。ほぼ人力だけの鏨(たがね)や錐、やすり、砥石であれだけの研削は限界をこえます。
 フレームの複雑な形状やネジをそのままの形で作ることはできません。型を取って鋳物したのではという人もいるかもしれませんが見た目でわかりますし彫刻はできません。
 それに、上に書いたように「七条」のライフル銃身は拳銃のように短いものでも実用的な物は考えにくく滑腔か鏨で刻んだらしい2〜3条の簡易なライフル状の溝が有る、程度だとむしろ幾らかのリアリティを感じさせる事が出来る位です。
      
 http://ja.wikipedia.org/wiki/コルトM1851#mediaviewer/File:Colt_Navy_partially_stripped.JPG (URLをコピー&ペーストして見てください) 見る事が出来ませんでした。WikipediaのコルトM1851にある写真です。
 コルトM1851の分解写真ですが、溶鋼(又は練鋼*17)で作られた素材から動力工作機械での研削加工を用いない限りこのままの造形は不可能です。
 前にどこかで「日本でも自力で連発銃の開発は可能だった」との発言を見たことがありますが、まともに戦える実用的な連発銃を生産するのは当時の日本ではありえません。
 明治の日本が何故プラントやマザーマシンの導入に力を入れたのかご存じないのでしょう。設計図があれば作れるというようなものではありません
      
 当時の日本の在来銃製造技術の資料を幾つか挙げます。
>うどん張の筒 (1) 尾栓雌ネジ製造例 峯田元治(日本銃砲史学会)
http://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
>日本金属学会誌 江戸時代に製造された火縄銃の金属組織
http://www.jim.or.jp/journal/j/pdf3/73/10/778.pdf (PDFです注意)
>日本金属学会誌 江戸時代後期に製造された管打銃の金属組織と非金属介在物
http://www.jim.or.jp/journal/j/pdf3/74/12/779.pdf (PDFです注意)
                 
 桜田門外の変で使われたとされる短銃は通説によると横浜の商人・中居屋重兵衛が提供したものとされています。それだとオリジナルのコルトM1851の方が可能性が有ります。
 NHKで説として出されたわざわざ彫刻を施した銃であることも考え難いです。明らかな飾り用の高級銃をそんな目的で譲ることはあり得ません。
 「彫刻」の絵柄から水戸斉昭に繋げる推理は余りにも飛躍が過ぎます。むしろ「暗殺事件に使われたオリジナルのコルトM1851に記念として後に彫刻した」というストーリーの方がまだあり得るでしょう。
 それにあの銃はどう見てもほとんど使用の跡がありません。リメイクしてあるのという事なのかもしれませんが、一部でも当時の現物の部品が使われているのかすらわかりません。
 コルト社オリジナルの銃であれば刻印などから特定できます、オリジナルとしないのは刻印が無いという事かもしれません。
 もしかすればコルトM1851によって井伊直弼が暗殺されたと聞いたどなたかがそれをモチーフに作らせた「記念モデル」あたりかもしれないと考えるくらいが妥当でしょう。*18
       
 あれがそのままの形で桜田門外の変で用いられた当時の水戸藩製国産銃だと主張すると「オーパーツ」の類の話になります。「江戸しぐさ」の様な偽史にならない様に願います。
   
>先日、あるテレビ番組で桜田門外の変井伊直弼を狙撃したと伝わる拳銃が紹介されていましたが YAHOO! 知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14142771904
           
【参考】

*1:1960年代にアメリカ向けに西部開拓時代の銃の複製品を作る銃器メーカーが多数活動を始めます。

*2:訂正

*3:中国では漢代には高炉が実用化されている。

*4:1841年にホイットワースは現代に現代に繋がるネジの統一基準を作り1851年には100万分の1インチの誤差を図るマイクロメーターを作ります。

*5:有名なフライス盤発明者の一人とされるイーライ・ホイットニーの甥で同名のイーライ・ホイットニー・ブレイク。

*6:ただしシリンダーと銃身の間に隙間ができエネルギーにロスが出来、その部分が弱いのであまり強力な銃はできない。

*7:本文とは関係ありませんが古銃研究者のいう射程距離は弾が飛んで当たれば死傷する「殺傷可能飛距離」が多いのですが現代銃系では普通は狙ってあたる「有効射程距離」を射程距離といいます。これを混同する方がいて古銃で現在でも困難な500メートル以上の狙撃を行えると理解している方もおられるようです。おそらく当時の銃では300メートル以上は多数の銃による斉射・弾幕の効果による戦闘の「有効射程」でしょう。

*8:【追記】明治に入って鹿児島で金属薬莢が作られる事になったが、それを政府が撤収した事が西南戦争の引き金になった。

*9:【追記】「世界史の中の鉄砲伝来(幕末編)保谷徹」の9,10ページに当時の物と思われる木製(ライフル)施条器械の写真があります。これでライフル製造を試みて失敗したと考えられているようです。創意工夫に感心しますhttp://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_16/6/notes/ja/06hoya.pdf (PDFです注意)。

*10:【追記】幕末の国産ライフル銃とされるものについては須川薫雄『18、「国産ミニエ式小銃」は存在したか?』も参考にhttp://www.日本の武器兵器.jp/archives/5806(クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください)。

*11:ちなみに幕府と薩摩では1864年頃には青銅前装ライフル砲「四斤山砲」の生産に成功しています。

*12:訂正

*13:明治に入ってからは国内で大量のミニエー式ライフルがアルビーニやスナイドルといった後装式に改造されています。

*14:【追記】同時代の中国・清朝の銃器生産事情は「トーマス・ケネディ著『江南製造局:李鴻章と中国近代軍事工業の近代化(1860―1895)』」http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/2991/1/e_60_1hosomi.pdf (PDFです注意)。

*15:【追記】「明治期陸海軍工厰における特殊鋼生産体制の確立 長谷部宏一 1983 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31627/1/33(3)_P88-106.pdf (クリックでは表示できないのでタイトルで検索するかURLをコピー&ペーストして移動してください。PDFです注意)」によると銃身鋼は後の十八年式村田銃、二十二年式村田連発銃においてもオーストリア・ポーラ一社からの輸入鋼に依存し(おそらく三十年式歩兵銃と三八式歩兵銃の最初期も同じ)明治42年から国産鋼が用いられたが昭和7年頃までは輸入銑(製鋼素材)が用いられたらしい。

*16:【追記】鉄や鋼にも種類や特性があり、高品質である種の刃物には向いているといえる「和鋼」が機械部品や銃の部品(それも銃身や機関部、バネ等で求められる性質は様々で異なった性質の鉄鋼を組み合わせて作る)に向いているとは限らない。当時の欧米でも産地や製法の異なる鉄鋼素材(鉱脈によって組成が異なり製法によっても性質が変わる)を目的にあわせ適材適所で用いていた。少し別の話になるが佐賀藩で「成功」した鋳鉄砲の素材は「南部鉄」等の在来鋳物用にも使われた「和銑(鉄)」ではなく基本的には「輸入銑」だったとされる。

*17:補足

*18:【追記】「GHQに接収され、米国に渡っていた」というのなら根拠を示すべでしょう。

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居酒屋「お通し」考〜飲食店の別途課金について

 インターネットでも時々話題になる飲食店の「お通し」又は「前菜」、関西では「突き出し」ともいい、和食系の店以外では「チャーム」ともいう店で席についてから基本的にはすぐに出てくるちょっとした肴やおつまみで多くの場合、別途料金のかかる有料の食材について考察します。
 一応は飲食業の側の立場ですが一方では自分も「客」として料金を払う「消費者」でもある一個人の意見としてお読みください。
     
