物語やエンターテイメントにおいては過去の「歴史」を舞台や設定とした作品・創作物があります。
小説で言えば「歴史小説」「時代小説」といったものでドラマの場合でも「歴史ドラマ」「時代劇」といった物になるでしょう。
映画や漫画、舞台等においても「歴史」を用いた作品は多くあります。
これらの創作物は当然ですが「客観的な事実」をそのまま「写し取った」物ではなく多くの演出や脚色、いわば「嘘」や「虚構」を組み込んだものになります。
明記されるものもありますが、おそらく暗黙の了解としてこれらは一部は事実関係に基づくものの本質的には「虚構」であるとされているはずです。
表現や作品の必然において、確からしい事実関係と製作者の想像力や創作物の「お約束」の虚構を混ぜ合わせた形で描かれる事になるでしょう。
よくある話では「封建時代」の有力者について、特に目下の人間が公の場で本人に対し決して口にしてはならない「諱・忌み名」で呼ぶ例があります。
「清盛様」「家康様」等という言い方は大変無礼で許されることはありません。通常官職や「字・あざな」で呼ばれます。これは通常の読者や視聴者等の受け手には不親切なので、多くの場合あえて「嘘」で表現します。
100%の「リアリズム」作品だと大変見辛い作品になります。
これは個人的な「思いつき」の恣意的な分類になりますが「再現度」について独断と偏見で私見・自説を述べてみましょう。
個人的な定義ですが通常の「時代劇」はあえて言えば「50%」の作品であるとしましょう。
これはテレビドラマの「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」など実在の人物をモデルにした物や、実在しない人物でも特定の過去の時代を枠組みとして基本的に採用した作品とします。一応は「現代的」な造形や意匠を廃し、作劇の「お約束」の範囲で過去の特定の時代を表現したものであるとします。
これは大枠での分類で、勿論作品毎に幅はあり、実際には同じ題材や一つのシリーズ内でも再現度は異なります。
幾らか現代劇の枠組みをいれ、有りもしない職業・存在しない人物による、時代設定にぶれもあるテレビドラマの「仕事人シリーズ」等は「40%」としてみましょう。
時に漫画などで時々有る、舞台は過去であり歴史上の人物の名前「キャラクター」を名乗りながら実際には完全に創作の現代劇をしているものを「30%」、同じく歌舞伎のような舞台劇等の様に明らかに極端な脚色されたような作品を「20%」、何らかの別個の作品の「番外編」として「コスチュームプレイ(コスプレ)」をしている作品を「10%」とします。
だいたいの「忍者もの」は30%〜40%程度、漫画の「るろうに剣心」辺りも40%程度としましょう。
これは相当乱暴で雑な分類です。実際には研究熱心な作者や時代考証担当の方がいて、「お約束」の中でもディテールにおいては質の高い再現を試みていたりもします。逆に作者が「リアル」に表現をしたつもりにもかかわらず誤解などで狙いよりも低い再現度に終わる場合もあります。
言うまでも無くこれは作品の価値や評価とは異なる基準で、高い再現度でも良くない作品は有りますし、特定の「リアル」を阻害する「約束事」の存在するジャンルが劣っているというわけではありません。
努力は評価されるべきですが強要される事ではありません。
より「リアル」なジャンルとして述べると通常の「NHKの大河ドラマ」は平均として70%とします。
多くの「時代劇」に比べモデルが実在の人物を反映し、幾らかは「リアル」な「大河ドラマ」ですが幾らか「創作寄り」の60%の作品から考証のしっかりとしたより「リアル」な作品で80%位まで有ると考えます。
60%の作品は生真面目な「歴史好き」の人や一部の専門家から批判を受ける場合もあり、80%の作品は逆に娯楽を求める通常の視聴者からは「引かれる」事も考えられます。
勿論その「作品」の質とはそれほどは関係が無く60%の名作も80%の駄作もあるでしょう。
90%迄いくとこれは殆ど「実話再現ドラマ」になり、殆ど「エンタテイメント」としては難しくなって、結果的には「歴史好き」以外にはなかなか「面白い」といって貰うのは難しいかもしれません。
