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リテラシーと理解について考える

新・とんかつの誕生 

日本洋食の歴史を描いた著作に「とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ) 岡田哲 2000/3」が有ります。

とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ)

とんかつの誕生―明治洋食事始め (講談社選書メチエ)

 現在では「明治洋食事始め――とんかつの誕生 (講談社学術文庫)http://www.amazon.co.jp/dp/4062921235」のタイトルで文庫化されています。
   
 ネットや薀蓄本、テレビ番組でもこの本の記載を基に「とんかつの歴史」を紹介される事も多くいわば「通説」といえるものでしょうか。
 その「通説」をまとめるとこちらのようになります。

●明治5年仮名垣魯文訳の「西洋料理通」の「ホールクコツトレツ」はフライ物では無く、豚あばら肉のソテーだった。
●シャロー・ファット・フライング(それほど多くない油で片面ずつ炒め焼き又は揚げる)のビーフカツレツ、ヴィールカツレツ(仔牛)、チキンカツレツは有ったが明治前期の日本では肉や乳製品を使う西洋料理は受け容れられなかった。
明治28年創業の東京銀座「煉瓦亭」が明治32年に薄くたたいた豚肉に小麦粉・卵、パン粉をつけ、ディープ・ファット・フライング(多くの油で泳がせ揚げ)するたとんかつの前身「ポークカツレツ」を初めて売り出し、日露戦争で人手不足になった明治37年に同店で温野菜ではなく独自に考案した調理法・生キャベツの千切りを添えるようになった。その頃ウスターソースと組み合わさった。(「とんかつの誕生」では「煉瓦亭」が明治28年に創業しその年に「ポークカツレツ」を売り出し、生千切りキャベツも添えたと書いている)
 「煉瓦亭」元祖説です。
大正7年にカツカレー、大正10年にかつ丼が誕生した(大正2年ソースかつ丼誕生説もある)。
昭和4年東京上野御徒町「ぽんち軒」(ポンチ軒)で厚みのある肉の「とんかつ」を作り出した(他にも同時期に「王ろじ」「楽天」等の「とんかつ」命名説もある)。
昭和7年「とんかつ」が大ブームになり肉食解禁から約60年、日本に肉食が定着した。

 基本的に「とんかつの誕生」の通説を引き継いだ記事は「食の源流探訪 揚げ物ではなかった「とんかつ」誕生秘話  澁川祐子 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/10686」「とんかつの歴史を考える http://www2a.biglobe.ne.jp/~hmikami/tonkatu/history.htm」「うどめし トンカツの歴史 http://packethop.com/%e3%83%88%e3%83%b3%e3%82%ab%e3%83%84%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2」「日清オイリオ 神奈川県(横浜市) キャベツ/発見!ご当地「油」紀行 http://www.nisshin-oillio.com/report/kikou/vol8.shtml」等もあります。
  
 この本からhietaroさんが記事「とんかつを巡る2つほどの疑問 http://hietaro.kameo.jp/2015/07/post-976/」で幾つかの疑問をあげられ、そちらにコメントを入れました。そこでのやり取りからの続きです。
        
 この本は2000年初頭に出されたもので当時としては意義が有ったといえるでしょうが、新たな知見も有り、情報そのものを修正すべき点もあるといえます。
 そのうえ「料理本のソムリエ 内視鏡検査の〆はトンカツで」http://www.shibatashoten.co.jp/dayori/2011/10/13_1141.htmlによると

トンカツの誕生に関する論考は富田仁氏の『舶来事物起源事典』にゲタを預けております。

 『舶来事物起原事典』は小菅洋子氏〈ママ、小菅桂子氏が正しい。摂津国人付記〉の『にっぽん洋食物語』を参考にしており、トンカツの起源の項目はこの本が典拠であることがわかります。そんでもって『にっぽん洋食物語』はというと1970年刊の『事物起源辞典』(まぎらわしいですね)を参考にしており、ここにはかつ丼とポンチ軒の話はでてくるのですが、煉瓦亭は登場しておりません。

