はてなビックリマーク

リテラシーと理解について考える

読書メモ抜粋その6

はてなブックマーク」に書いている「100字読書メモ」の一部、現在300冊強の簡易紹介です。
 飲食、酒造、歴史、刃物、銃刀、軍事等。
 最新>http://b.hatena.ne.jp/settu-jp/?url=http://www.amazon.co.jp/

チーズ・その伝統と背景

チーズ・その伝統と背景

日本のチーズを牽引した雪印の元技術者が退職後自費独力で欧州各地の伝統製法を収集したライフワーク。科学的な分析と伝統への敬意、透徹した視点と情熱、現場主義と資料・技術の検証。感銘を受けた。現在高価古書 2013/12/22

チーズと文明

チーズと文明

伝統技術も詳しい米国のチーズ科学者のチーズ発展史と西洋文明史。オリエントからギリシャローマ西欧州米国に続く技術生産流通の変容と社会。個別史では無く大きな流れを描く大著。原産地名称保護の現状も。最新研究 2013/12/29

日本の食と酒―中世末の発酵技術を中心に

日本の食と酒―中世末の発酵技術を中心に

農学者による食事・醗酵食酒造史。公家一門寺社の日記等文献を主とし先進地近畿を軸に近世へと繋がる飲食文化と技術食材を探る。火入れ、大豆。堅実な調査と科学的合理的解釈、食物史の基礎的研究。学術文庫化される 2014/01/05

 文庫 https://www.amazon.co.jp/dp/4062922169

江戸の酒―その技術・経済・文化 (朝日選書)

江戸の酒―その技術・経済・文化 (朝日選書)

農学者(発酵醸造学)の近世清酒史。文献を基に畿内での技術・生産の進歩と東北・関東への技術の伝播、政策と事業化の問題。Titsinghら西欧人からの国際的な位置づけも検討。史料批判も丁寧 2014/01/12

酒造りの歴史

酒造りの歴史

題名とは多少異なり基本的に近世から明治までの上方・摂泉十二郷・灘の酒造の生産経済社会史。父(重三)子二代に渡る資料収集と研究。関学学長も務めた史家による詳細な経営製造流通海運制度組織等の古典的論文 2014/01/19

パンの文化史 (朝日選書 (592))

パンの文化史 (朝日選書 (592))

古代から前近代までのパンの歴史と文化を現地資料とフィールドワークから描き出す。分類技術民俗表象等。発酵の有無加熱法形状窯。世界的な視点。図版写真多数。エピソードも興味深い。学術文庫化された 2014/01/26

 文庫 https://www.amazon.co.jp/dp/4062922118

酒は諸白―日本酒を生んだ技術と文化 (平凡社・自然叢書)

酒は諸白―日本酒を生んだ技術と文化 (平凡社・自然叢書)

国税庁技官から酒造会社に転じた研究者の清酒「諸白」史。中世奈良寺院の技術革新、京から近世に伊丹池田に伝わり「下り酒」として大産業となり灘で完成した清酒。史料に基づく詳細な文化技術制度経営史。古典 2014/02/09

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)

銃器の発展の画期といえる金属薬莢、必然的に創り出された機関銃という進歩が戦争の形そのものを変えた。イノベーションに追いつかない「専門家の認識」と悲惨な戦場。機械化される戦争と文化社会制度。古典的名著 2014/02/16

18世紀後半仏国で試みられた銃部品の互換性。新興米国で実現し、そこから広がる「標準化」。近代大量生産を可能とした技術。ネジ、紙形、安全基準、コンテナ等の標準化と思想と背景。大変面白いが詰めの甘い部分も 2014/02/23

飲食業専門出版社による最新ラーメン事情。進歩した技術・経営を具体的に詳説。最先端の創作麺も多く紹介、美味しいかは別にして大変刺激的。複合経営。サイドメニュー。関西の店も多数掲載。業界の進化を仕掛ける本 2014/03/02

日本の酒蔵

日本の酒蔵

建築学者が昭55(当時全国で2700蔵位)〜平11にかけて368の酒蔵建築・設備を調査した労作。江戸後期から昭和前期にかけての近代工場化以前の建築思想・地域性や経営・生産技術の変化をも炙り出す重要資料。図版多数 2014/03/09

中世のパン (白水Uブックス)

中世のパン (白水Uブックス)

題名は大仰で基本的に中世後期頃のフランス都市部でのパン。素材製法、職能団体、生産体制、管理統制、流通等。「主食」として扱われ政治・社会的に意味を持つ糧を多くの史料から示し中世社会の一面を描く。専門的 2014/03/16

大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新

大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新

中世には弱小の「辺境」だった欧州が大砲の改良と運用、外洋船ガレオンとの組み合わせで海の覇者となり世界を支配する歴史。戦乱と市場競争の中で生まれた「戦争文明」。西アジア中国の停滞の事情も。資料多数。古典 2014/03/23

一汁三菜の正体

 「日本の食事の基本」とされる「一汁三菜」。
 たとえば日本うま味調味料協会では「昔ながらの日本型の食事は、一汁三菜が基本になっています」https://www.umamikyo.gr.jp/recipe/category_01_2.htmlとかかれています。
 他にも「伝統的な食事」「家庭料理の基本」などともいわれることもあり、「昔から続く正しい家庭料理の基本」とも理解されているようです。 
 ご飯と味噌汁、おかず(菜)が三品で漬物が別につくという食事のパターンです。料理書などでも「和食の基本」として扱われることも多くあります。
     
 一汁三菜の歴史と実像を述べてみましょう。
    
 平安時代の貴族の宴会では大饗という数多くの料理を大きなテーブルに並べる中国式の配膳が行われていたことが知られます。
    
 その後室町時代には武士の儀式や供応の料理として銘々膳を用いる本膳料理又は式正(しきしょう)料理が成立します。
 平安末から鎌倉時代初めに書かれた「病草紙 歯の揺らぐ男」で下級官僚らしき人物と脚のない膳又はお盆の「折敷」にご飯と汁とおかずをのせた銘々膳の原型らしきものが描かれ、本膳がその辺りから発展したとも考えられます。
 ひとりひとり個々の「膳」でご飯、汁、菜(おかず)、漬物を食べるスタイルはすでにこのころにはあったといえます。

 本膳料理は複数の足の付いた「膳」に多数の料理を並べ客をもてなす形式です。最初「式三献」という乾杯が行われてから食事がはじまります。
 客の地位が高くなれば多くの膳が並べられ「日本教会史」などによると七膳八汁二三菜又は二四菜や二七菜なども出されていました。しかしこのころの膳の形式としては「四條流包丁書」「包丁聞書」「大草流料理書」などを見ても本膳の一の膳が一汁三菜と定まっていることもなく奇数だけではなく一汁一菜から二菜、四菜、五菜、七菜や湯漬けの場合などもあります。

 当時の日記などを見ると上流階級では数自体は固定的ではないものの複数の汁と菜の膳が出される本膳形式といえるものは広く行われていたようです。
 七五三膳と呼ばれる多くの汁菜を出す本膳が正しい供応とされていたとみられます。
しかし記録の残る織田信長戦国大名などの「本膳」の「一の膳」を見ても「一汁三菜」に固定されているとはいえず、「五器盛り(一つの膳にご飯一汁三菜漬物を並べるとされる)」も標準ではありません。
      