100%に為ると殆どドキュメンタリーや学術論文・研究のレベルになります。
それこそ平安時代などの作品を映像化しても「日本語」の「発音」そのものが異なったりしますし、物語性も無く、事実関係を論証する専門書の歴史評伝のレベルになります。作品として多くの人が思う「面白いもの」にはし難いでしょう。
一方これはジャンル毎でも認められるレベルは異なるでしょう。
テレビドラマでは所謂「時代劇」と「NHKの大河ドラマ」では異なりますし漫画でも表現のスタイルやテーマ、読者の年齢層等で異なります。表現者の技能や作品の完成度もさまざまです。
例えば「小説」のジャンルだと明らかに再現度を無視したエンターテイメントや「事実関係」を逆手に取った伝奇小説、時代劇の「お約束」の範囲で書かれた時代小説、歴史上の「事実」から自由に想像力を拡げた歴史小説、事実関係を基に合理的な推測以上は書かない「史伝」的な小説まで幅があります。
小説の場合は読者が主体的に選択をする事が容易とされているので再現性の高い作品も可能とされています。
逆に歴史の確からしい事実関係から作者の憶測や想像、作品として成立させるための虚構や作者の思想信条の表明などがそれとはわかりにくい形で混ぜられていてその点での「リテラシー」が読者に求められる部分でもあります。
広義の「文学」であるとされる歴史エッセイや学術書的体裁を求められない「商業歴史書」においても「再現性」や「根拠」乏しい、現実には「エンターテイメント」としかいえない学問的な価値の低い「通俗歴史本」が多く存在するのも事実です。
簡単では有りませんがそれがどういった「作品」であるかを認識して「歴史」についてはふれるべきでしょう。
他にも歴史小説やまともな歴史書でも時代の変化や研究の進歩で「再現度」が下がることが多くあります。
有る時代には「確からしい」とされていた「歴史」が後の研究で覆されたり、想像や推測で補うことが認められていた歴史の「行間」が新しい発見で埋められ、その時代には100%の歴史書が60%の再現度でしかないとされたり80%の教養的歴史小説が60%程度の「少しリアルな時代劇」になったりもします。
司馬遼太郎の「リアル志向」の作品等でもそのままでは残念ながら現在では70%の「NHKの大河ドラマ」よりも再現度では低いものと看做すべきでしょう。
明らかに古い知識で書く塩野七生氏等も学問的な価値の低い「通俗歴史本」でしかありません。
他にも黒澤明監督の「七人の侍」等は当時の「百姓」農民や侍や歴史的な事実とは大きく異なるとされています。
人間にとって大切な「何か」を学ぶことはできるのですが「歴史」について学ぶのは妥当では有りません。
自然科学や法律や経済等のご自分の詳しいジャンルについては「確からしい」専門知識や根拠のある認識を持つ方が歴史については平気で40%〜70%程度の理解を平気で公然と語られるのは困ったものです。
その上それを前提に政策を立てる政治家までが居るのはとても残念です。
「作品」としての価値は全く変わりませんが歴史の再現度としての価値は下がり、時代考証や事実関係の理解には有効ではありません。
すばらしい「作品」は人間の内面的な真実を描き出すものなのかもしれません。
作品の価値は単なる「薀蓄を覚える」実用性にあるのでは有りません。
「創作物」としての価値は決して失われるものではありません。「再現度」とは別の文脈です。
「NHKの大河ドラマ」もドラマとしての在り方と時代考証や再現性のバランスが興味深いと思います。
以下、特定の創作物の「ネタばれ」の部分があります。お読みになる場合はご注意ください。
少し前に漫画作品の食の歴史?についての描写が話題になりました。
その際「考証」がよく出来ている、とされる作品として一部の方が引き合いに出されていたので確認してみました。
「信長のシェフ」(芳文社コミックス)という作品です。
以下ネタばれ注意
1〜3巻までで内容はしっかり読みませんでしたが(すみません)食物・食文化史等の考証の部分についてのみのレビューです。
インターネット書店Amazonより
内容紹介
現代の料理人・ケン。
彼が目を覚ますとそこは戦国時代だった。
京で評判の料理の噂を聞きつけた信長は、強引にケンを自分の料理人にするが…!?