 お通しの「歴史」はよくわかりません*1が何らかの「お通し」「突き出し」の類の肴は明治時代には既に出されていたようです。「無料」の物が通常だったようでたとえ一部でも有料の物が有ったとする史料はしりません。
 こちらの記憶では有料の「お通し」は大きな「居酒屋ブーム」があり、居酒屋業態がチェーン店などで一般化した80年代以降*2に慣習化したように覚えています。
 それ以前は居酒屋は今のように繁華街の中心で華やかに軒を連ねているわけではなく、それほど飲食業の中では目立つ業態ではない小さな「赤ちょうちん」が繁華街の中心から外れたところにそれ程目立たずに有った様に記憶しています。現在の居酒屋業界の繁栄はそれほど歴史の長いものでは無いといえます。
 当時も飲食業界に居たひとりの人間として、80年代初めにはそれほど一般的ではなかった居酒屋の有料「お通し」が90年頃には当たり前となったと認識しています。
>突き出し、お通し、前菜、先付、箸付 一体何がちがうの? 金沢直送【居酒屋応援隊】ブログ
http://izakayaouentai.jp/blog/news/1780/
  
 自分自身はどちらかというと居酒屋業態の店よりレストラン・料理店業態の店で食事をしBAR形式の店で飲む方が好みでは有り、知らない店にはあまり入らず、特にメニューが表に出されていない店には基本的に入りません。あまり不本意な有料「お通し」の経験は多くありません。
 コース料理やセットメニューを頼むことも多いので居酒屋志向は強くありません。
        
 それでは現在の「店側」から見た「お通し」とはどのようなものなのでしょう。
     
 一応建前としてはご注文頂いた料理が出る前に何らかのおつまみをお出しし、最初のお酒を美味しく飲んでいただき、ご挨拶代わりにその店のスタイルを伝えるという事もあります。
 勿論通常は300円程度からの有料「お通し」は客単価2500〜4000円程度の店としては約一割の値段を占める課金手段でもあります。
 基本的にお仕着せで、客の好みやその商品の価値とは関係なくいわば「強制的」に「要るとは限らない」ものを出すともいえます。金額の価値のない「お通し」だと感じる方もいてもおかしくは有りません。
       
 一方、店側としては「お通し」は「席代」の側面があります。
 飲食店は料理や酒をお出しするだけが仕事ではなく店という空間を準備し「席」を提供し、箸やおしぼり等の資材も準備する役割もあり、それを客の飲食品の注文品からではなく、空間時間の占有に対し、いわば「公平」にご負担いただくという目的があります。
 
 実はそれと共に(これは客として承服しにくい事ですが)「客」の「選別」という側面もあります。
 通常、「店」では「客単価」というものを設定し、基本的に一人の客から幾ら売上を上げるかを設定しています。ある程度の客単価を設定している店では(勿論それだけの経営コストが掛っている場合が多い)「お通し」の売り上げでそれに合わせ、「お通し」程度の課金を厭う客を「排除」している側面があります。
 飲食店は経営としては空間時間の利益機会を切り売りしている商売でもあります。店の都合に合わない予算の客に席を提供するのは経営的に不都合だという判断は存在します。
   
 ある店で300円の有料「お通し」を出す前は客単価2300円程度だった店が有料「お通し」を出してから客単価が2800円強にまでお通し代以上に上がり、そのうえ客層が「良くなり」トラブルが減り、店の雰囲気も落ち着いたという「良いことずくめ」の例をみました。
 安ければどんな店でもよいという「その店」自体を「必要」としない客層ではなく、可能な範囲ならば多少負担があっても「その店」に行きたいという「顧客」づくりが出来たという側面もあります。
 
 逆に大都市の繁華街や観光地などの基本的に「一見客」向けの店で「どうせ二度と来ないのだから」という認識で課金する事も有ります。
 実際に「ぼったくり」といえる店が有るのも事実です。
     
 「席代」という点については消費者の側としては「普通飲食店は店で食べるものだから別に課金するのはおかしい」という考えもあり、それも間違いではないのですが現在の日本の居酒屋業態の店は「特殊な」利用法があります。
 これは「宴会場」などの「場」としての役割です。
 日本では「飲み会」をいわば懇親会やパーティー等の「場」とし、飲食店を「飲み食いする場」という役割より「コミュニケーション」の「場」として用いる文化があります。
 これはある意味「伝統的」な物で近世江戸時代やそれ以前でも「料亭」的な店でも自店では料理を行わず、「仕出し」の料理を仕入れ、「場」としてのお店を貸す業態がありました。今の日本でも歓送迎会等の準公式な物から「コンパ」といわれるパーティーや「お見合い」の席、そのような何らかの「話し合い」を目的に飲食を主題としない「居酒屋」業態の利用が存在します。
 飲食以外の目的で比較的長時間座席を占拠しすることもあり、注文をない長期滞在はグループや個人やその状況によっては店の経営に負担が掛るような売り上げの機会損失にも繋がる場合があります。
 店は限られた営業時間で多くの場合需要が集中する限定された期間に売り上げを上げる必要があります。その席・時間の最低限の売り上げない場合店の存続も困難になります。
 残念ながら「飲食店」として店を用いて貰えるとは限りません。日本では「はしご」という文化もあり他の店で「腹を膨らませる」行為も存在し、「場」として用いる「客」は店でそれに見合った飲食をするとは限りません。 
 立地や内装、サービスなどのコストを上乗せせざるを得ない店が単なる「場」として用いられると経営は成り立ちません。
  
 「単なる席取りだけではない注文もしている」といわれても居酒屋業態の店は「割烹」や「料理店」よりも低い単価の「単品料理」漬物や冷奴といった200〜300円からの料理も出すので「それだけ」で済まされると経営は成り立ちません。「箸休め」的な商品を置く居酒屋業態は成立しにくい事になります。
 
 「お通し」が割高で価値がないものが多いという不満も聞きます。
 店の調理場を任される場合経営者から一定の原価率で料理や飲料を提供することが求められます。飲食業の実務の経験や伝聞からですが一般的に飲食店で原価率を算出する際、他の通常の料理と「お通し」の原価を別に算出するという事はあまり無いと思われます。
 つまりお通しの原価率が低い店はその分、料理が割安であるともいえる部分があります。「ちゃんと」料理を頼めばその分「お通し」のもとがとれ、逆に場所だけ利用する客にはそれなりの負担が求められることになります。
 「平等」ではないかもしれませんんがある意味で「公平・フェア」だともいえます。「店」という経済活動の場を利用するのならやむを得ないといえる部分も有ります。
  
 店側の都合としては店の運営に必要な額を商品から得ているので、もし有料「お通し」を無くしても何らかの形での課金は必要になります。通常は商品の価格に上乗せされることになるはずです。
 店の運営に一定の必要なコストが掛るのは変わりません。有料「お通し」がなくなれば単にその分安くつくという事にはならないでしょう。
 逆にいえばある意味では有料「お通し」というのはメニューに書かれた商品の単価を安く見せ、見えない部分で課金する「ずるい」方法だと感じるのも当然でしょう。 
       
 法的にはどうなるのでしょう。
>居酒屋で「お通し代」の支払いを拒否できる法律トーク、教えます PRESIDENT 2011年12月19日号 弁護士 村 千鶴子 構成=田中裕康     
http://president.jp/articles/-/7536
 明記されていない場合は断れますが、出てきた「お通し」に手を付けると支払いは必要になるという事のようですが、席料としての「お通し」は明記されていない場合でも「それなりの店」だと請求は可能とされるようですが、「それなりの店」の範囲は曖昧なようです。
   
 個人的な見解としては一部にある有料「お通し」を断っても良い店というのは寧ろ席料ではなく「頼んでもいない」商品を押し売りしているようにみえ、席料込としてすべての客に支払いを求める店の方がフェアな気がします。
     
