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リテラシーと理解について考える

日本肉食史覚書(上)

 おそらくホモ・サピエンスは10〜20万年前にアフリカで発生してから1万数千年位前に農耕生活に入る前は殆ど狩猟採集生活という「肉食」を日常的に行う生き物として存在してきたはずです。その当時の人間の寿命が今よりも短いのは確かですが、肉食が「繁栄」の基となり、世界中に広まりました。そして多くの大型獣を滅亡に追いやったとも考えられます。
 肉食そのものは人類の「業」ともいえるものでしょう。
         
 「日本」の肉食の歴史は縄文時代以前からの狩猟採集生活から始まり、本格的な農業生産の始まった弥生時代の早い時期に豚と犬が家畜として持ち込まれ食用とされ(縄文時代飼われていた犬は食用とはされなかったらしい)古墳時代におそらく馬と牛が持ち込まれ家畜として飼われ、食用にも用いられたと考えられています。
 実は縄文時代も「主食」は堅果等の植物と水産物で、地域にもよりますが弥生時代と同じく獣肉食は食生活の主要な部分ではなくいわば副食や祭礼食とされていたと考えられます。
      
 一般には奈良時代からの仏教の影響による政策で肉食は禁じられ、明治時代になってからの「西洋化」の中で肉食が解禁されたとされていました。
 「日本料理」は「米と野菜と魚の料理」だとも考えれられている側面もあります。
 
 現実には「肉食」自体はそれほど一般的ではないようですが行われていました。
 よく知られた物では野鳥の類が本膳料理を含めた典礼でも用いられて居たことが知られます。
 「鶴」を用いる「包丁式」は天皇の前で公式に行われる最高の儀礼でした。
 包丁式では雁や鴨、雉や鵠(くぐい、白鳥の事)も用いられました。
    
 「ケガレ」が有るともされながら鹿や猪も食べられるのも珍しくは無く兎を一羽と数え野鳥に準じた扱いもされたことも知られます。
 19世紀にはタブーも緩み始め江戸でも一部では豚肉も売られ、薩摩・島津家が江戸屋敷で豚を育てて販売し(薩摩では豚肉食が存在した)、その豚肉を好んだとされた徳川(一橋)慶喜が「豚一様(ぶたいち?)」と渾名されたともいわれます。
 明治5年の明治天皇の肉食解禁により「近代化」の名のもとに「日本社会」でも正式に受け入れられます。
 文明開化のハイカラ趣味と軍用での牛肉の缶詰の利用から肉食は一般化し始め、戦後の経済成長と共に日常のものになります。
   
 よく知られた大まかな日本肉食史はこういった話でしょうか。
 例えば「とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ)」岡田哲あたりではそのような記述です。

とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ)

とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ)

 この見解は「明治事物事始 石井研堂明治41年(1908)の説をそのまま受け取る考えです。
            
 日本肉食史の現在の研究と資料について挙げてみます。(《》内は書籍の内容について述べています)
        
 日本書紀には雄略2年に天皇の要求により「膳(臣)長野(かしわでのながの)」らが宍膾(なます)を作る宍人部とされたとあります。
 神話では有りますが古事記には「神武天皇」が東征の際「牛酒」「酒宍」(どちらも「しし」と読むらしい)をふるまわれたとあり、成立時期には肉を供えるのが不浄でない事が読み取れます。
      
>奈良朝食生活の研究 関根真隆 吉川弘文館
奈良朝食生活の研究 (1969年) (日本史学研究叢書)

奈良朝食生活の研究 (1969年) (日本史学研究叢書)

《でも猪、鹿、牛、馬、兎、くじら、いるかについての記述があり「宍」を生肉としています。
 生肉を細切りにし、酢等で調味する「膾」が存在していたとして間違いないでしょう。
 延喜式に鹿鮨、猪鮨もあり、万葉集にも「わが肉は 御膾はやし わが肝も 御膾はやし『乞食人(ほかひひと) が詠ふ歌』」と有り、生肉食を示す歌が幾つもあります。これは鹿では有りますが「レバ刺し」が存在していたといえます。*1
      
 中国でも春秋時代孔子にも肉の膾の記述は多くあり、当時の東アジア世界では肉の生食に特に抵抗が無かったと考えられています。中国の肉や魚の生食は後に衰えました。
        
 日本でも勿論実際には一般の人々が日常的に肉食をしていたわけではなく権力者以外だと特別な時にしか味わう事が出来なかったとするのが妥当でしょう。農業生産のみで食料が足りておらず漁労狩猟採取も重要なエネルギー源だった時代です。
 出雲風土記嶋根郡条にも野鳥だけではなく猪、鹿、猿、ムササビが食用とされています。
          