戦と料理が織りなす前代未聞の戦国グルメ絵巻!
コラム&レシピ「戦国めし」も必見!
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4832232614/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1
この作品はまず第一に所謂「SF」のモチーフがある「タイムスリップ」物で通常の「歴史物」より基本的に創作性が強く、フィクションとしての娯楽性に重きを置いたエンターテイメントです。
「考証」よりも読んで愉しむ作品で、こういった検証はそれ自体が無粋な物です。先に申し上げておきます。
手元に本はありませんが記憶に従い1巻から順に。
とりあえずルイス・フロイスが信長に謁見したのが1569年(永禄12年)とされています。それが前提です。
先ず「包丁」の形がおかしいです。
ここで見られる現在の和包丁の形はほぼ18世紀以降に完成したものです。
包丁に「あご」の有る形はこのころ確認されておらず。現在の「式包丁」に見られる「かたな形」のものでさえ17世紀江戸時代に入ってからのものです。このころだと基本的には通常の日本刀の短刀と殆ど変わらない形の「包丁刀」が普通です。
こういった形の魚や野菜などの素材によって大きく形の変わる包丁の形式は17世紀中ごろから作られたとされ17世紀末元禄時代には専用包丁が存在したことが確認されています。
ここに見える「かたな形」ではない先の角ばった薄刃包丁等は18世紀末に出来たものとされます。
そして先のとがった刺身包丁・正夫形は19世紀中頃であるとされています。
ここで見られる包丁が揃ったのは江戸時代末期だということになります。
>和包丁の歴史 木屋
>http://www.kiya-hamono.co.jp/hamono/wa_rekishi.html
そして料理の中に「人参」が使われます。その当時の「人参」は現在の「朝鮮人参」を指します。
所謂「東洋種」の紅い「人参」が日本に入ったのは16世紀後半以降とされています。
彩で使える紅い人参はその時代には存在せず、朝鮮人参はその当時は高価な輸入物しかありません。
>にんじん カゴメ株式会社 野菜大全
http://www.kagome.co.jp/tomato/yasaitaizen/carrot/knowledge.html
幾らか気になったのは「鯉」が既に「締めた」状態で並べられて売られていた様に見えるという点です。
鯉は淡水魚で死ぬと急速に味が落ちるのでその当時でも甕に水を入れ泳がすが水辺に生簀を置いて売られたのではないかと考えます。
何らかの形で「生かして」おいた筈です。(これは確証は有りません)
そして2巻ですが「醤油」についてです。
この時代の醸造を行っていた寺院の記録「多聞院日記」や少し前の日記「言継卿記」には醤油についての言及があり、当時の京の「グルメ」高級武士の社会では日明勘合貿易で中国から持ち込まれただろう「醤油」を知る人も居たはずです。
そのうえ、代用品として出された「垂れ味噌」「垂れ」は鎌倉時代から作られたともされ少なくともすでに一般的な調味料として存在していたのは間違いありません。もし醤油は知らなくても「垂れ味噌」を知らない訳は有りません。
>キッコーマン国際食文化研究センター
>http://kiifc.kikkoman.co.jp/tenji/tenji15/index.html
そして一人称の薀蓄として語られるので「本人の記憶違い」ですむかもしれませんが「生鮓」を「なまずし」と読ませ、握りずしの説明として語らせます。「生鮓」又は「生寿司・生鮨」は北海道の方言とされ、こういった物を示す場合は通常「早ずし(はやずし)」という言い方になります。 1830年ごろに出来たとしますが「馴れずし」ではない早ずしは16世紀末には生まれ、「生ねたのすし」は18世紀末には存在し、「握りずし」も文化文政期(1804〜1829年)には完成し、1830年ごろには江戸では既に一般化していたとされる筈です。