とあり、より古い情報に基づくもののようです。
       
 この記事では上記「料理本のソムリエ」でも続きの記事「「西洋料理通」を読む http://www.shibatashoten.co.jp/dayori/2011/10/26_1053.html」「キャベツとソースはなぜデフォなの? http://www.shibatashoten.co.jp/dayori/2011/11/10_1100.html」やhietaroさんの記事にもあった「とんかつのつけ合わせにキャベツの千切りがついたのはいつからか」「とんかつができた当初から、ソースはどう変遷したか」と「”とんかつ”名称の 初出」「明治洋食露店屋台」の情報の補足、そして「とんかつ誕生の再検討」をしてみましょう。
   
 「とんかつの誕生」では日本での「カツレツ」の初出を「西洋料理通 明治5年」の「第六十一等 ホールクコツトレツ」という現在の所謂「カツレツ」と異なったものとしますが「料理本のソムリエ 西洋料理通を読む」では同じ本にある「第五十二等 コツトンツ、コールドモツトン」がより「カツレツ」に近いものとします(「コツトンツ」を「コツトレツ」の誤字では無いかとみているようです)。
    
 それらを踏まえ書いたhietaroさんの記事へのコメントです。

 カタカナ表記ですが「トンカツ」用例の初出は此方、永井荷風の「銀座 明治四十四年七月http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49640_38957.html」の「ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツのおくび(「口+愛」)をかぎたいといった。露店で食う豚の肉の油揚げは、既に西洋趣味を脱却して、しかも従来の天麩羅と抵触する事なく、更に別種の新しきものになり得ているからだ。カステラや鴨南蛮かもなんばんが長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然たる日本的のものになったと同一の実例であろう。」があり、あと高村光太郎の詩「夏の夜の食欲 大正元年」に「癌腫の膿汁をかけたトンカツのにほひ」とあります。
 明治末にはてんぷらと比較される豚の肉の油揚げが既にトンカツと呼ばれていたと考えてよいでしょう。一応岡本かの子の文はそのままで読めます。
明治36年村井弦斎「食道楽」の「第四十二 カツレツ」等では鶏や仔牛ですがパン粉をつけて揚げる物を「カツレツ」としています。付け合わせは温野菜で生千切りキャベツは見当たりません。コロッケの類は多くあります。
    
 その露店については「夜食の文化誌 青弓社」のP82に「文藝界 夜の東京 臨時増刊号(明治35年)」の露店の一つの業態として「西洋料理店」があり、その記事の内容が注としてP105に「是は近頃露店の仲間入りをしたハイカラ露店である」「フライも出来れば、ビフステキも出来る、ヲムレツも出来る、シチウも出来ればライスカレーも出来る、お負けにソースまで添えてあろうといふのであるから兎に角整ったものと謂わなければならぬ」とあります。断言できませんが露店の簡便洋食ですからブラウンソースやデミグラスソース等以外に簡易な出来あいウスターソースの可能性もあり「掛けてある」ではなく「ソースまで添えてあ」るという表記もそれを意味しているようにも読めます。
     
 逆に初期の国産ウスターソースが洋食の焼き物と揚げ物に掛ける以外に何の利用法があったのだろうか、ともいえます。
 明治30年代にはウスターソースが簡便洋食を通じて広まりそれとともに日本大衆「洋食」が成立したという仮説も考えられます。「東京ソース、ウスターソースの歴史http://www.tokyo-sauce.com/this2.html」。早い段階からウスターとその他のソースが並行して用いられていたのかもしれません。
         
 そして一銭洋食や洋食焼きのどこが「洋食」なのかといえば「ウスターソース」を使うという点だといえるのも傍証だと考えます。昭和初期の阪急百貨店のソーライスもその流れでしょうか、その頃には既に洋食の味としてある程度一般化していたのでしょう。明治後期以降のソースメーカーの隆盛はそれを背景にしたものだと考えます。
 露店や屋台の簡便洋食と日本のウスターソースとの関連は興味深いでしょう。関西と関東にも違いが有るのかもしれません。
     