 しかし客としての感覚ならなぜ注文もしていない商品が出され「勝手に」課金が行われるかというのは疑問に感じます。割高に感じるのはやむを得ないでしょう。
 しかし実際には居酒屋などの飲酒を伴うタイプの飲食店はいちいちその場で作業が発生し労働コストが掛るためそれほど「儲かる」ものでは無く、就業者の人件費は低く、経営リスクも高いといえます。最大限上手くいっても営業利益は最大で10%程度で新規開業の店の多くが10年以内に淘汰される厳しい業界だとされます。
>飲食店の経営数字
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20111027/1319677188
 多くの場合消費者に自由な選択が認められている市場経済の機能が充分に発揮された業界であるといえます。
 比較的に参入障壁が低く、今の日本では普通は過当競争気味であり、各店は同業者だけではなく隣接するジャンルや「中食」といった異業種との生き残りをかけた競争もあります。市場に支持を得ない店は正しく淘汰される世界です。
     
 「お通し」を出さない店が「良い店」であるという考えは一理あります。
 しかしここで問題とされるように多くの店が「お通し」を出しています。
 これは「お通し」を出さない店が経済的に淘汰されていることをも意味します。
 有料「お通し」を出さない店の方が正しく、「本当に」客に支持をされているのだとすれば市場原理からしてそういった店が消費者の支持の基、競争力を持ち、多く生き残り、経済的に成功している筈です。
 もちろん低価格を売りにする立ち飲み屋形式の店などではそういった業態が一般的でちゃんと割り切った店では合理的な「棲み分け」が出来ています。
  
 それなりの安定感を持ち、基本的に信用を売りにする多くのチェーン居酒屋でも有料「お通し」方式が用いられるということはその営業スタイルが一定の合理性を持つと市場が判断していることになります。
 市場原理は供給者と消費者の利害のバランスを調整する機能を持ち、一応の批評の役割も果たします。カルテルでも存在しない限り一方的な「搾取」が行われているとは言えない筈です。
 単に「飲んで食う」だけなら大衆中華などの安価な料理店のような普通は有料「お通し」を出さないジャンルの店も存在します。なぜ有料「お通し」がでる居酒屋形式の店が盛んかという点は考慮すべきです。
 現在の市場において客と店側の妥協点の一つとして存在しているとも考え有られます。
   
 飲食業というのはそういった暗黙の了解の側面を持つ商慣習を多く持つカテゴリーでもあるます。
 良し悪しは別にしてある意味ではわかり難くときには明記されない「約束事」も押し付けられるという側面もあります。それが不合理に感じられるのはある意味当然の話です。
 ですがそれは中々気付きづらい、目にはつかないような合理性が存在するという側面もあります。
 有料「お通し」は客の側の多様な店の利用と店の経営的な必然との利害の「落としどころ」として存在するともいえます。比較的に安価な商品を売る為にはやむを得ない部分があるとも言えます。 
 ある側面としては市場経済がそれを証明しているのではないでしょうか。
        
 欧米では日本ではあまり求められない「チツプ」制もあり、サービススタッフはそれも含めて賃金とし、店の経営に必要なものとされます。欧米などに行く少なくはない日本人にとっては不合理で面倒な物でもあります。日本では普通に「おしぼり」が出てきて多くの店では「お茶」も無料で(お代りもでき)だされます。
 韓国では古いタイプの飲食店で一品料理を頼むと(時には驚くほどの)多量の惣菜が無料の「サービス」としてだされます。
 これらも商慣習のものです。商慣習や「マナー」というものは良くも悪くも存在します。
    
 飲食店の商慣習で「暗黙の了解」というのはある程度は必要な物だと考えます。
 前にも書きましたが香川の讃岐うどんのセルフ店(簡略なサービスで安価な饂飩が食べられる)で「お客様お一人で小うどん1杯の注文をお願いします」という内容の張り紙を見たことがあります。「食べ歩き」の客で「不文律」をすり抜けようとした方がおられるようです。
 「暗黙の了解」では飲食店では座席を占有利用する場合は子供などを除き一人前の料金を支払うというのが有ると考えられると思います。
 例えば行列のできる簡易な食事を出す大衆店で食べ終った後、他の客が待っているのに席を占有し続けるのはそれがいけないと明記されていなくても「暗黙の了解」の商慣習として避けるべきものであります。居酒屋業態では食事だけではなく会話などを目的として利用されることも有り、時には「ビール1本と軽いつまみひとつで」店の稼ぎ時に長居する人います。
 これは店の存続と従業員の生活にとって難しい問題です。
 結果、一つの落としどころに有料「お通し」というものがあると考えられます。
   
 有料「お通し」を出す店では普通はそれほど注文をしない客でもある程度の座席の占有が容認されるはずです。その分料理を安くできる為に「ちゃんと」注文をする方には「結果的に」でも比較的安価に商品を提供できる側面もあります。
 逆に今の日本の居酒屋業態で有料「お通し」を完全に否定するならば店は商品単価を上げるか場合によっては客席の居心地を良くしないといった手段を取らざるを得なくなります。
 比較的に居心地が良く多様な用途で使え、比較的安く品ぞろえの多いメニューから選択肢が多くある日本の居酒屋形式は有料「お通し」という「落としどころ」で機能している部分も有ります。
 「レストラン」としての利用だけではなく「バー」や「宴会場」「コミュニケーションスペース」の役割も持つ、いわば日本独自の飲食業態である居酒屋業態の合理的な有り方だといえます。
            
 有料「お通し」は市場を通した「最適化」といえる部分も有ります。有料「お通し」はそれほど簡単には否定できないでしょう。
 単に「搾取」されているように論じる「消費者論」というのは現実を見ない寧ろ「搾取」する側の視点にもなりえる公共の視点の欠ける独善にもなりかねません。
            
 客自身も有料「お通し」が嫌ならば来店前に店に問合せをし料金体系を確認し、個人同士で店の情報を共有し、その店が自身のニーズに合う店かどうかを確認する権利は存在します。選択肢のある中で店を選ぶことは自己責任でもあります。
 インターネットなどで『有料「お通し」の要らない店』といった情報を集める情報共有ページを作ると需要があるかもしれません。
 飲食業者は「儲かる」又は「上手くいく」業態を模倣し追従します。
 有料「お通し」を嫌う方は有料「お通し」を出さない店を成功させることがそういった店を増やすことに繋がるという視点も必要です。客が安くつく店だからといっても安くつけることばかりを狙って用いるとそういった店が維持できないことにもなります。
    
 とはいっても個人的には明記されない形での注文品以外の別途の課金に違和感が有るのは事実です。
 時には有料「お通し」以外に別に「席料」が掛ったりその上「サービス料」が掛る店もあります。
 特に場所代が掛るような店ではなく「格のある」店でもないのにそれが求められる店は問題だと思います。
 別途の課金は基本的に明記され、店側はフェアに客の側の店舗選択の為の情報を示すべきです。双方の合意に基づかない商取引は公正な物とは言えません。
 外国人の方などには伝わりにくい習慣ですから透明性は必要だと考えます。
    
 ただし曖昧さも許される商慣習を弱め、「双方の合意に基づく商取引」を厳密に行うのなら飲食店に入る前に細かな取引条件を提示され合意を得ないと客として扱われないことも受け入れるべきです。有料「お通し」を断った場合には退店を求められることにもなります。契約が成立しない場合は店を利用できないとするのは正当な商行為です。
   
 れいによって読んでもすっきりとしない結論の記事になりました。ご容赦ください。

 ちなみに下のリンク先では「サービス料」はサービスの良し悪しや客の満足ではなく行為としてのサービスが提供されたことに対する対価として求める事が出来るとあります。
>ケーススタデイ⑲ 「サービス料」ホテルの法律 Q&A   ―これを知らないと訴えられる!?
http://d.hatena.ne.jp/hoteresweb_law1/20110607/1307422853
 メニュー等に「税サ別」等と明記されていたのなら支払わざるを得ないでしょう。