 「一汁三菜」は茶道の料理「懐石」の献立ともされます。
 初めのころの茶道「茶の湯」は茶の飲み比べを競う「闘茶」から高級輸入品の茶器や美術品を鑑賞しながら飲む「書院茶」に移り、15世紀後期の村田珠光から「わび茶」がはじまり武内紹鴎(鴎の字の偏の区の中は「メ」ではなく「品」)を経て千利休で大成されたとします。「禅」の影響を受けています。
    
 「紹鴎門弟への法度」に「会席ハ珍客たりとも茶の湯相応に一汁三菜に過べからざる事」とあるとされますが、この「法度」が武野紹鴎によって述べられたとする根拠はよくわかりません。紹鴎や利休の名の付いた伝書は多くありますがほとんどが本人の作や発言ではないとされます。
 千利休の発言やその当時の記録にも「一汁三菜」という言葉自体は見られません。
   
 一方、武野紹鴎の師、十四屋宗悟の天文6年(1537年)の9月12日の会に一汁三菜の例はあり、天文11年(1542年)堺天王寺宗達の会、弘治元年(1555年)奈良の宋陳の茶会でも一汁三菜の例はあります。
 そして千利休の晩年の天正18年(1590年)から19年にかけての茶会の記録をまとめた「利休百会記」では87会の献立が書かれますが一汁二菜が44会、一汁三菜が32会、二汁一菜が1会、一汁四菜が2会、一汁五菜1会、二菜2会、二汁二菜3会、二汁三菜2会が行われたとされ、弟子の古田織部の茶会では基本的には一汁四菜とされ二汁はないそうです。
 利休の孫の千宗旦一汁二菜が中心で三菜もあり、17世紀中期の片桐石州は「石州一畳半の伝」で「会席一汁二菜に仕う事」とします。
 一汁三菜程度の膳を用いるわび茶そのものはありました。利休の二汁の場合は秀吉などの権力者の客や特別な茶事の際の膳のようです。
   
 ちなみにもともとは茶会のことを「会席」といい、その食事を会席の膳といい、わび茶の会席の膳は本膳の一の膳をもとにしたとされます。
 懐石という言葉の初出は「南方録」とされます。「南方録」は千利休の弟子南坊宗啓の秘伝とされましたが現在では偽書と考えられ、元禄期(1690年)立花実山によって書かれたとされます。その後のわび茶に多くの影響を与えました。
 その南方録に「小座敷の料理は 汁一つ さい二つか三つか 酒もかろくすべし」とあり、同時代の薮内竹心(薮内家は利休の弟弟子からはじまる流派)「源流茶話」にも「いにしへの貴人は二汁三汁に候へとも利休改正により富貴も一汁三菜に限り或ハ一汁二菜 侘ハ一汁一菜にて惣数なれバすき嫌ひ有たくひ忌」ともあります。
    
 紹鴎利休織部のころは一汁三菜は「一汁三菜程度(前後)の料理」とされ、16世紀中頃の千宗旦片桐石州から元禄のころには「一汁三菜までの料理」とされているようです。
   
 近世の茶道も利休織部のわび茶だけではなく大名茶などのより華やかな茶会もありそれらでは一汁三菜とはされません。17世紀の京の高級武士金森宗和や貴族日野資勝などの茶事では複数の膳がでます。わび茶でも一汁三菜だけではなく一菜、二菜の膳も残ります。わび茶では「一汁三菜」という概念はあったものの「程度」か「以下」か「未満」かは人や時代によってちがうようです。
 「懐石」と「会席」も両方使われます。「懐石」を禅の「温石(おんじゃく)」と結び付け「ふところ(懐)を温める石のような軽食」とするのは当て字とこじつけでしょう。
 わび茶では基本的に「一汁三菜」は折敷で出されます。
    
 近世江戸時代に入り安定した社会の中、武士の供応料理の本膳料理も一般化し、庶民の富裕層や宴席でも本膳の形式が取り入れられます。
 江戸時代には本州日本では正式な膳として本膳が認識されていきます(皇室や公家は本膳と多少異なる近世有職料理などが正式に膳とされた)。琉球王朝でも宮廷では本膳形式の膳です(明清の冊封使の供応は中国風料理)。
      
 そして出版も盛んになり料理書も多く出されます「古今料理集 元禄年間(〜1704)まで」では一汁五菜、二汁七菜、三汁十菜(一汁五菜は校異で二汁五菜とも)の例、「料理綱目調味抄 享保15年(1730年)」で「一汁三菜」という単語が「茶事の饗応」として具体的に書かれます、他にも「平人振舞」一汁五菜、「普通の饗応」二汁五菜の膳がありここでも「貴人奉饗」三汁十菜の偶数の菜の例もあります。

 「歌仙の組糸 寛延元年(1748年)」では二汁五菜と二汁七菜と三汁十菜が書かれ「献立せん(草かんむりに全)宝暦10年(1760年)」二汁五菜を「献立大法」とし「一汁三菜」を「茶の会席夜食等の只侘たる献立」とします。
 他にも「萬寶料理献立集 天明5年(1785年)」では「一汁三菜」があり他に一汁五菜、一汁七菜、二汁七菜と三汁七菜御膳大献立、「當流料理献立抄 刊年不明」では二汁五菜を「通例」としながら「一汁三菜」と一汁二菜と三汁十菜もあります。

 「料理早指南 享和元年〜文政5年(1800年〜1822年)」の図では「会席」では一汁四菜、「本膳」では二汁七菜とし、「素人包丁 享和3年〜文政3年(1803年〜1800年)」では一汁五菜と二汁七菜と三汁十菜もあります。
 「精進献立集 文政7年(1824年)」一汁三菜と一汁五菜、二汁五菜或いは七菜九菜もあり漬物を菜に加えたり別に「○汁香物○菜」としたりもします、寺院用ではない民間の精進料理の膳ですが膳のあと肴と菓子が付きます。「魚類精進早見献立集 天保5年(1834年)」にも一汁三菜、一汁五菜、三汁十一菜の膳の例がありこれは吸い物と菓子は別につきます。

 江戸・八百善主人の「料理通 文政5年〜天保6年刊 (1822年〜1835年)」では「茶会席の料理心得え事 会席は二菜三菜に限り」とあります。「料理調菜四季献立集 天保7年(1836年)」は二汁七菜と一汁五菜。「精進魚類四季献立會席料理秘嚢抄 文久3年(1863年)」では「茶事の会席」として「一汁三菜」と取肴か強肴と吸い物。本膳は徐々に偶数の菜の例はなくなり奇数が正式の膳とされます。現在では偶数の菜はないとされますが近世後期以降に定まったといえるでしょう。
 江戸後期の茶事の「一汁三菜」などの膳の後の吸い物や肴の時点では酒が出されます。千家流のわび茶では一汁二菜が基本だったようです。

 一般化、教養化される中で形式が整えられていくようです。
 茶事の会席の一つ「一汁三菜」が本膳や精進の膳に影響を与え通常は二汁五菜乃至は七菜の膳の略式として認識されて行っているといえるでしょうか。
 室町時代の五汁や六汁、二十数菜などといった大仰な膳に比べ簡略化されていたようです、これを「本膳料理」とはわけて「袱紗(帛紗)料理」という場合もあるそうです。
     
 「一汁三菜」は18世紀前半までには確立していた「供応食」つまり「ごちそう」の最低単位だとも考えられます。
 「一の膳」だけの簡素な供応料理を意味するのでしょう。
 「一汁三菜」については「江原恵 江戸料理史・考」67ページに「寛永十七(1640)年1月」に幕府は旗本に対して「今後客に馳走するときには一汁三菜まで、酒は三杯以上飲まないこと」と「禁制を布告」したとしています。
             
