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リテラシーと理解について考える

期待と評価(雑談)

 たとえば書籍通販でAmazonのカスタマーレビューを見ていると思いのほか厳しい採点がされている本が有ります。
 自分で読んだ感覚としては充分良い出来だと感じ、ノンフィクションの場合でも内容に特に瑕疵のない物であっても低い評価を与える方がいます。
 個人的にはクオリティでもコストパフォーマンス的にも特に問題は感じず、多くの手間と情熱が注ぎ込まれた充分な完成度を持つ「作品」でも時には低い評価が与えられています。
 
 勿論ですが好みや考えは自由で何かを評価をする事は個人の思想・表現として尊重されるべきです。
    
 その中でも興味深い減点理由として「期待外れだった」というようなものが見受けられます。
 読んだ印象としては上にも書いた通り、その主題としては充分な完成度で、求められるべき役割を果たしていると感じていて、「品質」についての一般的な「期待」には応えているようにみえるものについてもそのような指摘が行われます。
   
 しかし厳しい採点をする方の「期待」とはそれとは異なることも有るようです。
  
 そこでいわれる「期待外れ」とはフィクションの物語的創作物だと「こういう結末になるべきだった」「このキャラクターがもっと活躍するべきだった」「このヒロイン(又はヒーロー)と結ばれるべきだった」「こういうタイプの物語だと思わなかった」といったといった読者個人の好みや思想信条に沿った物語ではなかったという事についての減点理由だったりします。
 まあこれは「消費者」としての「楽しみ」に対する受け取り方としては心情的には理解できます。
          
 ですが「創作物」というのは基本的には作者個人に帰属する自由な表現です。何らかの意図や必然でその「作品」ではそういった内容が示されているはずです。
 物語として破綻しているわけでもなければ「作品」として品質が低いわけでもないのならば作者としてはその理由で減点されるのは理不尽だともいえます。
             
 逆に消費者としては楽しむ為の読んだ本で楽しめなかったのだから減点するのは理不尽であるとは言われたくはないでしょう。
 例えば物語性の強い作品を好む方がひねった現代小説を読んで違和感を感じるのは当たり前です。
          
 そして興味深い事に人は多くの場合「期待」に沿わないものの粗がよく見え、「客観的」に評価しているつもりでもついつい欠点が目に付いてしまう様です。書き手が冷静に内容について批判しているつもりでも良く読むと好き嫌いが前提にあると読める論評も少なくありません。
          
 ノンフィクションでも読者が「こんな内容だろう」との期待とは違った内容・切り口・結論だったとした場合には「期待外れだった」という減点理由になります。 
 その「作品」がいくら優れたもので有っても「期待よりも高度で理解できなかった/平易で知っている事しか書いていなかった」や「○○について書いてあると思ったのに××についてしか書いていなかった」、ときには「自分の信念・理解と異なる結論だった」という理由でも「期待外れだった」とされることも有ります。
   
 作者/著者としてはノンフィクションですから内容の事実関係の瑕疵やタイトルや宣伝・広報と内容が異なる場合は勿論減点理由として妥当ですが、そうでもない場合に「事実関係」が読者の「期待」 どおりでないという批判は理不尽に感じるでしょう。ノンフィクションで事実を曲げて読者の信念/理解に沿う結論を示すのは本来、不誠実な行動です。 
 それに明らかに入門書的な本に対し「知っている事しか書いていなかった」等という様な減点理由を示されると納得できるものではないでしょうし、一定の知識のある人向けに書かれたものを素養に欠ける方が理解出来ないという理由で低く評価されると困惑する点は否定できないでしょう。
 主題とはされていない部分について書かれていないことを減点理由にされても困るでしょう。無限に情報を押し込めば本は幾らでも分厚くある意味で読み辛くもなります。
      
 一方「消費者」としての読者は実際に「期待外れ」だったのは間違いのない事実なのですからそれを評価として示すのは当然の権利です。
 目的に見合わないのならば「期待外れ」であることは事実です。
  
 反対に品質の低い/破綻した作品や間違った内容のノンフィクションを「好みが合う」「自分の信念・理解とあう」という「期待に応えた」点で(おそらく無自覚に)高い評価をすることも有ります。
   
 「創作物」を肯定的に評価する場合は「好みが合う」というのは充分正当な評価理由といえるとも考えます、その為に作られた物だからです。これは先に書いた減点理由とは対称的にならないといえます。「好み」を評価した消費者が「悪趣味」だとしてもそれはその個人の自由の問題で肯定される必要はないにしても否定や批判をされる筋合いのものではありません。
 これがプロの評論家や批評家だと「好み」からの評価はそのプロの見識として問われる部分も出てきます。これはその評論・批評が論評されるべきものであり、それ自体がノンフィクションとして捉えられるものでもあるからです。
    
 間違った内容のノンフィクションに対する「期待に応えている」とする肯定的な評価を言明した場合は「好み」であれ「自分の信念・理解」であれ、「間違いをひろめた」や時には「デマをひろめた」として批判や場合によっては非難の対象とされることにもなります。
 これはプロの評論家・批評家だけではなく一般の消費者でも道義的な責任を問われる部分も有るでしょう。
  
 「カスタマーレビュー」だけではなく通常の社会的な事象についての言説にもそういった部分があります。
 情報や報道に接した場合、何らかの事実関係に対する論評としてそれが自分の期待に沿ったものかそうで無いかが評価の基準になってしまうこともしばしばあります。
 それが自分にとって「期待に応えている」のかそうでないかでそれが価値のある情報なのかそうでないかを判断します。
 気に入らない相手の間違いや失敗、問題行動については「期待に応えている」ので価値のある情報だと感じ、成功については価値が低いと感じ、支持する側の成功にはより高い価値を感じます。
 価値が高いと感じる情報は伝えるべきだと考え、重要な問題だと感じ、価値が低いとする情報はことさら取り上げるべきではないと感じ、容易に忘れます。
   
 人間の認識とはそういった側面のあるものです。「期待」という形で結果を先取りし、それを前提に物事を解釈・評価します。  
 ときに「デマ」「間違い」を信じてしまう人間の理解もそういった「期待」に応える情報に対する反応ともいえる部分があります。
              
 他の日常の判断でも例えば外食をしに行った場合、自分の予算や好みの「期待」とは異なる店に入ってしまうと、実際は充分な品質の商品が出てきても美味しいと感じなかったりもします。
 知った通り、自分の中の決まった通りの物でない場合には品質は別にして違和感を感じるのが普通です。
 先に自分の「期待」が存在するのが当たり前の感覚でもあります。
     
 何らかの評価をくだす前にそれが自分の「期待」の反映なのかそうでないかを見直す視点も必要かもしれません。