*1:室町時代本膳料理、江戸時代の懐石や会席料理にも存在しない。

*2:84年からの「チューハイブーム」と連動している。

期待と評価(雑談)

 たとえば書籍通販でAmazonのカスタマーレビューを見ていると思いのほか厳しい採点がされている本が有ります。
 自分で読んだ感覚としては充分良い出来だと感じ、ノンフィクションの場合でも内容に特に瑕疵のない物であっても低い評価を与える方がいます。
 個人的にはクオリティでもコストパフォーマンス的にも特に問題は感じず、多くの手間と情熱が注ぎ込まれた充分な完成度を持つ「作品」でも時には低い評価が与えられています。
 
 勿論ですが好みや考えは自由で何かを評価をする事は個人の思想・表現として尊重されるべきです。
    
 その中でも興味深い減点理由として「期待外れだった」というようなものが見受けられます。
 読んだ印象としては上にも書いた通り、その主題としては充分な完成度で、求められるべき役割を果たしていると感じていて、「品質」についての一般的な「期待」には応えているようにみえるものについてもそのような指摘が行われます。
   
 しかし厳しい採点をする方の「期待」とはそれとは異なることも有るようです。
  
 そこでいわれる「期待外れ」とはフィクションの物語的創作物だと「こういう結末になるべきだった」「このキャラクターがもっと活躍するべきだった」「このヒロイン(又はヒーロー)と結ばれるべきだった」「こういうタイプの物語だと思わなかった」といったといった読者個人の好みや思想信条に沿った物語ではなかったという事についての減点理由だったりします。
 まあこれは「消費者」としての「楽しみ」に対する受け取り方としては心情的には理解できます。
          
 ですが「創作物」というのは基本的には作者個人に帰属する自由な表現です。何らかの意図や必然でその「作品」ではそういった内容が示されているはずです。
 物語として破綻しているわけでもなければ「作品」として品質が低いわけでもないのならば作者としてはその理由で減点されるのは理不尽だともいえます。
             
 逆に消費者としては楽しむ為の読んだ本で楽しめなかったのだから減点するのは理不尽であるとは言われたくはないでしょう。
 例えば物語性の強い作品を好む方がひねった現代小説を読んで違和感を感じるのは当たり前です。
          
 そして興味深い事に人は多くの場合「期待」に沿わないものの粗がよく見え、「客観的」に評価しているつもりでもついつい欠点が目に付いてしまう様です。書き手が冷静に内容について批判しているつもりでも良く読むと好き嫌いが前提にあると読める論評も少なくありません。
          
 ノンフィクションでも読者が「こんな内容だろう」との期待とは違った内容・切り口・結論だったとした場合には「期待外れだった」という減点理由になります。 
 その「作品」がいくら優れたもので有っても「期待よりも高度で理解できなかった/平易で知っている事しか書いていなかった」や「○○について書いてあると思ったのに××についてしか書いていなかった」、ときには「自分の信念・理解と異なる結論だった」という理由でも「期待外れだった」とされることも有ります。
   
 作者/著者としてはノンフィクションですから内容の事実関係の瑕疵やタイトルや宣伝・広報と内容が異なる場合は勿論減点理由として妥当ですが、そうでもない場合に「事実関係」が読者の「期待」 どおりでないという批判は理不尽に感じるでしょう。ノンフィクションで事実を曲げて読者の信念/理解に沿う結論を示すのは本来、不誠実な行動です。 
 それに明らかに入門書的な本に対し「知っている事しか書いていなかった」等という様な減点理由を示されると納得できるものではないでしょうし、一定の知識のある人向けに書かれたものを素養に欠ける方が理解出来ないという理由で低く評価されると困惑する点は否定できないでしょう。
 主題とはされていない部分について書かれていないことを減点理由にされても困るでしょう。無限に情報を押し込めば本は幾らでも分厚くある意味で読み辛くもなります。
      
 一方「消費者」としての読者は実際に「期待外れ」だったのは間違いのない事実なのですからそれを評価として示すのは当然の権利です。
 目的に見合わないのならば「期待外れ」であることは事実です。
  
 反対に品質の低い/破綻した作品や間違った内容のノンフィクションを「好みが合う」「自分の信念・理解とあう」という「期待に応えた」点で(おそらく無自覚に)高い評価をすることも有ります。
   
 「創作物」を肯定的に評価する場合は「好みが合う」というのは充分正当な評価理由といえるとも考えます、その為に作られた物だからです。これは先に書いた減点理由とは対称的にならないといえます。「好み」を評価した消費者が「悪趣味」だとしてもそれはその個人の自由の問題で肯定される必要はないにしても否定や批判をされる筋合いのものではありません。
 これがプロの評論家や批評家だと「好み」からの評価はそのプロの見識として問われる部分も出てきます。これはその評論・批評が論評されるべきものであり、それ自体がノンフィクションとして捉えられるものでもあるからです。
    
 間違った内容のノンフィクションに対する「期待に応えている」とする肯定的な評価を言明した場合は「好み」であれ「自分の信念・理解」であれ、「間違いをひろめた」や時には「デマをひろめた」として批判や場合によっては非難の対象とされることにもなります。
 これはプロの評論家・批評家だけではなく一般の消費者でも道義的な責任を問われる部分も有るでしょう。
  
 「カスタマーレビュー」だけではなく通常の社会的な事象についての言説にもそういった部分があります。
 情報や報道に接した場合、何らかの事実関係に対する論評としてそれが自分の期待に沿ったものかそうで無いかが評価の基準になってしまうこともしばしばあります。
 それが自分にとって「期待に応えている」のかそうでないかでそれが価値のある情報なのかそうでないかを判断します。
 気に入らない相手の間違いや失敗、問題行動については「期待に応えている」ので価値のある情報だと感じ、成功については価値が低いと感じ、支持する側の成功にはより高い価値を感じます。
 価値が高いと感じる情報は伝えるべきだと考え、重要な問題だと感じ、価値が低いとする情報はことさら取り上げるべきではないと感じ、容易に忘れます。
   
 人間の認識とはそういった側面のあるものです。「期待」という形で結果を先取りし、それを前提に物事を解釈・評価します。  
 ときに「デマ」「間違い」を信じてしまう人間の理解もそういった「期待」に応える情報に対する反応ともいえる部分があります。
              
 他の日常の判断でも例えば外食をしに行った場合、自分の予算や好みの「期待」とは異なる店に入ってしまうと、実際は充分な品質の商品が出てきても美味しいと感じなかったりもします。
 知った通り、自分の中の決まった通りの物でない場合には品質は別にして違和感を感じるのが普通です。
 先に自分の「期待」が存在するのが当たり前の感覚でもあります。
     
 何らかの評価をくだす前にそれが自分の「期待」の反映なのかそうでないかを見直す視点も必要かもしれません。

今どきの日本ハイファンタジー小説

 それ程小説を読む方ではないのですが、ここしばらくかため読みをした日本の比較的新しいハイファンタジー小説についての感想です。
        
 「ハイファンタジー」という概念の定義は正確に示す事はできませんが一応ここでは「異世界物」で、「ヒロイックファンタジー」「ゲーム系ファンタジー」と重複するが基本的には「お約束」的ではない独自の世界観を構築した(何らかのモデルは有ってもよい)時には「SF」とも一部重複もする作品とします。
 特に「骨太のハイファンタジー」という言い方をすると「エピック(叙事詩)ファンタジー」が基本で「指輪物語」が代表的な作品とされるようです。*1 *2

 勿論「骨太」「ハイファンタジー/ローファンタジー」や「ヒロイックファンタジー」「ゲーム系ファンタジー」「エブリデイマジック」「ライトファンタジー」を作品の価値が高いか低いかなどの上下関係を示す概念としては使うべきではないと認識しています。
 この記事で「ヒロイックファンタジー」「ゲームファンタジー」系のハイファンタジーに触れないのは単なる個人的な都合です。冒険活劇やコメディが嫌いなわけではありません。
【追記】ハイファンタジー以外の国産ファンタジーについては「現代日本ファンタジー幻想小説概観(大人向け)http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20161115/1479217294」に記事を書きました。
               