 供応や儀礼での正式の膳としては最も簡素なものとしての「一汁三菜」が認識され、菜を奇数出すという約束事が18世紀以降に徐々に認識されてきたようです。
 現在では偶数の菜の膳はないとされますが比較的最近に定まったようです。
      
 奇数を「陽」、偶数を「陰」とし「陽」を良い事とするのは中国の儒教経典「四書五経」の一つ「易経」にみられる思想です。
 朝鮮王朝でも「正式」な配膳は行われ「飯床(パンサン)」といいます。「一汁三菜」は「三楪飯床(サムチョプパンサン)」と呼ばれます。「韓国観光公社http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/FO/FO_JA_3_1_8_3.jsp」「私を磨くテーブルマナー[http://www.table-manners.org/korean/」(参考「韓国の食生活文化の歴史」)
 極東アジアでは「一汁三菜」が最低限の「正しい」膳であるとする共通の認識があったようです。
      
 「和食」と同じく韓国・朝鮮の食事「飯床(ご飯の膳)」もご飯、汁、漬物と菜(おかず)の組み合わせが「基本」です。
 もしかすると日本の「一汁三菜」概念は朝鮮からの影響だとも考えられます。朝鮮は日本より「易経」を重んじていたことが知られます。15世紀以降儒教を重視した朝鮮に比べ日本ではより遅い17世紀以降儒教が注目されました。
 12世紀後半高麗朝後期には菜を奇数とする概念は既に存在していたようです。
        
 庶民などの日常食はどうなのでしょう。 
 幕末のころの風俗を描いた「守貞謾稿」によると京阪でも江戸でも普通の家では一日一度の炊飯でおかず(菜)がつくのは一日に一度味噌汁と合わせても2〜3種の料理、つまり一汁一菜か二菜程度、一食は冷や飯に汁と漬物だけ、一食は粥か湯漬けで食べていたとされます。
 農書などを見ても「飯」と漬物味噌汁程度が普通でおかずを複数食べるのは「贅沢」だとされています。
 都市圏でも大きな商店など多くの人が食事をするところを除いては毎回炊飯もしません。薪や炭などの燃料が高価だったからです。もちろんご飯の「保温」は出来ません。
   
 都市では白米、農村部などでは麦や雑穀や芋・野菜などで増量した「かて飯」と味噌汁、漬物が基本でおかずはよくて一つか二つ程度の「一汁三菜」ではない簡素な食事が日常の食だったとされます、おかずの付かない場合も少なくありません。
 玄米を食べていたという説は玄米を炊くには多くの燃料が必要になるという点と近現代のアジアの「近代化」されていない米食文化圏でも玄米を食べる民族はいないという点から、七分づきの程度の低精白のコメを黒米や玄米といって用いた場合もあったのだろうと考えられます。
 ゼロ分づきの玄米は特殊な「健康食」としてはあったかもしれません。近代化以前の日本は薪などの燃料や草肥の需要が多く、人里に近い多くの山は「はげ山」でした。多くの燃料が必要になる玄米食は消化吸収にも難点があり日常食とは考えられません。
 日常食では「おかず」といっても野菜や豆などの単独の素材を煮るなどした単純なものが多くなります。調理法や味付けのバリエーションは多くありません。
         
 江戸時代には公儀などから百姓などが祭事であっても「一汁三菜」を食べるのは奢侈であると禁令も出たようです。祭りの食でおかずを用いず飯を豪華にしたちらし寿司などが盛んになった理由とされています。
 庶民の祭りなどでの膳では本膳に擬せられる膳が出ますが一汁二菜や四菜、五菜もあり一汁三菜にこだわらないものも多くあります。
   
 上級武士でさえ日常食は「一汁三菜」以下であった例も残っています。江戸後期の10万石の大名で隠居になった真田幸弘の食事記録として残っているものでは朝昼が一汁二菜、夕食は一汁一菜です。
    
 明治の初めごろの調査では日本人の摂る食材は60%程度が米で穀物全体だと80%以上、ほとんどおかずを食べない「ご飯食い」の食文化だったとされます。
 味噌汁と漬物の塩分だけで穀物を大量に食べるのが普通でした。栄養が不足し、現代に比べ体格が小さかったという事は良く知られます。
 「1977年に報告されたアメリカの食生活指針・マクガバンレポートでは「元禄時代以前の日本の食事」を理想とするという話」があるともされますがそれは事実ではありません(http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090728/p1http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090802/p1http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090808/p1)。
     
 明治以降では国立国会図書館デジタルコレクションによると一汁三菜の例は「大正5 立志の経路活ける奮闘 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953480/36?viewMode=」に貴人の最低限の質素な膳の例、「明治26 紀堂茶話 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889003/18?viewMode=」「明治42 茶道通解 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860691/43?viewMode=」では懐石の例で後者では三菜以外でも一菜五菜七菜八菜の例も挙げられ当時の懐石では「一汁三菜」が確定されていないこともわかります。

 「昭和3 帝都を顧みて http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269208/164?viewMode= 」では庶民の「贅沢」の限度。ここでは二汁四菜も見られ興味深いです。 
 「明37.2 日本家事調理法 生間正起 六合館[ほか]  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849125/82?viewMode=」「大正13 婦女子の為めに 宮崎為山 米本書店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981643/146?viewMode=」「昭和3 礼儀作法一切の心得 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456958/66?viewMode=」では正式の供応料理の形式として描かれそのころにも最低限の本膳とされいているように読めます。
 「 明33 普通家事教科書 錦織竹香 同文館 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848464/38?viewMode=」では珍しく(誤記かもしれないが)一汁二菜の供応も有り一汁五菜、二汁五菜、三汁七菜もあります。
 本膳形式は昭和以降廃れていったと考えられます。

 一汁三菜は国立国会図書館デジタルコレクションのタイトル検索にはより多くの例があり基本的に儀礼供応食の最低限とされますhttp://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%B8%89%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3庶民の日常食としての「一汁三菜」の例はありません。 「一汁三菜」の概念はありましたが基本的に本膳や懐石や僧房・精進の形式や貴人の食であって「普通の食事」ではありません。
            
 むしろ現実の庶民食であった一汁一菜は粗食や日常食の例が基本で http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%B8%80%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3数多くあり、ここでは一汁二菜は戦前には粗食扱いの事実上一例のみ http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%BA%8C%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3で一菜や三菜に比べ一般的な概念ではないようです、一汁四菜の例はありません。
 「一汁三菜」をごちそうである供応や儀礼の食とし認識していると考えることができます。
       
 「近代料理書の世界(2008年)」によると「料理の枝折 横山順 1902(明治35)」の「三食献立」は「毎朝漬物朝一汁一菜昼一菜夕食は一汁一菜又は一汁二菜を基本」とし「四季毎日三食料理法 安西古満子 1909(明治42)」では「朝は味噌汁のみ、昼は飯と魚か煮物夕に汁もの、煮物または酢の物など一汁一菜から一汁二菜の比較的質素な組合せとなっている」としていて「三食献立及料理法 : 家庭和洋保健食料 秋穂益実 1915(大正4)」も「「飯」「汁」「香物」を基本とし、これに二種の菜が加えられている」としています。
 「家庭実用献立と料理法 西野みよし 1915(大正5)」では「朝食が味噌汁と小皿昼食が深皿や皿など一菜夕食が椀と皿や小皿といった組み合わせで一汁一〜二菜である」で「美味営養経済的家庭料理日々の献立其料理法 村田三郎 1924(大正13)」でも「 毎日の献立は一汁一菜〜二菜で構成され」としています。
 「近代料理書の世界」では「一汁三菜」の例は示されません、「一汁三菜」の家庭日常食の例も有るのかもしれませんがこのころはそれが「基本」とはされてはいないと考えられます。
 戦前は一人一日にご飯を4合食べるのが標準だったとしていてそれほどおかず(菜)が食べられていないといえるでしょう。
 塩辛い漬物などと味噌汁でエネルギー量(カロリー)が高くおいしく、比較的安い穀物や根菜の「ご飯」を多く食べる栄養的にはバランスの良くないそれほど健康的とは言えない食事でした。
   