>神々と肉食の古代史 平林 章仁 吉川弘文館
神々と肉食の古代史

神々と肉食の古代史

《この本の神話の解釈一般については論評出来ませんが、幾つもの例を引いて奈良時代以前から稲作の儀礼において元は鹿、後には牛が生贄とされ、その生肉を神と共食していたとする解釈については妥当だと考えます。元々は稲作と肉食の対立は無いとする認識には説得力を感じます。
 「生贄」の新鮮な牛肉等を好んで生食していたとします。
 朝廷は「猪飼部」を置き、豚も飼育していました。
 奈良時代からの肉食の禁令も、最初は期間限定の目的のある政策だったとしています。
 禁令としても「牛、馬、犬、鶏、猿」の限定的な範囲で、全ての肉食が禁じられたわけでもありません。
 7世紀末から「物忌み」の形で期間限定で肉食が禁じられ9世紀にはタブーとして定着したとしています。
 「白猪」を豚とするのは当時の中国の豚が「白い」とする根拠がないと考えます。》
    
 平安奈良時代に朝廷の儀礼について定められた「延喜式」においても肉食は正式な食品とされ醤(塩漬け)や膾や干し肉で用いられたとされます。牛の放牧の記録もあります。
 10世紀前半に書かれた和名類聚抄(倭名類聚鈔)にも「膾」が「生宍」としてあります。これは「知識」だけだと考えられます。
   
 陰陽道の研究によると平安期は時代を重ねるごとに宮廷貴族の間では迷信やタブーについての感覚が強化され、おそらくその流れもあり都では鹿や猪を含む四足の肉食そのものが全般に否定されていきます。
 平安期から多く書かれた説話集では肉食や狩猟を悪行として描きますが、仏教が一般化する際にそれらをタブー視する事で人々の罪悪感を煽り、「救い」を求めさせる形で布教に役立てたといえるかもしれません。
 現代の我々の感覚と違い当時は仏教と「神道」を別個の物とは考えては居ない部分も多い筈ですから謂わば「神仏」の教えとして共有強化されたといえるでしょう。
 同時期に新羅でも肉食が禁じられたらしいので当時の「文明化」としての共通の認識があったのかもしれません。
          
 逆に新たに台頭してきた武士階級では狩猟が一般に行われ、猟果を食べる事には特に抵抗は有りませんでした。
 鎌倉武士は狩猟を盛んに行い、他に「犬追物」で用いられた犬も少なくとも下級武士は食べていたようです。
 この時期には甲冑等でも皮革が多く用いられ京や鎌倉では牛馬の解体処理も行われていたとされます。
 基本的には役牛でしょうがこの頃には所謂「和牛」品種の原型がすでに確立していたとされます(國牛十図)。
 13世紀末の「百錬抄」では「鹿宍(鹿肉)」を京都六角西洞院で武士が集まり食べていたとします。貴族は武士の肉食を批判的に見ています。
 鎌倉時代の日本初ともいわれる料理書「厨事類記」には雉が「なます」や乾物・焼き物で用いられたとあるそうです。生の鳥肉が食べられていました。
 室町初期の「庭訓往来」五月条でも魚や野鳥・海獣類だけではなく「兎、干鹿、干兎、豕(ゐのこ)焼皮、熊掌、狸沢渡、猿木取」をおそらく食用として準備出来るとあります。室町中期の「尺素往来」にも狩猟獣の肉食について書かれます。
   
 室町時代には高級武士も京都の文化の影響を多く受け、四足の肉食は避けられるようになったと考えられます。
 それまでは中国の影響の強かった文化から独自の食の儀礼が成立します。上流階級を中心に表立った肉食は避けられます。
 京でそれなりの地位の人間が四足の肉食を行うと「悪い噂」になるようでした。
 肉食の「穢れ」から離れ、米を食する事がステイタスとされた様です。
           
 戦国時代に来日したヨーロッパ人は日本人が牛馬を食べないと記録に残しています。
 「イエズス会日本年報」やロドリゲスの「日本教会史」やフロイスの「日欧文化比較」などが知られます。
 しかしその当時は狩猟獣や犬は盛んに食べられていたようです。猿を食べていた事も記録に残されています。
 織豊時代キリシタンキリスト教の影響で牛馬を食べていた様で、細川忠興蒲生氏郷らが天正18年(1590)小田原で高山右近から牛肉を送られたとの記録もあり、西日本では豚の存在も記録され、ヨーロッパ船に豊臣秀吉が豚を調達した等(これは中国商人との取引のある地域から入手したのかも*2)「裏」では肉食を行っていた可能性も指摘されます。
 戦国時代には雑兵の略奪行為の一環で畜牛を食べる事もあったといわれます。
   
>(下)http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120617
>(補足)http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120618

*1:追記:当時も肉は基本的には恐らく加熱して食べるのが普通で、記録の多くも「腊」(にくづきに昔)といわれる干し肉です。

*2:追記:11世紀〜16世紀の中世の九州にはほぼ一貫して「唐房」「大唐街」といった中国人居留地・中華街が複数存在しました。