はてなビックリマーク

リテラシーと理解について考える

「ラーメンと愛国」速水健朗(ネタばれあり、辛口)読書感想文

 「ラーメンと愛国」読みました。

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

 グローバリズムナショナリズムを「ラーメン」から見るというテーマで個人的な興味とも重なり「面白かった」です。
 殆どの「ラーメン本」よりもちゃんと「調べていて」良い資料の紹介もしています。
 文化の中でも食文化、その中でも「外食文化」、特に近代の日本の裏面史ともいえる「ラーメン」に視点を置いたこの本は充分に「共感」出来るものでした。
 知らない事も多く、色々と勉強になりました。
 
 (下は基本的に既に読まれた人向けのレビューです)いろいろ追記しました3/19
                      
          
 ……ただ、事実誤認や牽強付会が多く残念です。
    
 「第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略」
 「アメリカ小麦戦略」説は「NHK特集 食卓のかげの星条旗 米と小麦の戦後史 1978年11月17日放送」とその書籍版「アメリカ小麦戦略-日本侵攻(1979)高嶋光雪」が元で、放送当時としてはありえる懸念かもしれません。 
 ただ現実には戦前から日本にはアメリカからの小麦輸入は存在し、日本政府も基本的には肯定的で当時の「節米」政策とも合致し、1920〜1937年までは毎年小麦の輸入量は増大傾向にありました。
 近代の日本のコメ流通生産史は大豆生田稔「お米と食の近代史(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー)」、戦中戦後のコメ統制史は原田信男「コメを選んだ日本の歴史 (文春新書)」を参考にどうぞ。
    
 1950年代までは間違いなく「コメ不足」で1960年までは韓国からのコメの輸入も行われていました。
 事実上の無償援助でありアメリカの納税者の負担で行われる「小麦支援」の「言い訳」としての「広告」的な表現は「戦略」と云うのは穿ち過ぎとも思えます。
 因みに日本の小麦生産量は1878〜82年には27万トン程度、1930〜1934年頃で100万トン(当時も小麦は自給率60% 程度)、1961年のピーク時で180万トン、現在は60〜90万トン程度(自給率10%程度)らしいです。
 現実の「小麦戦略」はこちら
>小麦戦略でお米は衰退したのか とらねこ日誌 
>前編    http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111122/1321960469
>後編その1 http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111204/1322967738
>後編その2 http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111205/1323072833
 基本的に食の多様化は近代において「小麦戦略」抜きでも存在し、コメの相対的な地位の低下は論理的な必然であり「陰謀説」は必要有りません。
         
 「第二章 T型フォードとチキンラーメン
 「日本人の兵器観にみる「一点もの至上主義」」に「戦艦大和」を引いて「一点もの」としていますがいうまでも無く大和型戦艦は「武蔵」が作られ後に空母に換装されますが「信濃」も作られ4隻目も建造が開始されており最終的には5隻まで考えられていたようです。
 所謂安易な「大艦巨砲主義」で作られたものではなく計画当時の「ワシントン条約後」の必然性があるものとして一定の妥当性が有ったと考えられています。(後の運用や改修に問題があり結果的に「失敗」であったのは事実かもしれません)
 造船ドッグの数や生産能力の違いを埋めるために単体の能力を重視しただけです。
   
  「宇宙戦艦大和」を引き合いに出すにも拘らず「スタートレックエンタープライズ)」は出さず「機動戦士ガンダム」は出すのに「バットマン」は出しません。ガンダムでも敵も後半には「一点もの」を出していますがそれには触れません。
 本文にも有りますが第一この「一点もの」はスポンサーの玩具メーカーの販売戦略的な必然が大前提です。
                 
 その他にも日本刀と「コルトピースメーカー」を比べてみて「一点もの」としてみたり時代や技術や目的の違いを考慮せず無理のある論理が目立ちます。
 現代の「1911」や「M4」の「カスタム」や戦後のアメリカから日本や世界に広まった「カスタムナイフ」等の「一点もの」主義にも触れません。日本刀も現実には手間が掛かるものの当時としては「作品」として作られたものではなく実用品として作られたものです。製法の複雑さを「一点もの至上主義」とするのはミスリードです。
      
※〔追記:そういえばコルトピースメーカーはグリップの違いしか無い云々という書き方がありましたがCOLT SAA=コルトシングルアクションアーミーのコレクションレベルの話では製造時期による仕様の変更や改良部分などの細かなバリエーションについての膨大な研究と価値体系が存在し、部品のオリジナリティやコンディションや希少性で大きな価格差が存在します。
 現在でもスポーツとして残る早撃ち=ファストドロウでは「ピースメイカー」を基に安全性や機能性を改善したスタームルガー等の近代的な専用銃を個人個人の好みや必要に合わせた一点ものの「武器」のカスタマイズは盛んに行われています。ガンスミスとも呼ばれる個人名を「看板」とする職人も多く活躍しています。http://www7a.biglobe.ne.jp/~yon-yon/column/colt_rev/colt_SAA/index.html
 フレームのケース・ハードゥンドと呼ばれる表面処理やコルト社のブルー仕上げは美術工芸品的な価値も認められます。
 一般的なイメージとして身分の表象でもあり自弁が前提の日本刀と近代正規軍の武器を比べるのは妥当な比較なのか。現実には量産品の貸与武器も有りそれは勿論「一点もの」では有りません。「名刀」と限定する書き方に修辞技巧を見ます〕 
             