 日本では昔から魚が食べられていたといわれることも有りますが、戦後の漁業技術の進歩、コールドチェーン・冷蔵冷凍流通の整備までは干物などの加工食を含めてもすべての庶民が日常的に魚貝類を食べることはできませんでした。肉や玉子についてももちろん日常食とは言えないでしょう、戦前だと玉子は一個が現在の価値で言えば数百円ぐらいだそうです。
 「肉じゃが」が一般的に家庭の味おふくろの味になったのも昭和50年代からです。 
    
 他の本も調べてみましょう。 
 基本的には一食ごとの献立を書いた本を「家庭」「献立」などの単語で検索して探しました。
     
 「一汁三菜」を書いてあるのは、どちらかというと日常料理としてはごちそうといえる「日曜日」の「来客」もある献立として書かれた「家庭料理献立集 笹木幸子 北文館出版 大正3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951535」と、「一品づづ離せばお惣菜になります」としていてこれ自体が一食分かわからない「一汁三菜」で書かれた「趣味と実用の日本料理 水町たづ子 婦人之友社 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017778/8?viewMode=」で他に「汁なし三菜」が「現代家事.上の巻 甫守ふみ 晩成館 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942912/942?viewMode=」にあります。
     
 普通家事教科書 錦織竹香 同文館 明33 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848464/37?viewMode=
 実践家政法 山田稲子, 真能まさき 集英堂 明34.11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848379/22?viewMode=
 家政学表解 後藤嘉之, 美島近一郎 六盟館 明38.8 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848273/46?viewMode=
 家政一斑 的場諶之助 (樗渓道人)  尚文堂出版 明34.1 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848264/38?viewMode= 
 衣食住 : 日常生活 山方香峰 実業之日本社 明40.7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848213/249?viewMode=
 一家の経営 池田常太郎 (秋旻) 読売新聞日就社 明44.3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848215/44?viewMode=
 実践家事教授資料 美島近一郎, 中島よし子 光文館 明45.5 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811765/162?viewMode=
 三食献立及料理法 : 家庭和洋保健食料 秋穂益実 東京割烹女学校出版部 大正4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954876/56?viewMode=
 三百六十五日毎日のお惣菜 桜井ちか子 政教社出版 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371
 家庭実用料理 : 衛生経済 稲垣美津 明治出版社 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926985/30?viewMode=
 安価生活割烹法 岩井県 食物療養院 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955311/31?viewMode=
 家事新教科書. 上巻 石沢吉磨  集成堂 大正8 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942754/101?viewMode=
 家庭日本料理 越智キヨ 六盟館出版 大正11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970354/269?viewMode=
 日用百科知識の華著者新知識研究会 玉井清文堂 大正11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908904/533?viewMode=
 美味しくて経済的な一年中朝昼晩のお惣菜 大日本家庭料理研究会 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913269
 家庭栄養日本料理 越智キヨ 星野書店 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970355/278?viewMode= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970355/302?viewMode=
 最新家事提要 井上秀子 文光社出版 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016599/111?viewMode=
 栄養 佐伯矩 栄養社 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016744/81?viewMode=
 家事研究大系. 第1巻 (食養篇) 甲斐久子 平凡社 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020381/284?viewMode=
 最新割烹指導書. 前編 家政研究会 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018918/67?viewMode=
 家事研究の手引 池田政子 服部勘太郎出版 昭和3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267107/37?viewMode=  
 標準生活に依る四季の家庭料理著者日本女子大学校家政館 日本女子大学校桜楓会 昭和3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089687
 家事教材研究案. 食物篇 家事教授研究会 編 文光社出版 昭和4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275651/74?viewMode=
 農村家事教育の建設 林勇記 大同館書店 昭和7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280334/88?viewMode=
 中等教育家事新教科書教授資料 奈良女子高等師範学校佐保会編 至誠堂 昭和7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438782/52?viewMode=
 兵庫県農村部落栄養改善報告 兵庫県警察部衛生課編 兵庫県警察部衛生課 昭和9 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077636/51?viewMode= 
 北海道郷土栄養献立 北海道庁学務課編 北海道聯合教育会 昭和10 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077773
 岩手県栄養指導書 岩手県社会事業協会 岩手県社会事業協会 昭和11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1034701/14?viewMode=
 お惣菜料理 主婦之友社編 主婦之友社 昭和14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036611/47?viewMode=
 郷土食の研究. 奈良県下副食物之部 食糧報国聯盟本部出版 昭和17 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024508/103?viewMode=
 婦人年鑑 日本婦人新聞社編 日本婦人新聞社 1948 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710386/67?viewMode=
 これらの本では日常食を「一汁三菜」とはしません。
 上にもあるように標準的には朝は一汁香物(漬物)菜なし、昼は汁なし一菜、夜は一汁一菜、汁なし二菜、一汁二菜が多く、「家政一斑 的場諶之助 (樗渓道人)  尚文堂出版」では「常の食は」「一汁二菜よりは決して多くすべからず」ともあり「一汁三菜」をごちそうと認識しています。
 「一汁三菜」を「基本」とする例はあまり見られません。

 「料理書」は実際の日常料理というよりも「このように作るべきだ」という目標を示す「教科書」的な役割を示すことが多いと思われます。現実の家庭料理よりもレベルの高い「凝った」料理が書かれていることが多く、家庭料理調査は少し「見栄」をはって豪華な食事を報告することもあるかもしれません。
 昔の日本は現在よりも格差が大きな社会で農漁村と都市、地方と都会、同じ地域でも階層や職業などにより食生活は異なります。家計に対する食料費の割合を示す「エンゲル係数」が高く、現在よりも食品一般が相対的に高価でした。
 そして当時の「料理書」の読者はおそらく庶民というよりは少し上の生活水準の女性などに向けて書かれたものといえるでしょう。
                
 国立国会図書館デジタルコレクションのタイトル検索で「一汁三菜」を時代ごとに見ると(左下の年代で検索)明治大正は儀礼供応料理が多く、1930年代から栄養面での記事「昭和12 農村地帯食物指導の研究」が出てそれが50年代に続きその頃は栄養改善の目標とされる場合「昭和32 バランスのとれた家庭料理」と「昭和31 料理のスタイルブック」では一汁一菜二菜と三菜が「日本料理」として対等に並べられている場合もあります。

 「婦人生活 昭和60年(1985年)」に「おいしい料理は最高のしつけ「一汁三菜の里の秋」 鈴木登紀子」があり80年代には栄養とともに「素養」とされていることがわかります。90年代には「一汁三菜は日本人の知恵(1992年)」という記事や食物史家の永山久夫氏の「「一汁三菜」の知恵」といったものもあります。
 1999年以降は行政からの発信でも一汁三菜は語られだし、2010年以降は大量に書かれます。
        
 高度経済成長期以降「失われた伝統」としての美化がはじまったのでしょう。
 今世紀に入ってからは特に「一汁三菜は日本の食事の基本」という言説が多くみられるようになっています。
 「一汁三菜」を「基本」とする考えはそれほど古いとは言えない近年の「伝統」です。
  
