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リテラシーと理解について考える

龍馬伝 説

 長年ぬるい歴史好きで、入門書レベルの本を読んできました。
 大体どの時代でもどの地域でも興味があり、政治史だけでなく文化史や技術史も広く楽しんできましたが、余り手を出さないジャンルもありました。そのひとつが明治維新史です。
 基本的には史実に興味があるのですが、維新史の簡単な本は書き手の思い入ればかりで信用できない本が多いような気がし、どうにも手が出ませんでした。
 しかし近年少しずつ読み始めこの2〜3年位はそこそこ楽しめるようになってきました。
 現在の維新史の研究は進んでいて小説などのフィクションとは全く異なり、昔学んだ教科書ともニュアンスが変わっています。
 しかし世間的にはフィクションを基にした「物語」が蔓延し、社会と研究の乖離がより進んでいます。
 坂本龍馬直柔(1836〜1867)は特に伝説化され史実とは異なる「物語」が事実として受け取られ社会や政治にすら影響を与えている様にも見えます。

 今年の大河ドラマの「龍馬伝」も見ておらず、司馬遼太郎竜馬がゆく」も読んではいませんが所謂「龍馬伝説」について書きます。

×龍馬は下級郷士の出身で苦労人。→龍馬は金持ちの家のぼんぼん。龍馬の実家は土佐でも屈指の大商人でもある才谷屋の分家で資産もあり、その次男である龍馬はその資力もあって何度も江戸に遊学し、見聞を広めました。
 坂本家は国学の家で龍馬は和歌の素養もあります。
 土佐の下級郷士の子弟で南国的な自由人風のざっくばらんなキャラクターというよりも地方の育ちの良く利発な好青年であったようです。
×最初は剣術修行一本の武芸者志望で剣の達人で政治には興味が無かったが黒船を見て時代に気づいた。→剣術修行を名目に江戸に出たのでしょうが、出て2ヶ月で黒船が来て(17歳)その後直ぐに佐久間象山(砲術、西洋軍学)に短期間だが学んでいて、結局剣術の千葉門下でも長刀の目録(なぎなたの初級免許)しか受けていない。
 最初の江戸遊学は1年で終わり土佐に帰って河田小龍と出会い「西洋の事情」を学んでいる(18歳頃)。その後砲術も学びます。
 後に土佐勤王党に9番目で加盟している上、千葉門下の先輩清河八郎の虎尾の会にも関わっている(25歳頃)。当時の「武士」らしく広い意味の「武芸」「兵法」一般を学んでいたのは事実です、剣は重要なその一部でしょう。
 「安政剣術試合」は偽文書に基づく創作です。剣術の腕前はともかく(千葉佐那の証言は信憑性が薄い)剣豪説は事実とはいえないでしょう。
 ※勝海舟吉田松陰も佐久間の門下。

×勝海舟を斬るつもりで会うが心服して弟子になる。→龍馬は一時は京都で大きな影響力を持った土佐勤王党元幹部であり江戸での知己も多く、既に名の知れた志士であったようで勝との接点は多くあり、上にもあるように西洋事情も知っていた。この時点では過激な攘夷派では無いです。 土佐藩も勝も(松平春嶽も)一橋派でした。勝は龍馬を持ち上げつつ自分を大きく見せる言い方をします。龍馬自身もこの手の大げさな物言いをする場合もあるので余り信憑性の高い話ではありません。
 ※当時の日本ではほぼ全員が「攘夷派」、ただ即刻条約廃棄の完全攘夷か技術移転による国力強化後の攘夷かで分かれた。現実には党派対立の方便として使われた。

×薩長同盟は一介の素浪人坂本龍馬が独力で発想して実現した。→勝や龍馬のブレーンでもある横井小楠が雄藩連合について構想しています。
 第一次長州征伐中に勝が征長総督参謀西郷隆盛に長州との関係改善について述べていて、京都での一会桑権力の成立と幕府の威勢の回復で主導権を失いつつある薩摩が影響力を残すために長州を必要とする考えとして理解されます。
 薩摩主導の幕府軍は前面攻撃を回避し長州の恭順を受け入れます。
 長州も孤立すると滅亡の恐れがあるとし理解します。英国公使ハリー・パークスらが薩摩との関係改善を進めます。
 志士らにも薩摩と長州の関係改善に期待する機運が高まります。

 勝の意を汲む弟子で長州にも顔が利き薩摩の基で活動していた龍馬と、同じく土佐出身で公家に顔が利き長州で活動していた中岡慎太郎や土方久元・田中光顕らが盟友関係を軸に両者の斡旋をします。全員元土佐勤王党出の脱藩者仲間です。
 薩摩の側の事情による薩摩からの働きかけです。龍馬はその意を受けて代理人として動きます。
 両藩の上層部では合意は出来ますが薩摩への不信感の拭えない長州の木戸孝允桂小五郎。当時の名は木戸貫治)に薩摩の代理人として龍馬は会議の責任を持つとして、優位に立とうとする薩摩との仲介に尽力します。勝や旧勤王党やグラバーの後ろ盾の有る龍馬を保証人にして盟約は成ります。
 歴史学的にいう「薩長盟約・薩長密約」は軍事同盟とするより、基本的には緩やかな共助・協力関係とする見解が多数です。

