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リテラシーと理解について考える

議論ができる 前編

 「議論ができる」とはどの様な事なのだろうか。
 稚拙な個人的な考えを相当乱暴で粗雑な印象論で垂れ流します。
    
 現実に少なくとも今の日本の自分自身の周囲では『基本的に「議論ができる」』という状況は存在しません。
     
 先ず多く人は基本的に「議論ができません」。
 いわゆる「頭の良い人」が行う「根拠」や「論旨」「論理」などを示しつつ見解の相違や事実の認定を行い、「論点」を整理し、「理解」や「合意」等を得るか得ないか、何らかの「相違点」や「問題点」とかを見出すことができるか、と云った事が出来るものが「議論」だとすればそれが一般的だとは感じません。
   
 現実には相互の人間関係的なものと社会的な地位や集団での合意とされるものを前提として一応の「結論」が出て、余程の事でも無い限り「論」そのもの自体で何かの「結論」が見出される事はない形でコミュニュケーションが行われます。
  
 信頼関係や前提の合意が存在しないものについては何一つ噛みあうこともなく「主張」を投げ付け合う「口論」「喧嘩」「言い合い」といった所謂「議論」とは異なった物になります。
 少なくともどちらかがそれなりに「論」を示していれば周囲から見れば「討論」に成り得るかもしれませんがそのような状況ですら「基本的」には難しいでしょう。
 現実には「論」その物ではなく、論者の権威や立場等の社会的な意味や声の大きさや押しの強さ等の「力」で話が決まることも多くなります。
         
 「議論」を基本的には過度な「暴力」として受け取るのですから「議論ができる」というのが良い事であるとは理解されません。
 論理的に正しくても信念として認められないものや、利害の関わるものについては「議論」での解決が受け入れられるものでもないでしょう。
   
 多くの状況で「基本的に議論をしません」
 上にも書いたとおり「議論」を行うことが「論」ではない部分で行われる為、社会的な合意や力関係で一応の「結論」が決められる事にもなり「論」ではなく関係における「落とし所」にしか決まらないことが多いので実際には一方または双方に不満や不快感が残る事にもなります。
 「落とし所」が見つからない場合にはより大きな不満や不快感が残ります。何も得るものはありません。
 多くの場合双方に利益のあるコミュニュケーションとしての結果は得られないのですから「議論」を避けることにも合理的な理由があります。
  
 「議論」を行うリスクと見合う何らかの事情がない場合に「基本的に議論をしません」。
 逆にそのような方々にすれば「議論」を行う事自体がその件についての何らかの利害や特別な理由があるとして認識されます。
 現実の当事者でない議論は存在せず、所謂「論理」や「知的誠実さ」等といった直接的な目的の見えない「議論」は無用な揉め事を増やす余計なことであるとの認識を持つというのも理解できる考えです。
 そのような認識を持つ方には「議論」を行う「論者」は何らかの「強い主張」を持つ「利害当事者」乃至「主義者」であると理解し、何らかの強い対立軸を読み取ることはそれなりに合理的な理解でしょう。
 立場や感情的な物による「対立」を「議論」するべきだと考えない事自体はあり得るでしょう。
    
 そうは言っても日常的なコミュニュケーションにおいても情報の遣り取りをするということは現実には何らかの論拠に基づく意思の疎通は行われます。意見の対立や見解の相違の大きくない簡単な事実認定についての情報交換などは行われます。
 現実には限定的に「議論」の方法を用いているのでしょうが強い「対立」は避けられます。
 「議論」については「対立」の問題として忌避されるのでしょう。それが「同調圧力」としてはたらく事もありますが「対立」を嫌がる思考は基本的にそれ程不当なものではありません。
  
 近年になって議論が出来なくなったと言われる方もいますが昔は出来ていたとする根拠はありません。昔の方が社会的な地位や学歴で他人を動かしやすかったのかもしれませんがそれも議論ではありません。
 「議論ができる」と自認している方の「議論」がまともな「議論」で有るとも限りません。
  
 「議論ができる」自体を重要だとしない事が多いのは特殊な状況ではないでしょう。
  
 議論ができる 後編に続く。