当時の調理・台所仕事を板の間での「座り仕事」と表現しているのは良いと思います。
ただその頃のまな板は多くが「足つき」で単なる板状のまな板は少なかったはずです。すり鉢のデザインも少し違います。
おそらく鋳鉄の鉄鍋の大きさや形にも幾らか違和感もあり、火口や重さを考えるとああいった使用法が可能なのかわかりません。
他にも具体的に調理法が書かれていないのではっきりいえませんが流通や保存を前提にすると相当難しい素材があるようにも見えます。
料理の盛り付けに用いられるのが絵では磁器の長角皿に見えるのも、当時こんな形の皿が存在していたという記憶はありません。日本には磁器は無く明や朝鮮にもこのような形の皿はありません。
後本筋とは違う部分も幾つか。「鍛冶仕事」についても考証します。
刀鍛冶とされる人物が包丁を作るのも普通では考えにくいでしょう。
江戸時代ならまだしも当時の京周辺で刀鍛冶が「野鍛冶」「道具鍛冶」の仕事に割り込むようなことが許されるとは思えませんし(縄張りが有る筈)数打ち刀のニーズも当時は充分あります。
技法的にも異なり作品にあるような「裏すき」のあるだろう片刃の包丁を作るのは不自然です。
刀等通常の鍛冶仕事は一人では出来ません。
鍛冶普通は座って鋼材を抑えながら片手で槌で打ちますがその体勢だとそれほど大きな力は使えません。有る程度の大物を作る場合は「向こう槌」という立って両手で槌を用いる打ち手とコンビで行います。現在でも包丁等の鍛冶は機械ハンマーを向こう槌にして鍛錬を行います。
小型の鍬先などの小さな物なら兎も角刀や鑓は一人では出来ません。
鍛冶場に鞴らしい物は見えましたが金床・鉄床が無い様に見えるのも気になりました。
そして鍛冶が自分で真砂(砂鉄)をとって蹈鞴(たたら)を築き製鉄を行うような表現がありますが製鉄も基本的に分業で蹈鞴を行い砂鉄をとる「鉱山師」等、原材料の鉄生産を行う「蹈鞴師」、それを精錬する「大鍛冶」、そしてそれで道具などを作る刀鍛冶や野鍛冶などの「小鍛冶」と分業がされています。時代にもよりますが他にも「研ぎ師」や「鞘師」等の専門家が力をあわせて作ります。
特に蹈鞴は大人数で大量の燃料や素材を用いて行う大事業です。少人数で行える野蹈鞴もあると考えられていますが時代も違います。
真砂を鉄材料を精錬する「卸し鉄」に用いるのなら理解できますが、特に京都で蹈鞴を自分自身で行う様なことは基本的にありえません。
他にも軍事や有識(職)故実についてもそれほど「考証」を気にして描かれているようには見えません。
ですがこれらの「考証」はこの作品の価値を毀損するものでは有りません。
したり顔で「ミス」だとか言い立てるような話ではありません。
エンターテイメントの時代劇としては上に書いた50%の再現度を充分に満たしているように感じます。
実は「タイムスリップ」物ではなく「パラレルワールド」物なのかもしれませんし多くのファンには充分楽しめる良い作品なのでしょう。
みた所、機転の利いたトラブル解決や可愛らしいヒロインと主人公の恋の行方や時代と運命の物語を充分に堪能することが出来る優れた娯楽作品です。
食物・食文化史の専門家ではなく歴史家でもない原作者の料理の専門家の方の歴史シミュレーション風の美味しそうなレシピも楽しめます。
「作品名+考証」で検索した処、過剰に内容を「信じている」人が多いようなので少し意地悪く書きました。
「考証が良い」という表現は余程詳しいか、ちゃんと調べない限りあまり用いないほうが良い表現だとは思います。
作品に過大な要求を押し付けるのは良いとは思いません。安易に「勉強」をしようとしてはいけません。
作品を作品として愉しむのも「リテラシー」の話です。メディア側だけに責任を負わせるのは「市民」といい難いでしょう。
食物関係の知識は安易に「薀蓄」として語られる部分があり、ちゃんと「勉強」をせずに判ったつもりになりやすいので注意が必要です。
本当はこの記事自体も懐疑的に読むべきでもあります。