 最初にこちらの嗜好の基準を示すために過去に読んだ幾らか有名な作品についての感想を纏めて。
      
 現代の日本のファンタジー小説の代表的な作家として荻原規子上橋菜穂子が挙げられるでしょう。
      
 ハイファンタジーといえないでしょうが荻原規子の日本神話を題材に独自の世界を構築した勾玉三部作「空色勾玉」「白鳥異伝」「薄紅天女」+「風神秘抄」は良い作品でどれも面白かったです。ただ、自分がおっさんなので少し恋愛要素が強く感じられました。どちらかというと「少女マンガ」的な繊細な作風でしょうか。
 「西の善き魔女」シリーズはマンガで読み、「RDG レッドデータガール」は小説で読みました。いずれも少女の成長を描いた作品です。
    
 文化人類学者でもある上橋菜穂子の方が基本的に好みです。
 これも日本古代史モチーフの「月の森に、カミよ眠れ」とSF「精霊の木」は幾らか「ニューエージ」風の作品で時代を感じました。こんな言い方はなんですが「若書き」の瑞々しさを感じます。戦国ファンタジー「狐笛のかなた」は切なさのある佳品だと思います。
 「守り人シリーズ」の「精霊の守り人」「闇の守り人」「夢の守り人」「虚空の旅人」「神の守り人(上.下)」「蒼路の旅人」「天と地の守り人 (1.2.3)」「流れ行く者 守り人短篇集」「炎路を行く者 守り人作品集」は日本のハイファンタジーの最高傑作といえる作品だと思いました。民俗・文化・社会・政治・歴史・魔法・異界にわたる世界観の構築、ストーリーや描写の深さ、キャラクターの魅力、アクションの迫力、読後感のバランスも良く、ポピュラリティもあり「アジアンファンタジー」として大変レベルの高い完成度を感じました。お勧めです。
 「獣の奏者」シリーズは殆ど魔法が出ないタイプの異世界物です。特に生物の生態と文化のタブー等の社会を主題にした世界構築の深さには感銘を受けます。エンターテイメント性より物語として深さを感じました。
【追記】本屋大賞受賞作「鹿の王」も生物と病をテーマにした作品。
  
 あともう一人、ミステリー系作家でもある小野不由美の「十二国記」シリーズ「月の影 影の海」「風の海 迷宮の岸」「東の海神 西の滄海」「風の万里 黎明の空」「図南の翼」「黄昏の岸 暁の天」「華胥の幽夢」「丕緒の鳥」も挙げておきます。現世から地続きの中国的な神政並行世界の「チャイナファンタジー」です。
 「天命」が支配する世界の中で「人の意志」と「国家」の在り方を探ります。中国史演義小説の面白さを現代小説として再構築したような面白さがあります。
 未完なので注意。現在作者の筆が止まっているので完結するかは不明。
    
 上の物で特に好きなのは「虚空の旅人」「天と地の守り人 (1.2.3)」「図南の翼」。カタルシスの得られる比較的単純なエンターテイメントが好みのようです。
    
 最近の「骨太」ハイファンタジーの旗手、乾石智子の代表作は「オーリエラントの魔道師シリーズ」が挙げられるでしょう。
『夜の写本師』

夜の写本師 (創元推理文庫)

夜の写本師 (創元推理文庫)

『魔道師の月』
魔道師の月

魔道師の月

『太陽の石』
太陽の石

太陽の石

『沈黙の書』
沈黙の書

沈黙の書

『オーリエラントの魔道師たち』
オーリエラントの魔道師たち

オーリエラントの魔道師たち

 古代ローマ世界をモデルにした独自のオリエント風の世界で恐るべき力を持ち、その代わりに業を背負った魔道師達の宿命の戦いを描きます。
 テクノロジーとしての魔法が一般化し戦争の道具としても使われる社会で運命に翻弄され、呪われた戦いを続ける神話的なイメージの作品です。
 一作ごとに主人公も時代も異なる連作ですが一つの社会の歴史を年代記的に描きます。
 濃厚な描写とストレートなストーリーでグイグイと読ませます。基本的にどれから読み始めても良いのですが短編集の「オーリエラントの魔道師たち」から読むのがお手軽かもしれません。文庫化され始めているのでそれから読むのも手でしょう。
 シリーズ以外のハイファンタジー作品も「ディアスと月の誓約」「闇の虹水晶」「竜鏡の占人 リオランの鏡」「滅びの鐘」「炎のタペストリー」があります。
 
 逆に(タイトルとは異なり)基本的に魔法の出ないのがこちら高田大介の
『図書館の魔女』
図書館の魔女(上)

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(下)

図書館の魔女(下)

 中世後期から近世初頭に似た時代背景の独自の「地中海的世界」を舞台に、知識と知恵をつかさどる「高い塔」図書館の「魔女」と彼女に仕える少年が「言葉」を武器にパワーポリティックスと陰謀に立ち向かうエンターテイメント性の高い作品です。
 本職の言語学者による言語・文字論と古書知識、文明論、産業技術、経済、軍略といった知識が豊富に詰め込まれ厚みのある世界観が示されます。物理法則なども基本的には我々の社会と殆ど同じ「異世界」です。
 ストーリーは波乱万丈でトリックや仕掛けも楽しくアクションも良くできていて、幾らか「ライトノベル」的なキャラクター設定もあり作品自体は読み易いといえます。
 ただ上下巻で1400ページ強、合わせて5000円+消費税という「物理的」な読みにくさがあります。続編売国奴の伝言」「図書館の魔女 烏の伝言」(仮題からタイトル変更)が刊行予定です。
 【追記】「図書館の魔女」本編が全4巻で文庫化されます。http://www.amazon.co.jp/dp/4062933659/
           
 もう一つは西魚リツコの
『暁と黄昏の狭間シリーズ(全6巻)』
暁と黄昏の狭間〈1〉竜魚の書 (トクマ・ノベルズedge)

暁と黄昏の狭間〈1〉竜魚の書 (トクマ・ノベルズedge)

 これは寧ろオーソドックスな「王国」ファンタジーです。海が干上がった大陸世界で対立する二大国の戦いに巻き込まれる小王国の少女の物語です。
 殆ど「科学」のように扱われる「新しい魔術」と神々の「古い魔術」の相克を描きます。奇怪な魔法結社、恐ろしい魔術師、荒ぶる神々。ダークファンタジーといえる闇の部分もあり独特の雰囲気があります。
 運命に翻弄される少女の成長と戦い、そしてロマンスが描かれます。主人公が毎回酷い目に合うのでご注意ください。 
 現在、新刊では手に入り難いようです。作者は「メキト・ベス漂流記」等意欲的にファンタジー作品を発表しています。

 これは小学校高学年以上の「児童書」の作品ですが菅野雪虫
『天山の巫女ソニンシリーズ(全7巻)』 古代朝鮮の三国時代をイメージしたアジアンファンタジーです(時代設定は近世初頭のようですが)。
 夢見(夢占い)と医療を行う巫女として育った少女が夢見の力が足らず巫女の地位を失い里に戻ります。ひょんな事から王子に仕え王宮に勤めるようになった少女が三国の政治に巻き込まれます。
 第1巻は幾らか「子供向け」の印象が強いのですが2巻以降は「骨太」な政治外交ドラマが描かれます。「魔法成分」も「ロマンス」も少なめです。
 人間描写が丁寧でキャラクターが魅力的なので大人でも楽しめます。
            