 ご存知の事も多いでしょうがついでにいろいろ。(この節、括弧内は摂津国人による)
 「日本の食文化史年表 江原絢子 東四柳祥子 吉川弘文館」によると明治18年ヤマサ醤油が日本初のミカドソースを発売するが売れず翌年中止、明治22年に茨城の醤油業者関口八兵衛がハトソヲ―ス(ママ、検索では鳩ソースで見つかる)を発売、明治25年に神戸で阪神ソース(ママ、18年説が有ります)が発売、27年に大阪の越後屋の三ツ矢ソース、29年に同じく大阪・阿波座の山城屋が錨印ソース、30年に東京伊藤胡蝶園が矢車ソース、31年に醤油業者大会でソース作りが話し合われ各地で生産が始まる。同年に大阪の野村屋が白玉ソース(野村食品製造所との表記もある)、33年に神戸日の出ソース、36年にカゴメがトマトソース(ピューレ)を作りはじめ39年に本格生産41年にトマトケチャップとソースを発売、38年ブルドックソース(犬印)。(記録のないソースメーカーも有るのかもしれない)
 大正11年頃には「ライスカレー、コロッケ、トンカツ」が大正三大洋食と呼ばれ、在東京歩兵連隊で「フライ、カツレツ、コロッケ、焼肉焼肴、オムレツ、口取の順で人気をえる」とあり大正14年に中島薫商店(キユーピー)でマヨネーズが発売、同年大阪衛生試験所でハクサイ、ホウレンソウ、ネギ、ミツバに回虫卵が多いと判明、昭和29年にカゴメトンカツソース発売とあります。
     
 あと洋食では「明治西洋料理起源 前坊洋 岩波書店」によると陸軍明治19年7月の献立に「カツレツ」が有り(P52)、明治18〜19年の「時事新報」の「松の家」の献立に「チキンカツレツ」と「ビールカツレツ(ママ)」(P90〜95)がありますがこれらの調理法が揚げ物かはわかりません。ただ「魚フライ」も有るので洋風揚げ物自体はこの時点で有ったと考えられます。
 「料理本のソムリエ」にもありましたが「ポークカトレット」は調理法はわかりませんが同書P97の明治23年5月4日の観光ガイド「時事新報 東京案内」が今のところ初出です。豚のカツレツは少なくともそれ以前から有ったという事でしょうか。煉瓦亭より早いですがどうでしょう。
            
 「料理本のソムリエhttp://www.shibatashoten.co.jp/dayori/2013/12/06_1345.html」に「木村毅の昭和14(1939)年刊行の随筆集『南京豆の袋』に収録された「トマトが初めて村へ来た頃」」の内容として「明治四十三年に上京したが、あの頃は洋食をたべに行つても、カツレツやビフテキにつくのが、キャベツの刻んだのだつた。」とあります。勿論30年前の記憶が正しいかはわかりませんが。
 キャベツの千切りの一般化も明治にまで遡れるかもしれません。池波正太郎が生まれる前から生キャベツの千切りが普通だったのでしょう。

永井荷風の「銀座」と高村光太郎の詩についてはWikipediaに書かれていたものです。

 その後見つけた情報です。
  
 洋食露店屋台については「明治大阪物売図彙 (上方文庫)和泉書院1998 菊池真一」P21に大阪朝日新聞明治32年10月7日(三谷)貞広画として「辻洋食」という露店屋台が描かれ大阪でも東京とほぼ同時期、明治30年代前半には洋食露店屋台があった事が読み取れます。
 他にも「明治物売図聚 立風書房1991 三谷一馬」P137に明治36年「太平洋」よりとして「一品洋食売り」のイラストが描かれとんかつやソースについては触れられませんが営業内容も書かかれています。
 他の資料などからしても明治の日本は現在の東南アジアなどと同じく、多くの露店屋台が庶民の需要を満たす状況が有ったというのは間違いありません。現代の様な整然とした商店の在り方は比較的新しい文化です。
 ガスや電気を用いた調理器具や冷蔵庫や便利なインスタント食品のあまりない時代、家での調理より露店屋台食の役割は今より大きかったといえるでしょう。
   