 雑誌「栄養と料理」は女子栄養大学の創設者である香川昇三と綾により昭和10年に創刊された老舗の月刊誌です。
 こちらのデジタルアーカイブス http://eiyotoryori.jp/から見ることができます。
     
 昭和40年以前では「一汁三菜」にタイトルから検索すると「上田重吉(関西料理自治会、日本料理研究会師範)」「小栗俊雄(金田中調理部主任、日本料理研究会師範)」「田村平治(つきじ料亭主人、日本料理研究会師範)」といった高級日本料理店の料理人による「ごちそう」と明治15年創業の名門料理学校の4代目「赤堀全子(赤堀割烹教場、赤堀割烹学校校長)」の普通は「家」ではしないだろう「土瓶蒸し」もある「ごちそう」になります。
   
 「献立」で検索すると戦前の物は基本的に上記の国会図書館の料理書の献立とはかわりません。「昭和13年(1938年)8月号 一汁一菜主義と其の実際」にみられるように庶民の日常食は一汁一菜ていどの「粗食」が正しい(二菜もあったが)とされています。
 太平洋戦争期には徐々に食料がなくなり、配給食の利用法から甘藷(サツマイモ)中心の食事、「食べられる草」の特集などに代わり昭和20年(1945年)に休刊、21年から再開されますが食糧難が続き、戦後でも代用食が書かれ食糧難の時代が続きました。
     
 昭和23年ごろからは行事食や供応食の献立が少しずつ増えてきます、まともな献立も載りはじめますが「昭和23年9月号、昭和24年8月号」アメリカからの食糧支援の小麦を用いたパンなどの粉食が見られます。もちろんこれらはこの時代の「理想的な食」だと思われますが昭和23〜24年には食料状態が改善しているのも読み取れるでしょう。
 昭和25年には食糧危機は脱したとみられます。形式としては戦前までの朝一汁香物昼汁なし無菜夕一汁一又は二菜程度というパターンが一時「崩れています」。パン食が多くなり朝食に「おかず」が付き始めました。
 昭和27年には栄養改善法が制定され栄養改善普及運動がはじまります。「粗食」を美徳とする時代から栄養を摂ることをすすめる時代になります。
          
 昭和30年(1955年)ごろには昼食でおかずが2品も普通になってきました。「献立表」から「献立カレンダー」「料理カレンダー」などにかわり、付録の表になり、目次から探せます。
 昭和36年までは一部の例外を除き和食メニューでも一汁二菜や汁なし三菜までですが昭和37年ごろから一汁三菜メニューも出てきます。
 「家庭の献立」とされる記事もありますが日常食の夕食で一汁三菜が過度な「贅沢」であるという認識はこのころには薄れてきているようです。昭和40年(1965年)ごろには一汁三菜が「普通」になり朝食でも複数のおかずも珍しくありません。
               
 汁なし三菜や一汁二菜などもあり、一汁三菜と決まったわけでもありませんが十分実現可能なモデルと考えられているといえるでしょう。
 「栄養」を看板とする雑誌なのでおかずを重視しているのでしょうから現実の社会よりは栄養充分なメニューが書かれているという点を考慮しても家庭料理における「一汁三菜」は昭和30年代後半から40年にかけて「可能」とされ始めたと考えられます。
 しかしここまでで「一汁三菜を基本」としているという概念は存在しません。肉の「主菜」野菜の「副菜」の概念はありますが決まった数というものは示されません。
       
 昭和45年(1970年)ごろからは和食の夕食の「一汁三菜」例が多くなります。洋食や中華系の「ボリューム」に対し和食の「手間」の印象が強くなった気もします。しかし一汁二菜、汁なし三菜も少なくはありません。
 「昭和47年10月号 栄養も味もバランスも考えて じょうずな献立の立て方」に「原則的には主となるおかず一品と副となるおかず一、二品、そして汁物という組み合わせが必要です」としていてこのころには現代的な一汁二菜又は三菜が成立していることが読み取れます。
            
 「昭和50年5月号 五月の献立一覧」「昭和50年6月 六月の献立一覧」をみると和食の夕食の場合は一汁二菜か三菜が標準とされているといえます。
 「昭和52年7月号 七月の献立カレンダー」「昭和52年8月 八月の献立カレンダー」などで一日三食プラス弁当も作るという一日に10品近く料理を作るようなものもありました。
 「昭和54年5月号 今年結婚するあなたに贈るわが家の栄養と料理‐献立の立て方」では「夕食献立の基本は一汁二菜」とし、一汁三菜はまだ少し贅沢といえるとも考えられているようです。
         
 昭和55年(1980年)には一汁三菜や汁なし四菜も珍しくありません。このころから飽食についての記事も出てきていてコメ離れを問題にする論調も見られます。
 「昭和56年4月号 経済感覚を生かした献立‐献立を立てることのすすめ」では「主菜副菜副々菜」があり三菜の献立をすすめていました。
 「昭和56年10月号 10月の献立プラン」「昭和56年11月 11月の献立プラン」辺りになると一汁四菜まで出てきています。料理も高度で手間のかかるものも多くなっています。
       
 「昭和61年2月号 組合せ自由自在・主菜&副菜&汁一汁二菜で栄養バランスを」という特集が組まれます。ここでは夕食の最低限の目標として一汁二菜を書きますが朝食、昼食も一汁二菜とするのが珍しいです。
 昭和60年(1985年)以降になると主菜・副菜・汁にプラス副々菜が付くメニューも増え、酢の物和え物や常備菜の小鉢などが付く一汁三菜の形式が多くみられるようになりました。
 これらの「献立表」は毎日毎日異なる料理を作る、材料の使い切りを考えない、観念的な「教科書」です。料理を教え学ぶための方便でもあります。
             
 昭和61年からは「献立カレンダー」は別冊になり見ることはできませんが昭和50年代後半くらいには作者によって異なりますが(献立は署名記事の場合が多く個性もある)和食の場合でもどんぶりや鍋物タイプの献立を除くと一汁二菜、汁なし三菜、一汁三菜それぞれの物があり、ご飯プラス料理や汁が3〜4品作るタイプが基本になります。三菜と確定しているようには見えません。
 ただ洋食メニューでも付け合わせや「前盛り」などとして別の一品料理といえるものも付くようになり、おかず全体の数は増える傾向にあるようです。
            
 「平成元年(1989年)3月号 主菜が2つある献立を考え直す」には「献立の基本は一汁三菜」とあり一汁二菜の洋風献立と一汁三菜和風献立が書かれます。上記の昭和54年から「基本」の二菜が三菜に増えています。
 一つ一つの料理も手の込んだものが多くなり、複数の食材をそろえる必要のある料理も増えます。「そのままで食べられるもの」や「切って出すだけ」のメニューは減ります。
 もともとは栄養改善が目的なのでしょうが、「料理を教える」ことを目的とし、レベルを高く設定することで市場を確保する「料理教育業界」の事情もあるのかもしれません。
 上の「おいしい料理は最高のしつけ「一汁三菜の里の秋」」の鈴木登紀子氏も料理研究家です。
   
 夕食では戦前から戦後すぐの野菜だけの場合もある一汁一菜か二菜、汁なし二菜程度の日常食から昭和30年代(1955年〜)から昭和50年代後半(1980年)までの肉魚の主菜と野菜の副菜の一汁二菜が目標の時代、昭和60年代(1985年)以降の「もう一品」副々菜の小鉢などの付いた「一汁三菜」の標準化とそれを「基本」とする言説の成立がわかります。
 栄養やリスクの分散に役立つおかずの多様化がそれを教える側にとっても要求水準が上がっているといえます、特に「毎日違う汁やおかずを用意する」という「ノルマ」の設定も「献立表から”学ぶ”家庭料理」の刷り込みといえるかもしれません。
      
