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リテラシーと理解について考える

「ちゃんと調べろ」について。その1

 『「考えるな。調べろ」について』
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20101105/1288886883
の続きです。(内容は暴走気味)
    
 調べるとはどのような行為なのでしょう。
      
 「調べる」には大きく分けると、対象から情報を引き出し知覚・認識可能な物とするというという広い意味と、情報になったものから探し出し選択するという狭い意味があります。
 ここでは後者のについて述べ、「調べる」は誰かにとっては既知である可能性の有る情報や知識を得る手段だとして考察します。
   
 ある事柄について調べる場合最も確実性が高いのはそのジャンルの最も正当な「権威・実績」のあるしシステムにアクセスし、順序だてて「学び」理解することが最も確度の高い情報乃至は知識を得る手段だとするのが一般的でしょう。
(社会の要請か個人の必要によって知識をより深く広く、場合によっては体系ごと習得することを目指す「学び・学ぶ」は「調べる」の延長線上に有るとはいえます)
  しかし病院に行く前に医学を修めたり、スーパーに行く前に栄養学や衛生学等を学び魚や野菜の専門的な知識を学んだり、密室殺人の推理小説を読む前に法学と解剖学と建築学を一から学ぶわけにはいきません。
  人間の能力には限界があり理解力には個人差があり全てを知る事はまず不可能です。
 そこで我々は多数の人間が能力に基づき何らかの対価を得る可能性を求め断片的な知識を分散して持ち相互に共有する「社会」や「伝達」などの手段を用い個人の知識の限界を補う方法を用いています。
(ここでの情報とは観測できた事実又は思考を伝達可能な形で記録した物とし、知識とはその情報と他の情報との関係の理解も含む事とします)
  
 状況や個人の能力や立場や対価等によって持つべきだと要求される知識の量は違いますが、基本的に共有されるべきとされる知識とその「上」に、より複雑な個別の知識が限定的な個人や集団と記録によって分散してですが保持されています。
 「調べる」とは情報を持たない又は情報の確実性に根拠を持たない個人や人たちが、知識を持つ個人乃至は集団から直接又は記録によって情報を得ることです。
 上にもある通り必要によって得たい情報の量は異なり、極一部分を切り取った情報のみを用いる事も現実にはよく行われます。
 人間は情報の入力について限定された存在で有るので限られた時間や能力の一部を用いない限り情報を得ることは出来ません。
 情報を得る側は得るために(与える側に届くという形では無い)時間や労力等の対価「コスト」を支払うことになります。
 まずその時点で持っている知識を元に成果に見合った(と考えられる)コストを支払い、情報や知識を得ます。
 多くの場合それ程完全な情報も高い知識も必要ではありません。ほとんどの知識はほとんどの人にはそれ程必要ではありません。
 「社会性の有る生き物」である人間は意識的ではなくとも他者に対し有る程度依存し「必要」以上の負担は実利的では無いと判断できる思考様式を持つ事もある生態を持ちます。
 情報を得る場合も可能な限り低い負担で必要に応じた効果を得ようとする事はおかしな判断では有りません。
  
 そこに無理が生じます「それ」について必要な知識は実際に必要な知識を持つ側でないと理解出来ないからです。
 ですから現実には一般的にそれは正しい知識を得て欲しいと考える「供給者」から見れば呆れるほどに低いコストで大きな成果を得ようとする事にもなります。
 特に興味のある事柄を特定の資質を持った人が関わる場合を除いては可能な限り「易く」得ることをおかしいと考えません。
   
 実際はその方法でも一般的には合理的といえます。
 上にも書いたように成果に見合わない(と思われる)膨大なコストの支払いよりもそれを「信用」等の社会的な関係性の枠組みで分散した形で「共有」する事によって(個人によっては)対価に見合わないと考える優先順位の低い情報を理解する負担を必要とはしません。
 現代では安定している集団において日常的に必要な知識は比較的簡単に得ることが出来、足り無い知識を補う他者に頼れる社会は広く存在します。
 日常レベルでは「一般常識」と職業等に必要なレベルの限定した知識のみで問題なく生活することが可能です。
 「調べる」についての高いコストが必要ではない社会が基本的には「良い社会」で有るともいえます。
   
 理屈の上では「正しい情報」のみが存在し「間違った情報」が確実に排除される社会であればこの形でも問題はありません。
 そうなれば個々が必要の無い情報を学ぶ必要が無く、正しく機能する場合には最も効率が良いのかもしれません。
 しかし人間が間違いを犯す生き物であり、社会が多少の間違いを許すシステムでしかない以上それは困難です。
    
・個人が全ての知識を持つ事は不可能で、全ての人間は特定の知識しか持たず、知識は「社会」で分散共有されている。
・「調べる」とは必要とされる知識を効率よく得るための手段である。
・知識を求める側と知識を与える側はその知識に対する必要性や価値が共有されているとは限らない。
・「良い」社会は「調べる」コストが低い事でもあるのかもしれない。ただし不自由。
  
 次に「調べる」という事の位置付けや意味付け等、動機や目的と出来れば手段について考えます。