 国立国会図書館デジタルコレクションによると
「軽便西洋料理法指南 : 実地応用 一名・西洋料理早学び 著者マダーム・ブラン 述[他] 出版者久野木信善出版 明21.11」のP8にhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849016/11?viewMode=「豕肉(ぶた)カツレツ」としてロース肉をたたいて伸ばし、メリケン粉・卵黄・パン粉をつけて当時のビーフカツレツと同じくシャローフライすると書かれています。
 「煉瓦亭」や「時事新報 東京案内」より古く、現在のところ「豚肉カツレツ」の初出です。

 「トンカツ」の初出、永井荷風の「銀座」こと「銀座界隈」「紅茶の後 永井荷風 籾山書店 明44.11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889041/95?viewMode=」も。
    
「舶来穀菜要覧 竹中卓郎 編 大日本農会三田育種場 明18.2」のP42の「甘藍」に http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/839606/28?viewMode=「外部の硬葉を去り中心の葉球を細かに刻み熟醋、鹽及び胡椒を加えて用い叉醋を澆ぎ胡椒を振り掛けて生食すべし」とか書かれ、その次に別にザワークラウトが書かれているので、今のところこれが生キャベツの千切りの初出です。
 「煉瓦亭」以前にも生キャベツの千切りが有ったとみてよいでしょう。
   
 「とんかつの誕生」にあるパン粉衣のディープフライの初出とされる「西洋料理二百種 松田秋浦 (政一郎) 青木嵩山堂 明37.11、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849075/56?viewMode=」ここでは明らかにディープフライとシャローフライの両方が存在していることを示し、ディープフライを天ぷらにたとえます。
 「家庭和洋料理法 奥村繁次郎 大学館 明38.10 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849006/48?viewMode=」の「フライの揚げ方」もディープフライ。

 ですが魚であれば「割烹受業日誌. 第2輯 高知県尋常中学校女子部 田所富世等 明25,26 はらかた(鰯の仲間ママカリ)ふらひ(フライ)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754/12?viewMode=」が小麦粉卵ふらひ粉(パン粉か)をつけたディープフライに読める書き方も。
 「簡易料理 民友社 明28.3」の「フライとカツレツ」でも「日本料理に於ける天麩羅なり」とし http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849010/48?viewMode= メリケン粉卵黄パン粉をつけ「豚脂又は牛脂の鍋中にて脂揚げとなす」としているのでこれもディープフライにも読めます。
   
 「西洋料理法と献立 赤坂女子講習会 編 相隣社 明41.6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849087/51?viewMode=」に「一四九 ウィスター、ソース(簡便)」とあり、そこで酢と醤油で作る自家製簡便ウスターソースの製法とともに「此ソースはホンの間に合わせのもので、矢張り罎詰を求めた方が結構です。」と書かれ、すでにある程度ウスターソースが普及し、このころにはデミグラスソースやトマトソースと比べて「出来合いの手抜き」と見ず、洋食に必要な独自の「たれ」としているように読めます。
 ウスターソースが当時の料理書であまり見られない理由としては、基本的に家庭に常備されない、外食で食べる洋食用だと考えられていたのかもしれません。

 「東京苦学成功案内 酒巻源太郎 帝国少年会 明42.9」の「屋臺の夜商賣 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813506/20?viewMode=」にも屋台の「一品洋食屋」が有ります。
       