 中世末から近世に武士などの支配階級で「最低限の供応食」とされた「一汁三菜」と昭和55年(1980年)ごろから家庭料理の「基本」と一部で言われはじめた「一汁三菜」は別の歴史を持ちます。
 日常食における「一汁三菜」と懐石の「一汁三菜」は異なった歴史と文脈を持つものといえるでしょう。
   
 現在の茶道においては「一汁三菜」は草庵式茶事の懐石における基準又は最も簡素なものとされるのですが、実際には一汁三菜「飯」「汁」「向付」「椀盛り(煮物椀)」「焼き物」のあと小吸い物の「箸洗い」や「強肴」「預け鉢」「八寸」「湯桶」などが出されます、現在では膳の時点から酒を出してもよいとされているそうです。朝の茶事では「一汁二菜」になる場合もあります。
 簡略な膳のはずである「懐石」が高級料理の代名詞として使われるのは皮肉なことかもしれません。
 現代では懐石と会席は別の料理とされることが多く、会席は宴席のように扱われることも有ります。
   
 茶事での「一汁三菜」の確定や「懐石」と「会席」の完全な分離といった現在の「懐石料理」の概念も20世紀以降だと考えることができます。
 明治から戦前までの実業家「数寄者」の茶人の近代茶道から戦後の家元制茶道の隆盛に至るなかで「わび茶」の位置づけの変化によるものでしょう。
       
 近代化以前の食と現在の食の違いは設備や材料の違いがあります。
 戦後まで多くの地方では冷蔵庫もガスも電気も水道なく、季節の素材と塩漬け乾物の保存食、そのままでは使えない未加工の素材、不便な流通といった「料理以前」に多くの面倒があります。
 炭を買うか又は薪を集め乾かし割り、水を汲み(江戸では水道もありますが各戸までは来ていません)火をおこし、都市圏を除けば未加工の素材から手間をかけて料理にしなくてはならないのです。当時は服も自家製も多く古くなれば繕い、家事は現在よりもはるかに手間が多いものでした。
      
 農業などの生業で暮らす場合には女性でも日常的な仕事は多く、毎日長い時間をかけて料理をする余裕もありません、「専業主婦」の誕生は大正時代の都市エリートサラリーマンの家庭からだと考えられます。都市では先んじてガスや電気、水道が普及し、「料理をする」余裕も出ます。
 流通もあまり多くなく、季節の素材と保存食以外は手に入れにくく庶民には「料理以前」の作業が大変で、多くの家庭では味噌も漬物も自家製でした。行商人が売りに来るか半日かけて買いに行かなければ魚などは手に入りません。
  
 昔の厨房機器は大変使いにくいものでした、土間にしゃがみこんで料理などをしなければなりません、地方や農漁山村では戦後になってかまどの改善がはじまり、昭和30年代に流し台が普及しはじめ炊飯器も出来、昭和40年代にはガスが普及し冷蔵庫や炊飯器も一般化します。
     
 近世以前にはお盆「折敷」で食事がされ、江戸時代に箱膳という個人のテーブルを兼ねた膳が普及し、明治後半に「ちゃぶ台」が生まれ大正時代から広まりはじめ戦後に普及し、昭和40年代からは椅子を用いるテーブルが一般の家庭でも用いられます。
 ちゃぶ台以前の日本では家族が一つの卓で食事をする「一家団欒」は当たり前ではありません、家族は時間も空間も別々に食事をすることも普通でした。食事は黙ってするもので、日常の食事中に会話をするという文化は一般的ではなかったでしょう。
      
 「家庭料理」というのもそれほど盛んではなく、普通の「主婦」は日常的にはそれほどおかずを多く作る「料理」はしませんでした。中流階級以上の家では料理は「妻の仕事」ではなく使用人の仕事でした。
 明治中期以降「良家の主婦」に家事が求められることになり、「良家の子女」の習い事で「料理」が注目されてきます。村井弦斎の「食道楽(明治36年)」あたりもその嚆矢の一つともいえるでしょう。
 当時の女性としては高学歴だった高等女学校や女子師範学校で家事が必修とされ料理の実習もあり、「婦人」向けの「料理学校」ができ、料理屋並みの料理や洋食などが教えられます。
 家庭用の料理書が盛んに書かれ始めたのもその頃からでした。
       
 大正時代から昭和初期にかけては多くの凝った料理が作れるのは高いステイタスだったといえます。都市圏のエリート「中流階級」の生活スタイルになります。
 インフラ流通の整った都市圏などの高所得者の専業主婦で可能だった新しい食習慣です。そのころ多数だった地方の農家などではありえません。
    
 都市でも何でも手づくりをしていたわけではなく、現在から比べると屋台や露天の店が多く並び、行商などの出来合いものや半製品を用いたり、独身者だと外食に頼るのも現在とは変わらない部分も有ります。「家庭料理」のコストは低いものではありません。
    
 戦後の高度成長とサラリーマン社会「専業主婦」の一般化のなかで戦前のステイタスの高い「良家の子女」出身の「料理研究家」が注目を浴び、テレビや雑誌で凝った「家庭料理」を披露します。男性のプロの料理人たちも「主婦」に対し、指導者としてふるまいます。
 「花嫁修業」の一つとしての料理学校、料理教室も盛んになります。
 戦中戦後に「断絶した」と考えられた「家庭料理」をメディアなどを通じて「学ぶ」という「ストーリー」が作られます。

 流通の進歩、機器の向上で昔から比べると容易になった「家庭料理」を作るのが「主婦」の役割とされ、「家庭料理」が「主婦」の「愛情のバロメーター」として求められます。
 戦前だと祭りのときなどにしか作られなかったような手間のかかる品数の多い料理を日常的に作ることが当たり前のように刷り込まれていきます。
 「料理の先生」は技量を見せ、多くの技術を教えるために多種のおかずを並べるメニューを標準として示します。
    
 昭和30年代まではほとんど「おかず」のないご飯と味噌汁漬物までの食事が基本でしたが昭和40年ごろにはおかずを多く食べる比較的バランスの良い食事が可能になりました(塩分は過多なようですが)。
 コールドチェーン・冷蔵冷凍流通も実現し、安定的に食材が流通します。
 このころに現代の我々が考える「一汁三菜」タイプの多くのおかずの多くある日本食が一般化しました。日本人の体格の向上が進み寿命も延びます。
    
 昭和40年代には家政や料理など「正しい主婦のありかた」を教える「婦人雑誌」が全盛期を迎えました。
 実際は多数派かどうかはわかりませんがそのころ主流になった「(家事)専業主婦」を基準とする「新しい」婦人像が確立します。
 「栄養と料理」はむしろこれらの婦人誌より合理的で開明的な雑誌のはずです。上記「婦人生活 昭和60年(1985年)」にみられるようにそれらの婦人誌などが先行して「一汁三菜を基本」とする言説を唱えていたのでしょう。(「婦人生活」は「戦後四大婦人雑誌」の一つとされていたそうです)