×龍馬が船中八策により大政奉還を提唱した。→大政奉還は以前から勝や龍馬の親分である大久保一翁らが提唱していてよく知られていました。徳川慶喜がこれを受け入れたのは幕府側から言い出すわけには行かないので土佐の後藤象二郎らが献案した大政奉還建白書に乗った物であり、徳川の力を残すための高等戦略でした。
 船中八策自体も龍馬の創案とはいえず以前にも同様な物が横井小楠らや他の志士からも提案されていた内容で、その上龍馬の直筆も長岡謙吉の書いた原本も写本も存在せず成立過程も不明で、龍馬の関与を示す証拠も無いそうです。

×新政権の予定名簿には自らを入れなかった。→龍馬側近の戸田雅楽が西郷に示したとされる新官制擬定書には龍馬の名前は参議の一人として後藤らと共に明記されていました。龍馬が新政権に参加するつもりが無いとする根拠も動機もありません。
 西郷らに「世界の海援隊でもやりましょうかな」等と発言した事実も存在しません。

×龍馬暗殺は幕末最大のミステリーであり犯人も黒幕も不明。→龍馬は官吏を一人殺害していて尚且つ反体制派としてお尋ね者です。大政奉還後であっても慶喜に切り捨てられた会津や旧幕府保守派には仇敵です、見廻組に狙われるのは当然です。彼らも充分な捜査・実行能力はあります。龍馬らが慎重さに欠けていたのも事実です。
 龍馬は武力倒幕を否定していませんし、薩摩も武力倒幕一辺倒でもありません。
 薩摩や土佐の後藤らはその時点では政権獲得が成功する勝算は有りません。当時の軍事力は旧幕府側が優勢です。龍馬のような有能な人材に死なれたら困ります。 特に後藤は敵が多く土佐藩側でも「味方」は龍馬等少数です。邪魔だとしてもその時点で暗殺する必要も特にありません。
 実際には両者とも龍馬の死後、悲憤慷慨しています。
 見廻組が会津上層部か旧幕府側の黙認か支持のもと襲撃した物と見るのが必然です。当時土佐と接近していた慶喜によって庇護されていた龍馬を殺害したことをとりあえず隠蔽した物でしょう。旧幕府側が負けてからは有耶無耶にせざるを得ません。
 黒幕の存在は必然も根拠も無く偏見に基づく憶測以外は何の証拠もありません。


 坂本龍馬はどちらかと言うと主役ではなく仲介者として活躍したと見るのが穏当でしょう。重要人物に信用され人と人との結びつきの要として活躍しました。
 人柄が良く、説明を受ければ先入観にとらわれずちゃんと理解し、同志には誠実に接し、まめに動く実行力や交渉力に優れた人物です。
 思想にも独自性は少ないのですが飲み込みが良くセンスが優れているのも特長です。先見性はありますが所謂「平和主義者」でもなく現実主義者的な面が強いです。
 薩土盟約等でも大きな働きをしていて、龍馬がいなければ幕末の歴史も少しは変わったかもしれません、長生きしていれば明治後の歴史も少しは変わったかもしれません。例えば慶喜が早くにでも龍馬を召抱えていればそれこそ歴史は変わったのでしょう。
 「明治維新最大の英雄」は異常に過大な評価ですが、とても魅力的な人物であることは間違い有りません。

 本人の手紙などを見るとそれなりにミーハーの感激屋で、身内には泣き言や自慢話も多く、人間的な人物でも有るようです。「伝説」は本人の人間性を無視し「消費者」の都合の良い英雄像の押し付けで龍馬に敬意があるとは思えない様にも感じます。

 幕末歴史本で「はずれ」を引かない基準のひとつは「龍馬暗殺に黒幕がいる!!」です。黒幕が薩摩でも後藤象二郎でも紀州でもフリーメイソンでも同じです。
 娯楽小説としては別に構いませんが、歴史の史実に興味がある方はこれが書いてある本は避けてください。大体が史料に基づかない誰かの小説の焼き直しです。
 半藤一利氏や童門冬二氏や星亮一氏等の「歴史エッセイ」は史実として信用してはいけません。当然司馬遼太郎塩野七生氏の作品も小説でしか有りません。
 「歴史に興味を持つ」「歴史で楽しむ」為の物語と史実としての「歴史を学ぶ」や「歴史に学ぶ」は意味が違います、間違えないようにしてもらいたいです。
 「気持ちが良い」事を事実の認識の目的とするのは避けるのが知的な誠実さです。

〈追記〉龍馬でなく「竜馬」とか書いてあるだけで孫引きくさくなります。