 他にも神戸大学附属図書館 新聞記事文庫 「時事新報 1925.6.5(大正14) 雨に祟られて失敗に終る http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentView.jsp?METAID=00104782&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1」の東京・日本橋の交通調査の記事で「ズラリと並んだ屋台店約四十、トンカツ五銭××軒」とあり、トンカツ屋台が複数存在した事がわかります。
 「神戸又新日報 1930.11.19(昭和5)」の「洋食一皿六銭也正に大衆向の食堂 一九三一年のトップを切って生れ出るチェーン・ストアー食堂 自動車に積んで御馳走を運ぶ http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentView.jsp?METAID=10056449&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1」という記事ではセンターキッチン方式の「ファミリ―レストラン」の嚆矢といえる神戸の「百一番食堂」で「テキやカツを出」すと書かれています。

 これらの他に資料が有った場合にはこの記事に追記として書き込む予定です。

【追記】「浅草底流記 添田唖蝉坊 近代生活社 1930.10 お座敷天ぷらは屋臺の眞似だ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916565/78?viewMode=」に「傳法院横、玉木座前のフライ屋。ジューッ/\(繰り返し符号)と油の音をさせて串フライを揚げてゐる。今はすっかり減って、古着屋、古靴屋、古本屋などの間に挟まって二三軒しか残ってゐないけれども一頃はあの消防の處からバウリスタの前角まで悉く此の串フライ屋で、其処を通るとずっと並んでジュージューと競争している圖は實に異観だった。」「肉の小片を葱と交互に挿した、串の揚げたての奴をソースにひたしてかぶりつく。」とあり、この文は昭和5年ですが、昭和4年創業の大阪「串カツだるま」以前の浅草に現在の串カツとあまり変わらない「串フライ」があったと考えられます。
   
 「トンカツ」名称は明治末にあったといって良いでしょうが料理書では見つかりません。おそらくスラングとされていて正式名称とは扱われず、公的な場所では使われないという理由でしょう。
   
 話は少し変わりますが、こういった食に関する情報には大きく分けると二つのタイプがあると考えます。
 「薀蓄型」と「研究型」です。
 
 「薀蓄型」はどなたかが発した情報をそれ程細かく吟味せずに再発信し、読み手を楽しませるもので、「研究型」は懐疑的に検証しある程度確認したものを再発信するという立場でしょう。
 多くの「薀蓄型」はいわゆる「ライター」と呼ばれる人などが単数又は複数の資料を基本的に正しいとして、そこから情報を抽出し書かれることになります。「研究型」は何らかの情報を一つ一つ裏どりし、自分でも最初から資料を調べるというスタンスを取ります。
 もちろんこれは明快に分かれるものでは無く、「薀蓄型」でも根拠に基づき独自の新情報を補足したり、丁寧な検証が行われることも有ります。「研究型」でも安易な情報の扱いがある場合も有ります。
    
 食べもの関係の情報も、ただどこかから引いただけのものもちゃんと調べてあるものも有り、いわば「玉石混淆」といえます。たとえばマンガでも「あの本のままだなあ」と感じることも有ります。
 食についての「薀蓄話」は娯楽的な雑談や読み物とされる事が多く、一般的にそれ程内容を吟味せず、「感覚的」に語られるのが普通でしょう。
     
 「とんかつの誕生」の著者岡田哲氏は元々技術者で、専門の小麦等の技術的な知見や分析では充分な検証をされますが、食物史や食文化論については「薀蓄型」であまり検証せず、情報を並べる「思想(他の本で意図的だと書いていた)」があります。「料理本のソムリエ 」にありますがこの本でも富田仁氏の「舶来事物起源事典 1987」を基にあまり検証した様子もなく書かれています。
 この本も優れた知見と安易な引き写しや憶測の混在する発売当時はともかく現在では評価の難しい本です。
      
 それともう一つ、飲食店の「証言」の問題も有ります。
 飲食店の歴史や伝統といったものの証言は残念ながらあまり正確でない場合が少なくありません。
 古い話だと記憶違い、勘違い、思い違い、思い込みが基本的に有り、特に口頭で伝える場合は正確に伝わらないことも多く、それに大前提としてサービス業なので相手の反応で「話を盛る」という事もしがちです。普通、都合の良い誤解を修正することもありません。
    