 高度な家庭料理は歴史の上では明治後半以降の都市エリートにはじまり、一般では昭和40年代ぐらいに最盛期を迎えた、近代化された社会の「専業主婦」特有の比較的に新しく短い流行だといえます。
 近代化以前の家庭食は「手に入るもの」の利用法と保存食の作り方戻し方利用法が家庭での「料理」の技術で同じくらいに、不便な厨房器具の使用法が重要だったはずです。おそらく日本の「主婦」の料理の水準は戦後の「専業主婦」が最高であったと考えられます(実態は全員が出来たわけでもないだろうが)。
 日本の家庭料理における「一汁三菜」はその頃に創られた「理想」です。
   
 「昭和の洋食 平成のカフェ飯(2013年)阿古真理」によると「平日の女性全体の家事時間は一九六〇(昭和三十五)年から一九六五(昭和四十)年にかけて十二分減って四時間十四分になったが、一九七〇年には二十三分もふえて史上最長になった」としガスや水道、冷蔵庫炊飯器が普及したにもかかわらず、その分働きにでる主婦と家に留まる専業主婦に分かれ、(主観的には)ステイタスが高いともされた「専業主婦」が「ヒマができると罪悪感が生まれる」ために「主婦業のプロフェッショナル」として高度な家庭料理を目指したとします。
 この本では戦後の「専業主婦」による高度な家庭料理は少なくはない数の女性の願望とメディアの協力・協調によって実現したとしているようです。「一汁三菜」論もそこでうまれた考えでしょう。(1980年には専業主婦の割合は6割を超えていて現在では4割を下回る)

 「伝統的な食事」「家庭料理の基本」としての「一汁三菜」は歴史的にいえば実態はありません。戦後の高度成長により食生活が充実し、昭和40年代に初めて実現された「理想の日常食」です。
 「日本の食の到達点」又は「理想的な食事」とするなら妥当でしょうが、昔から食べられていたものとし、「基本」であるとするのはいささか過剰な表現でしょう。
 「戦後」社会の食生活は日本人の体格を向上させ、平均寿命・健康寿命を大きく伸ばしました。
 しかし「一汁三菜」は栄養的に優れたメニュー構成といえ、語呂が良く、本膳懐石の「伝統」にもあるものですが「昔から食べられていた日常食」ではありません。
 
 農林水産省の「日本の伝統的食文化としての和食 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/wasyoku.html」においても「三菜」の意味についてははっきりと示しません。
   
 「日本の食事の基本」といった高いレベルの要求が行われるようになったのはそのあとです、それまでの日本で毎日内容の違う「一汁三菜」を場合によっては複数回作らなくてはいけないような日常食は一般には存在しません。あったとしても「お金持ち」などのごく一部でしかなかっただろう生活習慣です。
 食堂や旅館で出る定食タイプの整ったお膳は庶民の日常食ではありませんでした。ハレの食であり(日常の)ケの食ではありません。
 世界の多くの国でも日常食は料理数も多くなく、手間もかけないものが普通でしょう。
    
 実際の例としては女優で随筆家の沢村貞子(1908〜1996)の「わたしの献立日記(1988年)」に昭和41年からの献立が書かれます。
 現在でも文庫で売れ続けるロングセラーでその生活スタイルは多くの女性に影響を与えました。近年「沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)2012年https://www.amazon.co.jp/dp/4106022362」も出ています。
 その41年ころの夕食の献立ではすでに「一汁三菜」が多くみられます。
 「一汁三菜」という言葉も使われず、定まっているわけではなく一汁一菜二菜などの日もありますがこちらではこのころすでに三菜がそれほど贅沢とはされていないようです。
       
 女優の仕事をしながらのほぼ毎日異なる内容の一汁三菜程度の食事作りが実行され、センスの良い随筆として書かれたこの本も現在の「主婦」の理想の一つといえるかもしれません。 
 ただ、現実にはこの献立日記はもともと買い物を家政婦に頼むために書かれたもので、おそらく洗濯や掃除もある程度は家政婦が行い、子供もいない夫婦二人の暮らしだという点は、頭に入れるべきです。
 それに沢村貞子はその当時0.5%程度だった女子大進学者で(中退しますが)頭の良いお嬢様といえる人で、食にうるさい夫と「料理の本が二十何冊並んでいる(わたしの台所)」凝り性の妻の普通よりレベルの高い食生活だといえるでしょう。書籍化されるほどの「立派」な食生活だと理解されたものです。 
 現在では一菜に数えないような「かまぼこ(当時は高価だった)」や「枝豆」「納豆」の様なものも含めての「三菜」程度です、現在の「一汁三菜」論ほど堅苦しくはありません。
   
 「平成の家族と食〈犀の教室〉(2015年)」の「一汁三菜はどのくらい作られているか」では料理の品数を決めている人の割合が(一汁三菜とは限らないが)23.3%で決めてない人が76.7%(2012年調査)、これは年齢が高い人、調理時間の長い人(おそらく専業主婦など)ほど決めている人の比率が多くなるそうですが現在の家庭でも「一汁三菜」がそれほど多いわけではないという調査が書かれます。これはむしろ妥当な結果といえるでしょう。
 歴史的経緯を見ると「一汁三菜」はごく最近の短い時期の「理想」でしかありません。近代以降戦前では一汁二菜までで、戦後でも可能にはなりましたが一汁三菜に定まった時期は特になく、「基本」というのは何のことかわかりません。
    
 ある意味で「日本の食事の基本」としての「一汁三菜」は昭和50年代以降の「創られた伝統」といえます。
 現実には多くの社会でも「伝統」はそれほど古いものではないとされます、しかし誰かが作ったものでも多くの人々が支持をし、100年くらい続いたものを「伝統」とすることはおかしいとは思いませんが、1980年ごろから言われ始めた極一部の人たちのみの主張で50年にも満たないものを「伝統」として押し付けるのはやりすぎでしょう。
 同時期に創られた「江戸しぐさ」のような個人の作った「偽史」ほどではありませんが、新渡戸稲造によって改変され理想化された「武士道」辺りに近いといえるでしょうか。
        
 近世後期くらいでの本州日本の食文化の現実としては「庶民日常の食としては一日一度だけ一汁一菜程度、近世後期以降の儀礼の膳は二汁五菜が基本」辺りが妥当でしょう。高度成長期以前だと日常食としての「一汁三菜」はごちそうになります。

 茶懐石の概念から最低限の供応・儀礼食とされた「一汁三菜」が戦後理想の食として実現が可能になり、それがもともと食べられていたと誤解されたという事になるでしょう。
 食文化論としての「ご飯と汁と香の物とおかず」という概念を「一汁三菜」と説明することもありますがそれも誤解を招く表現だと思います。
 「伝統的」な供応膳の基本はむしろ「複数の汁と複数の膳のおかずと酒」が妥当です。
    
 近年特に「主婦」に対して要求される事が多く、料理書などでも毎日のように「一汁三菜」を作るのが当然のように書かれます。より現実的に「一汁三菜」を省略する事を認める本もありますが、先進国の中では共働きであっても夫婦での家事育児の男性の分担率が低い日本での「日本の食事の基本」としての「一汁三菜」は女性に対する根拠のないプレッシャーといえるでしょう。
 「良き妻・主婦」であろうとする人やそれを求める家族がいれば「一汁三菜が基本」は要求されるノルマになります。料理はそれ自体が一つの技術体系で使いこなすのは容易ではありません。
      
 現代的な「和食」でも一つ一つはそれほど手間が多い料理ではないでしょうが毎回異なる複数のおかずと汁を用意しないといけないとされると負担は少なくありません。
 和食メニューは品数が多いことが良いとされ、「日本料理」は世界でも多くの器を用いる料理だともいわれます。
 「一汁三菜」の献立を準備するのは買い物や洗い物片付けを除いても毎日一時間ぐらいはかかるでしょう。
             