 社会制度や文化と政治経済について詳しく描くタイプの異世界ファンタジーでは「魔法」の扱いが難しいようです。上の「図書館の魔女」「天山の巫女」も幾らかの異能が出ますが本格的な「オカルト」的な設定はその世界で大きな力は持ちません。
 上橋菜穂子も「獣の奏者」でも「魔法」的な側面は少なく、どちらかというと「異世界再構築歴史」ドラマ的な作品とも読めます。
 これらが厳密に「ハイファンタジー」といえるのかは異論もあるかもしれません。現実世界と物理法則の変わらない「異世界再構築歴史」物はSFや歴史小説との線引きは難しいといえます。海外は知りませんが今の日本の「異世界ファンタジー」の傾向の一つといえるかもしれません。
 
 あとライトノベル系の作品は殆ど読んでいないので書きませんでした「異世界経済歴史」物「狼と香辛料」等も充分ハイファンタジーといえるかもしれません。他にも独自の魔法世界を描く作品も少なくはないようです。マンガやアニメーションの(場合によってはゲームも)「ハイファンタジー」作品もあります。
        
【追記1】

*1:【補足】個人的な見解でいうと「ハイファンタジー」というのは基本的に特に理由がない場合その作品の登場人物の認識や世界観や文化・言語が作品の時代や文明レベルに見合った「(多くの場合古代・中世や近世レベルの)その世界の住人」の枠にあるもので、まるで現代日本人の様な「近代」的な認識や世界観や文化・言語であるというタイプの作品は「ハイファンタジー」とはしないと考えます。ただし多くの作品の「主人公」的なキャラクターや利口な人物はその世界の中では比較的に先進的な準近代的乃至は合理的な考えを持っているというのも一般的で、「その世界」の中では読者が共感しやすい位置にあるという作品も、余りに乖離していなければ問題はないとしています。つまり「現代人」的なキャラクターらによるコスチュームプレー的な異世界ファンタジーは「ライトファンタジー」だと理解しています。勿論線引きの難しい作品も有ります。

*2:【補足2】基本的に「お約束」といえる異世界設定を舞台装置、いわば道具として用いる作品はその主題から「ヒロイックファンタジー」「バトルファンジー」「アドベンチャーファンタジー」「ロマンスファンタジー」等と分類しています(「ハイファンタジー」にもヒ−ローもいて戦いや冒険もロマンスもありますが主観的に主題であるかどうかを判断しています)。その中でも(「指輪物語」等をベースにしていても)ゲームの影響が強く読み取れるものを「ゲーム(系)ファンタジー」とも認識しています。勿論厳密に区別できるものとは考えません、一つの作品がファンタジーの分類だけではなくSFやミステリも含めた複数のカテゴリーの側面を持つ事も少なくはないともいえます。この記事では「ハイファンタジー」を少し広めに認めているつもりです。そして「現実」社会との接点があるものは程度によりますが基本的に「ローファンタジー」とします、今はやりの「転生」物の多くは「ローファンタジー」の側面が強いと考えるので「ハイファンタジー」としません。

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韓国・朝鮮食文化史入門

 あまり知られる事も少ない韓国・朝鮮の食文化史・食物史について日本との対比で書いてみます。
 和食の「伝統」に興味のある人でも隣国との関連には詳しくない人もいるでしょう。
     
 日本列島では独自性を持つ縄文時代が約3000年続いたとされます。しかしその時代も朝鮮・韓半島との交流は存在し日本産黒曜石などの交易がおこなわれていました。
 後に朝鮮半島から水田稲作が導入され、弥生時代の始まりに繋がったとされますhttp://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130220/1361296453
          
 数多くの栽培作物や食糧生産加工技術が半島を通じ日本社会にもたらされました。弥生時代の日本の食は韓国・朝鮮はそれほど大きな違いはなかったといえます。
         
 一部で批判的な意見は有りますが日本の「主食」は米といえるでしょう。
   
 文化人類学や食文化史・食物史においても基本的には本州日本は「ジャポニカ米」を主軸とした食糧生産と生活文化を持つ「稲作文化」を持つ社会とされます。
 江戸時代後期のままの生産状況である明治初頭の調査では消費エネルギー量の8割程度を穀物等炭水化物に頼り、その内約6割を米が占めていたとされます。当時は明らかな偏食の時代で穀物や一部芋などの炭水化物食を一人当たり1.2石(約180kg)ほど食べていたとされ本州日本人平均としては100kg近くの米を食べていたと考えられます(現在は60kg弱。1962年で118kg)*1。中世以前には大麦の裏作が行われなかった為、米の食糧としての役割はより大きかったという説もあります。
 そしてコメの生産が人口に大きな影響を与えたことも知られます。米が不作の年には飢饉が起きるというのは「米が主食」で有ったという事の証左といえるでしょう。
       
 韓国・朝鮮も基本的には同じメカニズムです。半島の気候は本州よりも水田稲作には向かないといえます。雨季がずれ降雨量は日本の3分の2程度、特に北部の気温は日本の東北よりも低く米の生産性は低く粟や黍に頼る生活になります。
 米は半島南部でしか充分な生産はできません。南部では水田稲作8割陸稲2割、北部ではその反対の水田2割陸稲8割とされます。北部では粟・黍が重要視されました。
 ですが食文化論としては韓国・朝鮮も日本と同じく(ジャポニカ)米が「主食」の「稲作文化圏」とされます。
 「米を全ての人が充分食べていた」というのが「主食」の条件とはされません。「主食」という概念を認めるのなら日本や韓国・朝鮮の「主食」を米とするのは妥当でしょう。
    
 特に日本語での「主食」という言葉には基本的には2つの意味があり一つは「主要な食」という社会的文化的な意味も持つ食糧生産や生活での役割ともう一つ「ご飯(主食)」と「おかず・菜(副食)」という意味があり、それが重なる部分もあります。日本と韓国・朝鮮はその点で共通する食文化を持ちます。(パンは前の意味では「主食」でしょう)
        
 日本に最も近い食文化を持つ社会なのです。東アジア文化としては同じく中国の食の派生型でもある日本食との(充分な独自性を持ちながら)中間的な部分を持つ食文化といえます。
  正確には 日本文化は半島を通じて移入されたものから大きな影響を受けているとするべきでしょう。いうまでもなく米や麦・大豆を含めて殆どの「伝統和食」の素材は外来種です。
 中国由来又は世界に他の地域の技術・文化・作物などが一度韓国・朝鮮で受容され改良やローカライズ(局地化)してから日本に伝えた側面もあります。半島独自の文化や技術も日本に持ち込まれています。
 中世以前の本州日本と韓国・朝鮮の一般的な食文化はほとんど変わらないと考える研究者もいます。
 
 同じ海を共有し、気候風土も近いのでどちらから伝えられたとも言えない同時発生的な食文化もあるでしょう。当然、逆に近代以前、古代でも日本から半島に伝わった技術もあるかもしれません。
 それこそ文化は多様な有り方が考えられます。
    
 風土の違い、社会状況の差、嗜好の違いもあり、同じ部分、よく似た部分、違う部分、別の進化をした部分があり興味深い物です。
 実際には日本でも韓国・朝鮮でも地方ごとに食文化は多様で幾らか一般化した書き方になります。両国とも郷土食の世界は奥深いです。
      
 中世初期までの日本の「ご飯」の盛り方は「高盛リ飯」といい韓国朝鮮と同じ盛り方です。神社の神饌等の盛方や膳の形式は半島由来であるというのは定説でしょう。
 日本のお膳*2は一汁三菜ですがこれも同じで韓国・朝鮮では飯床(パプサン)チャリムという飯を主食とする膳立て様式で、これも一汁三菜が基本とされます。菜は楪(チョプ)で基本の一汁三菜は三楪飯床と呼ばれます。韓国・朝鮮でもそれが二汁・三汁と五菜・七菜・九菜・(十菜)・一二菜と格式が上がるたびに増える点も似ています。
 