 多くの料理やレシピ等で「元祖」や「発明者」が複数いて、何が正しいのかわからないことも少なくは有りません。解釈によってもいろいろ異なります。
 本人でさえあやふやなのですから後代の人の口承や同時代ではない記録は基本的に懐疑的に扱うべきものです。
 その上、インタビュアーやライターの人が話を膨らませることも有り、孫引き情報は注意すべきです。先行記事で「推測」や「仮説」だと断って書かれた見解が、後の文章では「事実」として書かれる事も見かけます。
        
 「煉瓦亭」も記事によってはとんかつの誕生についての役割が異なることも有り、典拠も示されず、書き手の推測で話が膨らんでいるように見えるものもあります。元ネタは創業70数年後に書かれた資料にあるとされます。
 おそらく「煉瓦亭」は日本洋食のとんかつの成立に関係し、普及に大きな役割が有ったといえます、揚げ方の工夫をしたのか生キャベツの千切りとの組み合わせを完成させたのかもしれません。(もちろん、「ポークカツレツ」や生キャベツの千切りを誰か他人から教わったわけではなく別箇に独自開発した可能性は否定出来ません)

 嘘だという事ではなくこういった情報の混乱は普通に有るものです。歴史学を学んだ方には常識でしょう。
 「オーラルヒストリー」をそのまま信じてしまうというのは本来は学問的には正しいとは言いにくいでしょう。
    
 これはラーメンの浅草「来々軒(明治43年創業)」も同じで、横浜や東京で食べられていた既存の「支那そば」の普及に大きな役割を示したというのが確からしい事実なのにもかかわらず、大正期までのレシピについても根拠もないまま「ラーメンの創始者」だとか「ラーメンの原点」「東京ラーメンの元祖」だとか大袈裟な役割を与えられていくのと似ています。
    
 新発見かもしれませんが「浅草経済学 石角春之助 文人社 昭和8」「第二 浅草に於ける支那料理の変遷 (一)浅草に於ける支那料理の由来 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949/150?viewMode=」によると浅草では明治41年頃、千束町「中華楼」という「支那ソバ屋としての組織」がありこれが「浅草での元祖 」だとしています。「これまでの支那料理店とは異なり、支那ソバ、ワンタン、シューマイを看板とするそば屋であったのだ」「シューマイ一銭、ワンタン六銭、支那ソバ六銭」とし業態も後の「来々軒」と同じで(来々軒は次のページに記載有り)、時系列について相当具体的に書いています。これが正しいとすれば「来々軒」を「ラーメンの元祖」「最初のラーメン店舗・専門店」とする通説は書き換えられるかもしれません*1 *2。(おそらく「中華楼」もラーメンの「元祖」ではないと思いますが)(大正7年に「来々軒」を元祖とする観光案内もある「三府及近郊名所名物案内 日本名所案内社 大正7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906086/128?viewMode=」)
        