 この章では「先進工業資源大国アメリカ」と「後進工業資源小国日本」を乱暴に比較します。
 規模の違いや技術の違い、管理体制の「進歩」と時代の変化をまるで「国民性の違い」のように印象付けます。
 「日本人の兵器観にみる「一点もの至上主義」」が存在したとする事は一般化できません。
      
 安藤百福氏の個人的な「回想」のみ頼り当時の一般的な認識や資料のリサーチが行われないのも気になります。
     
 「第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー
 「社会論」としては妥当でしょう。ただ日本の「戦後中華」が中国や「旧満州」からの「引揚者」のイメージに「乗っかった」形で許容されたという点も指摘しておきます。中国が戦勝国(台湾も「中華民国」に)で日本社会でも中国人の資産家も知られ元から中華街も容認されていた事実もあります。
 差別もありましたが文化的には先進国とされていました。
     
 簡素な調理設備と短い時間で容易に作ることの出来、比較的腹持ちが良く長期保存が可能で、汎用性がある素晴らしい発明品である「インスタントラーメン」の特殊性をまるで代替可能なものの中から「選択」された物のように描きます。
 店舗で食べられる一般の「ラーメン」や「伝統的な」乾麺やコメとは本質的に異なる「機能」の特殊性からくる役割について精査せず印象論を示すのみです。
          
 「第四章 国土開発とご当地ラーメン」
 これも印象論に近いです。
 ラーメンを近代の産物としますが一般に現代の食文化の多くは近代に成立したものです。
 現代イタリアの「パスタ」文化も現実には20世紀の産物ですし我々の知る「讃岐うどん」も事実上戦後に成立したものです。
 生産と流通、社会経済情勢によって「伝統」が「作られる」のは珍しくは有りません。
 「出来上がる」のも「変わる」のはどれも短期間です。
 ※〔追記:ああそうか、元々有りもしない「観光資材としても有効な郷土料理」を前提にそれを淘汰した「ご当地ラーメン」の存在を描く事で近代化を表現しているのか〕
      
 近代の「観光」についての解説は妥当ではありますがこれは「ラーメン」特有の事情ではありません。
 「ご当地ラーメン」も「成功例」のある種のパターンを一般化しただけです。
 一般的な観光地の成功例との具体的な違いは示されません。
 比較に基づく分析も無く、ビジネス書の「マーケティング論」と同じである意味の「後付け」です。
 多くの新興観光地はわかりやすい単独の「イメージ商品」から広がります。富良野の「北の国から」や新潟の「越乃寒梅」等数多く有ります(戦前には新潟は「米どころ」でも銘醸地でもありませんでした)。ラーメンもその一つに過ぎません。
    
 札幌ラーメンと九州博多(豚骨)ラーメンについては妙な認識です。
 札幌ラーメンも王文彩氏(山東出身とされますがの北京料理を作ったともいわれる)「肉絲麺(ロウスーミェン)」から山東省出身の李宏業・李絵堂両氏の「焼き豚、シナチク、葱」を用いる日本型「シナそば」による「上書き」を経て昭和期の東京屋台「シナそば」の影響による完成をみたものです。
 九州博多(豚骨)ラーメンも元々は久留米の「南京千両」が東京屋台「シナそば」から移入し、そこから長崎ちゃんぽんの影響を受ける形で作り上げられたたものでこの二つを岡田哲氏を引いて別物とし、同じ「ラーメン」ではないとするのはいささか無理が有ります。
 それとこの文脈だと日本最初の「シナそば」店は明治39年の沖縄の「比嘉店」になるでしょう。(より古く唐人めんが有ったとされる観海楼を挙げる考えも有ります)
           
 「第五章 ラーメンとナショナリズム
 については「目に付く」「ジャポニズム」的なラーメン文化を定量化せずに一般化したイメージとして捉え都合の都合の良い側面のみから「ナショナリズム」化を印象付けます。一過性かもしれない事態から過度な一般化をしているようにも見えます。
 作務衣や日本的意匠がどのような文脈であるかは示されません。
 消費経済の差別化論理の一面としての共感ビジネス一般の方法としての必然性の全体像からは描かれません。所謂「高学歴インテリ」から見た自分の視点のみを絶対化するバイアスが見えます。
          
