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リテラシーと理解について考える

「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」と「ニセ科学批判」についての見解

 1年半位前にapjさんのホームページに書いたコメントです。一部編集しています。
>「ニセ科学まとめ」関連のコメント Y. Amo(apj )
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/30b330e130f330c87528
   

 嘘をつかれる側(言葉以外の嘘を含めて「嘘をつかれる」とします)にしてみれば自分を護るために「嘘を見破る(嘘を嘘であると認識する)」という対策がとられるのも合理的で「嘘が存在する以上、嘘を嘘であると認識する事はある」と言っても間違いではないと思います。
   
 例外として小さな嘘や無害と思われる嘘は認識するコストのほうが高いと無視される事も有り、都合の良い嘘は受け入れられる事も有りえるでしょう。
   
 しかし嘘が無駄なコストを支払わせたり選択を誤らせたり危険を増やしたりするリスクも有る以上、認識された嘘についての情報を利害が重なる他人や集団(や共感を持つ他人)と共有する事は個人の利益にもなります。
 自分の属する集団に嘘が広まれば自分自身も間接的にでも危険に晒されたり不利益につながる事もあります。当事者とも言えます。
  
 それが自覚的につかれた嘘か単なる間違いかはともかく、問題が有ると感じた嘘を嘘であると(他人にも伝わる形で)指摘する行為は(特に言論の自由を認められた社会では)嘘をつかれる存在の集団生活における行動としては合理性が有ると考えられます。
  
 「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」のでいわゆる”「ニセ科学」批判”というのはその中の一部で科学に知識や関心、利害があり科学周辺の科学を利用した嘘を嘘として認識できる人たちの合理的な行為だと言えるでしょう。
  
〔以下補足〕
 ※これは「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」という”批判者”の「指摘する」行為についてのみ述べた物で「指摘の内容や方法が適正なのか」「嘘をつく側の嘘をつく理由」「嘘をつかれる側が騙されるか騙されないか、嘘だとの指摘を受け入れるか受け入れないか」は別の話だと言う立場です。
(”批判”批判者が「指摘の内容や方法(動機や態度も含む)」を「指摘する行為」の正当性と絡める批判をすれば筋違いと言えます)
   
 ※いうまでも無く「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」自体は指摘内容や方法の正しさを保証するものではなく指摘自体の嘘を指摘する行為も有ります。嘘だと指摘された側が反論・黙殺する行為を否定する物では有りません。「嘘をつかれる側」が同時に「嘘をつく側」でも有る事には矛盾は無いはずです。
  
 ※「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為」は表面化するような大きな物や単純な物だけでは無く、問題の深刻さが量れない嘘も多くその嘘から受けるリスクや支払うコストもそれぞれ違う以上「問題が有ると感じた嘘」と考えた(又は判った)個人の判断(経験や思想信条も含む)に基づく主体性と、基本的には指摘者自身の責任で行われるしかないでしょう。実害が有るとされる場合はそれを根拠に出来ます。
  
 ※指摘の手段は嘘をつく側の姿勢や実害の程度によって、口頭での注意から批判、非難、法的手段まで段階は有るでしょう、それは「指摘の内容や方法が適正なのか」に入ります。
  
 ※創作物や手品は「嘘であると認識されている(はずの)嘘」です、認識されていない場合は嘘だと指摘しても問題ないでしょう。
  
 ※信用に価値が有るとされる集団や関係においては「嘘をついた」と指摘されることが信用を減ずるというペナルティを科されたといえる場合も有ります。指摘は批判や非難でも有ります。
  
 ※指摘が個人又は集団に受け入れられるかどうかは指摘者の信用、内容の正否、指摘の方法と最終的には受け手側の規範に対する認識や利害、理解力等の複合した要因で決まるはずです。
(指摘者が規範に基づいて指摘を行うのは信用・正否・方法を証明するためにも重要で、受け入れられる為には大切な条件でしょう)
  
 ※大量の説明が必要になる場合も有る規範も法も善悪も「抜き」(否定では無く)で理解してみました。社会規範や法や道徳も「外付け」できるはずです。