 「元祖」や「本家」の存在は消費者の求める「物語」であるという側面もあります。「神話」はこうして創られるのでしょう。
    
 ここまでで確認できた新しい「とんかつの誕生」を纏めてみましょう。
 
●江戸末期に長崎や横浜・江戸に出現した西洋料理が明治4、5年頃から20年頃にかけて全国に広まった。
●江戸末期横浜で始まったキャベツ生産が明治初頭には北海道開拓使を通じ北日本から広まり、基本的には煮物や漬物で利用されたが明治10年代末には生千切りキャベツは存在した。
●叩きのばした肉に小麦粉、卵、パン粉をまぶし少ない油で片面ずつ炒め揚げた「カツレツ」が明治10年代にはあり、明治20年前後には豚肉のカツレツも存在した。
ウスターソース明治18年には国産化されたが時期尚早で広まらず、明治20年代になって受容され、30年代には少なくとも東京や大阪の都市圏では一般化していた。ウスターソースは「洋食」の焼き物や揚げ物の「たれ」として広まった可能性がある。
明治10年代まではコース料理が多く高級料理であった西洋料理屋で20年代には大衆的な一品料理が増え、30年代には露店屋台でも食べられるようになり「洋食」化していった。(参考:明治西洋料理起源 前坊洋 岩波書店)
明治30年代後半には生千切りキャベツを添える「ポークカツレツ」が成立していた。この頃には多量の油で揚げるディープフライも一般化していた。
明治40年初頭には東京で「ポークカツレツ」が「トンカツ」と呼ばれ定着した。後に「カツカレー」や「かつ丼」「串カツ」にみられるカツレツの略称「カツ」やポークを「トン」とする用例はあった。同じ頃にはウスターソースがある程度受け容れられ、「洋食」の重要な構成要素の一つとされて「一銭洋食」や「洋食焼き」に繋がったと考えられる。同時期には「洋食」に生キャベツの千切りが付くのが珍しくはなかった。
 この時期には米のご飯とも合う、日本「洋食」が基本的に成立したともいえるかもしれない。
●大正時代には全国でトンカツ・コロッケ・ビーフステーキ・カレーライスなどの「洋食」が広まった。
●昭和初期には肉を叩きのばさない「とんかつ」が人気を博したらしい。
    
 私見ではありますが「とんかつソース」は昭和前期頃に個人または店舗で、ケチャップ+マヨネーズの「オーロラソース」と同じくウスターソース+トマトケチャップ等をブレンドしたとんかつ用「オリジナルソース」から開発されたものだと考えます。「中濃ソース」も同じくウスターソースに粘性と甘みを加え、「ご飯」に合いやすくしたものではないでしょうか。(hietaroさんによると「今普通に使われている粘度の高い「とんかつソース」は1948(昭和23)年、道満調味料研究所(現オリバーソース)が開発したもので、とんかつ誕生の時には存在しない」もので昭和29年にカゴメも「とんかつソース」を発売した)(【追記】オタフクソースが濃度のある「お好み焼きソース」を発売したのは昭和27年の事とされる)
【追記】「とんかつソース」の源流の一つかもしれない「トマトウースターソース」「農産加工 信濃教育会 信濃毎日新聞社 昭和11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094957/11?viewMode=」。
   
 「通説」と言える食の薀蓄でも確認せずに広めれば結果的に間違いを広める可能性もあります。
 こういったほぼ「実害」のない情報だけではなく、健康や風評などで何らかの「被害」をおこす可能性のある薀蓄もあるので、個人的には情報を広める際には気をつけたいと考えています。
 食については特に根拠を示さずとも「実感」に基づき誰でも容易に語りえる、という認識があるのかもしれません。
   
【関連】
>日本肉食史覚書
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334
>戦前のお好み焼
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20160314/1457940308  
>「ラーメンと愛国」速水健朗(ネタばれあり、辛口)読書感想文
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120312/1331478334

*1:【追記】「「夜食の文化誌 青弓社」の123Pに「1910年」「同じ年の千束町ではすでに「支那料理屋」が十軒以上並び、中華料理の匂いが町中に満ちていたという。」と「春陽堂 新小説 第十七巻第四号 1910 100〜101P」に書かれているとします。「浅草経済学」との整合性があるといえ、傍証といえると考えます。

*2:【追記】浅草中華以前の横濱居留地南京町中華料理は「社会百方面 乾坤一布衣(松原岩五郎) 民友社 明30.5(1897)」「居留地風俗記 27年初夏(1894)」の章の「飲食店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798562/14?viewMode=」で「𩙿包(飽)餅 はうぺい」(包餅、春餅。薄焼きパン・クレープの様なもの)、「油團 ゆだん」(おそらく甘い餡の入った揚げ団子)、「わんだん」「ちゃぶちい」「豚蕎麦」「豚饅頭」(いわゆる「豚まん、肉まん」以外に焼売の可能性もある)について書かれ、原ラーメンの豚蕎麦とチャプスイなどが明治中期の居留地横浜の南京町にすでにあったといえます。