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リテラシーと理解について考える

議論ができる 後編 

 議論ができる 前編の続き。

 ではどのような場合に「議論はできる」のでしょう。
  
 「議論ができている」というのはどのような場合かと考えると、基本的にはある程度の知性を持ち、議論を行う訓練を受けているか議論に向いた思考形式を持っているかの人間達がいて、議論される事柄について最低限理解し、論点を共有したいとの意思か共有される前提があり、「議論」を行おうという意思か状況が存在する場でそれが複数の当事者に共通の認識として存在する場に限られるはずです。
 最低限の公正さと知的誠実さを重んじ相手側の意見を理解しようとする事も必要でしょう。

 問題はそれを特に「自分自身」がそれをどの程度実行できているかを正確に理解することが簡単ではないことです。
 例えばそのジャンルの専門家同士が専門誌や学会等公開の場で行う場合はある程度ちゃんとした議論が行われていると考えられます。
    
 しかしそのような場は限定的です。
 勿論日常的にも相互が「議論ができる」場をつくり上げることは可能です。現実にも多くの場でまともに「議論」が出来ていることも多いでしょう。
 しかし現実的に見れば常にそれが出来るかといえばそうとは思えません。自分自身がその論点についてどの程度正確に理解しているかは良くわからない事もあります。
 論点が咬み合わない場合自身の認識に問題があるか相手側の問題なのかを「客観的」に把握することは簡単ではありません。
 自分がどの程度分かっているかいないかを中々正確に理解することは出来ません。現実には双方の認識が共に間違っていることすら多くあります。
      
 自分達の「議論」がまともな「議論」なのかを確認することすら簡単ではありません。
 悪い意味での比喩として「神学論争」とされる当事者以外には価値のない、おそらく普遍性に欠けると思われる「空論」をしていないかを確認することも簡単ではありません。
 論理的な思考能力なある知性的な方の考え抜いた主張が前提の不足や利害などの予断、理路の間違い思い違いで「空論」になることも少なく無いでしょう。
 論理的に否定できないことが感覚的に認められない場合も有ります。
  
 論理思考の出来る筈の人であっても「認知的不協和」といわれる状態に陥り、「信じて」しまっていたり思考が混乱している場合には自己の認知や理解を検証することも簡単ではありません。
 過去の実績や別の場での議論の実績が特定の場での「議論ができる」事についての確実な根拠とはいえない場合もあります。
 「論理思考」が出来ている筈の人が特定の分野で思い込みに縛られていたり、若い時には論理的であった人が年令と共に思考力が衰えさせる場合もあります
      
 他にも他人同士の「議論」を「第三者」として観ていてもそれをちゃんと「議論」であるかそうではない単なる「対立」であるかを理解する事も容易ではありません。
 双方の論点を理解し争点を押さえるのは簡単ではなく、現実にはわからないままにでも「態度」や「肩書き」等で判断をせざるを得ない事も多く有ります。理路や論拠の「確からしさ」を押さえるのは誰にでも何時でも何にでも出来るとは考えられません。
         
 現実には論者との人間関係や立場の距離、自分自身の利害や都合による何らかの予断に基づいた理解によって「議論」についての解釈を行う事になることも多いはずです。
 「議論ができ」ているかどうかを確認することも簡単な話ではないでしょう。それを他者に求めることも難しいでしょう。
 自分に「議論」ができているかの確認も容易ではなく誰かの「議論」が適切なものなのかを確認も難しく、ある「議論」が周囲に「議論であるか」を理解されているかの合意を得ることも簡単ではないでしょう。
  
 自分に「論理思考ができる」ということと、その場で「論理思考ができている」とが同じではないと云うことは常に頭に入れておくべきだと思います。
 個人的には基本的に殆どの人間は限定的な部分でしか「論理思考」ができず特定の状況でしか「議論ができない」のだと考えています。その「限定的にしか議論ができない」人間が特定の状況で「議論ができている」事が「議論ができる」事でしか無いと考えます。
 自分の行う「議論」がまともに「議論」として成り立ち、周囲からも「議論」として観られているかを認識したり、周囲にも理解できる「議論」を行うのはそれ程簡単ではないと考えます。
   
 「議論」を重視する立場であっても「議論ができる」の難しさは忘れるべきではないと考えます。