 まず大前提としてラーメン店における「作務衣」や「詩(ポエム)」の類は元々主に「手打ち蕎麦」業界から来たプレゼンテーションです。1980年代後半から飲食業界では「高い」客単価に繋がるお客に見せるタイプの和風の制服や「書」に似せたポスターやメニューは取り入れられました。
 元々飲食業の調理服として作務衣型の「ハッピ」形式の「白衣」等が存在した事から現在の「作務衣」に簡単に繋がります。
※〔追記:「手打ち蕎麦」の「作務衣」は精進料理や僧房のイメージからの影響か?〕
                                   
 今のラーメンの「和風化」は比較的高額であった和風の飲食店内装のコストが下がったという点とラーメン店の客単価の上昇(飲食自体としては客単価の下落ですが)を目的としたプレゼンテーションとの組み合わさったものであり、表現全体としても元から存在する飲食業の自己啓発的な「労務管理」とイメージ戦略の組み合わさった経営的な必然と文脈が存在します。
 レストラン経営史についてご存知の「知識人」の方は少ないのでしょうか。
※〔追記:差別化戦略と付加価値の一つの表現である「和風化」「職人イメージ」を直ぐにナショナリズムに結びつけるのはほぼ「偏見」でしょう。所謂「中華的」乃至は「大衆食堂的」又は「(素人)居酒屋的」ネーミングやプレゼンテーションとは異なる「モダン和風的」な意匠は1986年創業の「神座」を嚆矢と出来るかもしれません〕
         
 いうまでも無く歴史的には文化とは外来のものと自らの「アイデンティティ」とのせめぎ合いの連続です。
 本州日本の食文化としても平安時代の唐的な大饗料理鎌倉時代に中国の影響を受けた禅宗系の食文化を経て室町時代に独自色の強い本膳形式が成立し、織豊時代には南蛮文化が到来し、その後も長崎などからの外来文化の移入や同化と「対立」「独自性の強調」を繰り返します。
 この本の主題も一般論としては正しいとはいえるのですが、過度な印象付けによる「意味づけ」が感じられます。
 商品としてのラーメンの「偽史」を指摘している書物でありながらまた別の「偽史」を上書きしているだけにも見えます。
 テーマについて具体的に論証出来ているとは読めませんでした。 
    
 他にも内田樹氏の言を引いて「スローフード」運動を「ファシズム」と同一の基盤を持つイタリア・ピエモンテ発の特殊な政治運動と読める書きようもされますがイタリア自体が「統一」されたのが近代であり、地域ナショナリズムは現在でも強い国で、特に食文化におけるイタリアの「ナショナリズム」は国際的な常識です。
 イタリアの料理本を見ればどの地方でもある程度「フードナショナリズム」が直ぐに見つかります。
 他のヨーロッパ各国等についても取材されているわけでもなく文脈を明らかにしているわけではありません。
 フランスのワインからはじまるヨーロッパの原産地名称制度の歴史やリスボン条約等の知識があればこのような書き方にはならないでしょう。
   
 地域主義とナショナリズムとある種の左派思想についての関わりについて述べるのみで国際的な資本主義に於けるある種のナショナリズムスローフードだけではなく「フェアトレード」とも関わる寧ろ社会階層的な国際的なリベラリズムとの関連についても流されています。
 他にも日本では「ガイジン女将」や「ガイジン茶人」「ガイジン清酒酒造家」などといった現実には「白人」から見たオリエンタリズム的な「日本文化主義」の文脈が社会に多くあり、世界的に「特別な個人としての私」と「物語化した郷土文化」との融合が一般にある事についても触れられません。
   
 ラーメン業界内部や外食産業自体の棲み分けであるチェーン店と個人店・「脱サラ」開業についてもラーメン店だけではなくパン屋や洋菓子店、讃岐うどんや地酒酒場等のジャンルでの「独立」の可能性も有るにもかかわらずまるでラーメン特有とみえる点があります。
   
 ある種の「グローバリズムアメリカ批判」と「ナショナリズムの相対化」を最初から織り込んだ思想的な「物語」であるように見えます。最初から「近代と個人の葛藤」といった前提が透けて見えるといえば言いすぎでしょうか。
     
 この本については近代工業化と個人の消費の動向、外来文化の移入と同化、グローバル化ナショナリズム、そういった「一般論としては正しいだろうな」という思想史・文化史的な印象を、都合の良い事例のみを拾い上げ繋ぎ合わせた「読み物」としては「面白い」と感じます。
        
 エッセイや「文学」的なものとしては妥当だと思いますが、食物史・食文化史又は産業史としては乱暴に見えます。
 資料を批判せず都合の良い説を繋ぎ合わせて「ラーメン物語」を書かれているのなら仕方ありません。
 「研究書」とすれば、いわゆる「盛り過ぎ」だと考えます。良いテーマなのに勿体無いとは思います。
 ですがこの本が修辞的な「物語」として書かれている以上、この記事は野暮な「ツッコミ」である事は間違いありません。