 竈や釜が韓国・朝鮮から来たというのも定説でしょう。半島の三国時代後期に鋳鉄釜が一般化し日本には奈良時代位から西日本を中心に徐々に広がってきました。韓竈(からかまど)という言葉が残ります。近世までの日本は基本的に半島から「教わる側」の後進地域でした。
      
 韓国・朝鮮には6世紀頃に挽き臼が入り、広まりましたが日本には7世紀に一度「碾磑(てんがい)」が持ち込まれましたが一般化せず普及したのは17世紀以降とされます。
 「餅」は異なり日本では粒のままの米を加熱してから搗いた物になります*3が韓国・朝鮮では地方によりますが粉にした米を加熱した「しとぎ餅」が主流です。因みに中国では餅は麦の粉で作り加熱するものです。琉球でも「しとぎ餅」です。
            
 日本と韓国・朝鮮は現在の酒造技術においては違いを見せます。同じ中国から持ち込まれた穀物のデンプンをカビで糖化させそれを酵母でアルコール発酵さ
せるカビ酒ですが、日本では散麹(バラコウジ)という一粒ごとにさばいた蒸し米にAspergillus(コウジカビ)を生やしたものになりますが韓国は現在の中国の主流と同じく生の小麦を濡らしてから搗き固めRhizopus(クモノスカビ)、Mucor(ケカビ)を生やせた餅麹(曲)になりました。
 これは日本の散麹の方が中国中南部からおそらく半島を通じ伝わった古い形で、韓国・朝鮮では扱いやすい新しい餅麹が中国から持ち込まれ、手間が掛り難しい散麹の技術が絶えたものだと考えます。中国では醤油(麦)とごく一部の酒造りに散麹製法が残りました。

 蒸留器の機構から見るとおそらく本州の焼酎の一部も韓国・朝鮮から入ってきた物も有るかもしれません。焼酎を韓国・朝鮮では焼酒・ソジュといい「酎」も用例が有りその傍証となると考えます。
    
 日本では高度な技術が必要な散麹の製麹が必要なため産業化された清酒が一般化しますが比較的確実な酒造が可能な餅麹の韓国・朝鮮では多彩な自家製「家醸酒(カヤンジュ)」が発展します。
 日本でも昔は多くあった「どぶろく」ですが韓国・朝鮮でもマッコルリ(マッコリ)が「スタミナスープ」的な形で農事など重労働時に多く用いられました。
     
 塩漬けした野菜などの植物を基本的に生で「漬物」として食べる点や山菜を好み海藻・海草を食べるのも共通します。なれずしと食醢(シッケ)も近い物です*4
 韓国・朝鮮には箸と匙が中国から持ち込まれますが日本では匙が欠落します。丼・どんぶりは韓国・朝鮮の湯鉢(タンパル)から来たものでしょう。
 焼き物も日本では17世紀にはじめて可能となった「磁器」の生産が10世紀以前の高麗青磁から行われ、中国からの技術を早く取り入れ独自の改良をし、日本には秀吉の朝鮮侵攻時に連行した陶工からその技術を得ます。 
    
 日本と韓国の食文化が大きく変わるのは中世以降だとも考えられます。古代末期(平安時代後期)には中国から日本に貿易商人が直接来るようになり九州に大唐街・唐房といった居留地が出来、直接文化が導入される事が増えます。日本では独自色の強い文化が形成されていきます。
 後の時代に花開く独自性の強い文化の基盤は韓国・朝鮮では高麗朝期、日本では鎌倉時代から室町時代にかけ成立したとされます。
          
 韓国・朝鮮は元々北方民族の影響もありましたが高麗後期、元の征服下に大きな文化的影響を受け支配層の肉食も復活します。
 日本では近世中期にかけて肉食は衰退しますが朝鮮朝期に両班(ヤンパン)の料理になり大部分の人には殆ど縁のない高級料理として発展します。
    
 茶は高麗期には一般的でしたが気候に合わないのと朝鮮期に茶文化の基盤であった仏教寺院が弾圧されたともいわれ(重税説もある)衰退し、茶葉を使わないご飯のおこげに湯を差した「熟水(スンニョン)」や果物・香草・煎り麦などの香味「茶」が主流になります。日本では中世以降茶道が発展し煎茶も普及します。
    
 麺は高麗期に入った物のようですが18世紀には押し出し麺が主流になります(ジャガイモ麺は19世紀から)。日本には切麺と手延べ麺がありますが(どちらも中世後期に普及)韓国・朝鮮で「伝統的」には切麺と押し出し麺です。
 麺を「啜って」食べるのは世界で日本人と韓国・朝鮮人だけかもしれません(韓国・朝鮮で日本統治以前から啜っていたかどうかはわからない)。
   
 日本では醤油と味噌は分化し別々に作られ醤油は基本的に買うものですが、韓国・朝鮮では味噌(テンジャン)を作る際、材料を塩水につけて作られその塩水を醤油(カンジャン)として用います。それらはおそらく中国から別箇に伝来し発展した技術でしょう。
    
 農業技術としては日本では田植えが早くから行われ中世前期には大麦の裏作が一般化しますが、韓国・朝鮮では雨季がずれるため基本的には稲は直播が普通で田植えの技術が一般化したのは17世紀後半とされます。南部では大麦との二毛作が盛んになります。
 サツマイモは日本から導入されますがなかなか上手くいかなかった様です。その代りトウモロコシは17世紀に中国から導入され北部で大きな成果を上げます。ジャガイモも中国から入ったのは日本より早いようです。ちなみに木綿は中世後期に朝鮮朝から日本に移入されました。
 農業技術研究は農書が日本に先立つ15世紀には出され(日本では17世紀)ています。日本では民間の農書が江戸時代中期には大変盛んになります。

 日本でも江戸時代後半には沿岸漁業捕鯨は盛んになりますが韓国・朝鮮でも19世紀後半には水産業は盛んで明太(タラ)、グチ、ニシン、片口鰯が多く獲られます。韓国の煮干は日本から伝えられたものだそうです。
   
 中世以降の日本と韓国・朝鮮との大きな違いとしては貨幣経済の浸透という部分も大きいでしょう。
 日本では朝廷が自力で貨幣を流通させるのには失敗しますが、平安末期から中国の金属貨幣「銭」が流入、大量に流通し急速に貨幣経済に移行します。高麗朝では銀のインゴット・銀瓶が用いられ後に作り朝鮮朝でも楮貨(ちょか)という紙幣を発行しますが成功せず、高麗・朝鮮朝では銭貨・金属貨幣も何度か計画されますが17世紀末までは流通させられず米と布(布貨)を貨幣とする時代が続きました(日本でも平安時代は似た状況)。高額貨幣や信用通貨は成功しませんでした。朝鮮末期の高宗の時期に通貨政策に失敗したことも知られます。
     
 高麗朝期には寺院で酒造が大規模に行われたそうですが朝鮮朝期には自家醸造が殆どになります。日本では同じく中世の寺社での酒造から戦国後期には民間業者に拡がり、江戸時代になると大産業化します。酒造業者や貨幣・為替を扱う商人等は大規模な商業資本に発展します。
 そのほかにも中世後期には貨幣経済が浸透し、民間を含めた全国的な流通制度が存在し日本が自力で通貨を作り始めた17世紀後半以降、三貨制度が成立し本州側ではほぼ全国的に貨幣経済社会になりました。
 朝鮮朝期は経済統制が厳しく、政府の許可を得た褓負商(ボブサン)のような行商人等の一部の小規模な流通業者を除き大規模な商業資本や製造業は発展しません。朝廷が政経とも社会の中心として君臨し、朱子学を理想とする農本主義的な社会が続きます。
          
 日本でも朝廷では平安時代には中国の宮廷料理を基にした大饗料理が正式な料理とされますが、平安後期から「国風化」し、シンプルな料理になり、調理や味よりも儀式を重んじた典礼作法が重要視されます。室町時代には武家を中心にした本膳料理、公家の有職料理として形式が完成しますがどちらかというと「見せる料理」「並べる料理」としての部分が強い様式です。
 本膳料理は江戸時代を通じて正式な供応料理として全国で取り入れられ後に会席料理に繋がりますが、本来は味というより儀礼の形式の部分がつよいものでした。
 日本では政府の高位の人物でもそれほど贅沢な食を求めませんでした。寧ろ形式に縛られる部分が多かった様で支配層が食文化の主役とは余り言えない社会です。
    
 「味」については寧ろ民間での商売や流行から新しい食が開発されます。酒と醤油、素麺といった流通加工品だけではなく調理や味についても店舗など民間からの発信から食文化が育った側面があります。寿司、天ぷら、蕎麦、菓子等の現在に伝わる食文化の多くが庶民社会の「商い」から生まれたものです。
 農業生産も驚くほど経済的合理性が広まり商品作物が重視されていきます。本格的な「野菜」の生産が始まったのはその頃からでした*5
 いわゆる「江戸文化」は元禄時代に始まり、その完成は19世紀初頭文化・文政期と見ることもできます。
 支配層であるはずの武士の参勤交代などで江戸や上方での外食や買い食いからも地方にも料理文化が広まります。城下町で独自の発展をした料理もあります。
 日本では「南蛮料理」の影響もあり、都市圏を中心に近世から近代にかけて徐々に今の我々の知る「和食文化」が成立していきます。
       
 それに対し500年以上続いた朝鮮王朝では宮廷料理と共に支配層の両班(ヤンバン)・士大夫層が食文化の主役になります。
 両班では他の両班が客としてきた場合に接待料理を出すことが決まりでした。
 富裕な両班家の「主婦」が酒造も含めた高度な技術が求められ、実務は使用人や奴婢(時には請負業者)に任せたものの、支配層の「家の宴席」が食文化の発信源となります。
 「東医宝鑑」といった医書でも医食同源が研究され*6、高位高官にとっても食は重要な関心事でありました。
 そしてその頂点として王宮の料理があり、地方の食も王宮への献上を通じて技術が進み、日本とは異なり朝鮮期を通じ「上からの食文化」が大きな役割を持ちました。
 日本ではあまり知られませんが韓国の宮廷料理・両班宴席料理は俗にいう「韓国・朝鮮料理」イメージと幾らか異なる高度で洗練された文化を持ちます。
               
 「近代化以降」宮廷や両班の料理が社会に拡がり庶民の食文化と融合し、それまでは少なかった飲食業も一気に盛んになり「韓国・朝鮮料理」が完成します。
 海苔巻きご飯「キムパブ」のような日本から来たとみられる料理や中国東部の料理と共通する料理も多くあります。
    
 勿論庶民の食文化もありそれは興味深い物です。
 主食の「ご飯」も多くの庶民には日本と同じく増量ご飯「量飯(かてめし)」や雑穀飯で朝鮮朝後期には南部では麦飯、北部では粟・黍飯で全羅道では米飯だとされました。
 韓国・朝鮮の人々は日本人以上に「大飯喰らい」だといわれます。日本と同じく菜や漬物でご飯を多く食べました。粥食も豊富です。
 勿論地方の庶民は日本でも韓国・朝鮮でもつつましい日常食と共に冠婚葬祭や年中行事と関わるそれなりに豊かな「ハレ」の食も存在します。現在の「食」に繋がり「郷土料理」ともされる多様で高度な文化です。
       
 沈菜「キムチ」の文化は古代には日本と同じく比較的単純な塩漬けが基本*7でしたが、そういった日本の漬物と同じようなものから中世頃から塩水に漬ける水分が多く汁も用いるタイプの漬物「沈菜」になり、香料香辛料を用いた漬物が開発され18世紀には塩辛や魚醤で味付けがされ独自の進化をします。 
 唐辛子は16世紀末日本の侵攻時に持ち込まれたともされますが17世紀には「毒」ともされ、焼酎の強化剤(いわば「ドラッグ?」)として用いられるぐらいで表立って用いられるものではありませんでした。
       
 18世紀中ごろには食品として一般化しキムチにも用いられます。しかし唐辛子入りキムチが標準的な物とされるのは実は19世紀後半だとされます。ちなみに韓国・朝鮮で白菜が一般化したのも19世紀後半です(日本では20世紀初頭)。
 晩秋から立冬にかけてのキムチ漬け行事の「キムジャン」も18世紀に始まったようで文献上の初出は19世紀初頭です。塩や野菜が高額であった当時は漬物も庶民から見れば高級品だったので上級層から始まったようです。庶民にまで広まったのは後代の事でしょう。
         
 韓国・朝鮮では「漬物」の歴史は日本と同じく長いのですが「赤い白菜キムチ」が日本の現在の「漬物」と同じく今の形に完成したのはそれほど古くは有りません。
 近世後期以前は日本と同じく菜は寧ろ「舐め味噌」や山菜・野草が主流だったといえるかもしれません。
       
 日本や韓国・朝鮮でも現在の我々が考える完成した「伝統食」というのは比較的に歴史が浅い物ともいえます。庶民が日常的に「料理」を食べる様になったのは近代以降です。
 日本でも全ての人が白米のご飯に汁、味噌などのなめ物の菜や漬物だけではなくちゃんとした「おかず」のついた一汁三菜の「和食」をいつでも食べられるようになったのはそれこそ1960年代といえます。
 日本の庶民が生鮮の魚貝を日常の料理に利用できるようになったのも韓国・朝鮮の庶民の本格的な肉食も近代になってからの状況です。
           
 「だから和食の伝統などない」とする人もいます。しかしそれは長い歴史の中で徐々に成立したものでありその前の時代、それ以前の「伝統」を受け継いで生まれたものでもあります。
 現在の我々の知る「和食」はそれ以前の人々理想としていた食のあり方を近代以降、場合によっては「戦後」に現代の技術・流通で実現したものでありそれは「伝統」としての韓国・朝鮮料理でも同じです。 
      
 生きている「伝統」は変化し続ける物でもあります。
 変わり続ける事も十分に「伝統的」といえます。古い形のままでないから、完全な独自性でないから「伝統的」ではないとするのは文化を「標本」「情報」としか見ない狭い考え方でしょう。
 「和食」が全く変化のない物ではないから「伝統」ではないという方は場合によっては「洋服を着て洋風建築で暮らすのだから日本人はいない」ともなりそれは「既に同化したのだからアイヌ民族琉球民族は存在しない」と同じ意味です。「文化」や「伝統」への敬意は人間への敬意でもあります。
         
 日本の失われつつある年次行事や儀礼とと結びついた伝統「和食;日本人の伝統的な食文化 −正月を例として−」や韓国のこの先薄れゆくかもしれない季節保存食「 キムジャン文化」といった物が「ユネスコ世界無形文化遺産」となることは大変意味深い部分があります。
   
【関連】
>【入門】初心者からの韓国・朝鮮史
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130512/1368292890
>日本肉食史覚書(上)
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334
>郷土料理資料リンク集
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20131111/1384101904
   
【参考書籍】

*1:これは数字上の「平均」で一般農家でも冠婚葬祭以外は米を食べられない地域もあり逆に殆ど米しか食べない地域もありました。江戸や大坂の都市庶民は基本的に白米食です。

*2:【2016/12/09追記】日常食ではなく正餐・供応料理のことです。

*3:和菓子ではしとぎ餅も多い。

*4:同音で食醯は甘酒の意味も。

*5:栄養的に野菜が充足するのは戦後のこと。

*6:現代から見れば科学的根拠があるとは言えないものです。

*7:醢(かい)型という。

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