 前近代に比べ家や共同体での力仕事や作業、手仕事が減り、趣味や余暇などに時間をとれるようになったといえる人も多いだろう男性に比べ手洗いの洗濯や裁縫などの手間の減った分であっても毎日「一汁三菜」を求められる主婦はアンフェアな部分も有ります。昭和後期には主流だった「専業主婦」には可能でも仕事をしている女性には過剰な負担になります。もし目指すのなら「出来合いもの」の利用でも罪悪感を感じる必要はありません。
  
 栄養教育や料理教育を行う側でも「効果・効率」を重視するタイプと「人間教育」を行おうとするタイプがあり、前者は「手抜き」や簡略化を認め、後者は特に多くの手間をかける「女性の役割」を果たす事を重視しているようにも見えます。
     
 現代でも家庭料理に既製品又は「出来合いもの」を料理を用いるのことを「手抜き」だとか「愛情不足」だという意見は根強くあります。仕事を持つ女性に対してもそういった形でのプレッシャーもあるでしょう。
 それに対し男性に対しては昔のように蓑(雨具)や草鞋(履物)を編んだり生活圏のインフラの大工仕事・土木工事などのメンテナンス、味噌づくりや薪割りの代わりの愛情表現を求めることは多くありません。
     
 昔は場合によっては糸から紡ぎ、布を織り、縫い上げ、繕い継ぎ当て、仕立て直して服を作りなおし利用していて、昭和40年代までは家で洋服でも作るのは当たり前で洋裁学校が「花嫁修業」の一つでしたが、現在では既製品の服を買い、ある程度の期間用いてなおして着られるものでも廃棄します。
 毎日用いる衣料ですがこれを「愛情不足」とし家族の危機とする人は少ないでしょう。
   
 現代の実用料理書にあるような簡略な「手抜き」メニューでも近代化以前の庶民の日常食よりおいしく栄養が豊かだともいえます。手間だけが愛情ではありません。
 さすがに「弁当作り」の義務付けは減りましたが、今でも「弁当作り」を美談にしたい人はいます。
 女性に対してだけ家庭料理が「正しく」できないことを「愛情不足」などとするのは不公平で不合理です。 
      
 手間をかけて一から作る料理はおいしく、おいしい家庭料理は心を豊かにします。だからといってノルマにすべきではないでしょう。
 本やテレビなどで見るような高度な「一汁三菜」をつくるのが「当たり前」や「基本」ではありません。
 得意な人には可能でも「基本」とするのは大げさでしょう。それこそ「専業主婦」だからといっても一年365日それを求めるのは大げさです。
 栄養学的には戦後に実現した「理想の和食(日本食)」も比較的には優れた食事ですが、塩分の摂取が多いのが問題で、朝食は手間をかけて作る和食よりも何の手間もいらない「バナナと牛乳」の方が良いとする考えもあります。
         
 食事に重要なものは「おいしさ」と「栄養」そして「たのしさ」であって「数と形式」にこだわる必要はありません。無理をせず食卓がたのしく、中長期的に栄養バランスがとれれば何の問題もないでしょう。
 現代の栄養学では最大一か月単位で栄養バランスが取れれば十分に健康的な生活ができるとされているようです。無理に「一汁三菜」を「毎日」用意する伝統も必要もありません。
 多くの料理を毎日作るのは時間や技術、気力体力が必要になります。得意な方、好んでつくる方には問題はないでしょうが義務として求めるのは過大な場合もあります。
     
 料理好き料理自慢の人がネットや書籍で素敵な「一汁三菜」を披露されていることも有りますが、それをすべての「主婦」が目指すべきだとはいえません。
 「一汁三菜」はもともとは儀礼や茶道、料理店などでの形式であって家庭でそれに縛られる必要はないでしょう。
 一時いわれた旧厚生省のキャンペーン(1985年)「1日30品目」という「目標」も現在では重要とされません。
    
 「一汁三菜を基本とした和食が世界遺産になった」という表現も見かけましたが「世界無形文化遺産登録」になったのは「和食、日本人の伝統的な食文化 ― 正月を例として」であり、季節や祭事毎の様々な儀礼食であって、それが「失われつつある」ことに対する「遺産登録」であり、「和食が優れている」という事ではなく「ユニークな(独自性のある)文化であった」という事を認めたものです。
 地域に残る季節や祭事の「伝統食」を残すことに意義はありますが毎日「一汁三菜」を作るのは「伝統」とは言えないでしょう。
 本州日本では多くの場合、神事の祭礼食を作るのは「伝統的」に男性であったという点も忘れてはいけません。
   
 「日本料理」や「和食」は誇るべき素晴らしい文化です。
 上手く用いれば美味しく健康的な食生活が可能です。
 ありもしない「伝統」を押し付けるより、先人の努力と工夫をより良い方向へ未来に繋げるべきでしょう。

【関連記事】
日本肉食史覚書 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334
郷土料理資料リンク集  http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20131111/1384101904
韓国・朝鮮食文化史入門 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20140822/1408641082 
新・とんかつの誕生 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150922/1442901832
          
【参考】

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関西に納豆食は無かったのか?

 「関西人はもともと納豆を食べない」のが常識だと理解されている人も少なくはないでしょう。そんな風に書かれた本もあります。
 実は現在の食文化史では「糸引き納豆」が過去に関西で食べられていたという文献資料などが幾つも見つかっています。現在考えられている関西の納豆の歴史を見てみましょう。
    
 「納豆」と呼ばれるものにはいわゆ枯草菌の一種「納豆菌」で発酵させる基本的に無塩の「納豆」「糸引き納豆」の他に「寺納豆」や「浜納豆・浜名納豆」「豆支(これは一字で豆偏に支えると書く、「鼓」は当て字)、シ」といわれる塩とコウジで発酵させた現在の中国の「豆チ(「シ」と同じ字、豆支」)とほぼ同じでこげ茶色から黒い色で乾燥し一粒ずつほぐれ「塩納豆・塩辛納豆」ともいい味噌の原型に近いともされるもの、他にも豆を砂糖などで甘く煮て水分とを飛ばし一粒ずつにほぐれた「甘納豆」もあります(これは浜名納豆に似た甘い煮豆を甘名納豆と称したことから始まるとされる)。海外ではクモノスカビの一種を用いる「テンペ」などもあり「納豆」の一種とされます。
      
 「寺納豆・シ」は奈良時代の史料から見ることができ、糸引き納豆より古くから存在が確認されています。中国から持ち込まれたものでしょう。
 他にも同様なものとして「大徳寺納豆」や「大福寺納豆」なども知られます。より水分が多くやわらかいものでは「もろみ」の一種である「金山寺納豆」「味噌納豆/納豆味噌」と呼ばれるものもあります。 
   
 平安時代の11世紀の作品「新猿楽記」が「納豆」の最初の用例らしいですがこれが糸引き納豆か寺納豆かは両説あり、どちらかといえば寺納豆説が強いようで糸引き納豆の初出とはされません。
 そのころの史料にも「納豆」の例はありますが多くは寺納豆とされます。語源は定かではありませんが「納豆」という言葉自体は日本でうまれた言葉のようです。
 11世紀の武士・源義家を糸引き納豆の起源とする伝説もあります。
   
 寺納豆と糸引き納豆は同類と認識され混同されているともいえます。
 糸引き納豆に塩を振るなどしほぐして乾燥させた保存食「干し納豆」もあり、文献によっては解釈がむずかしいところです。
     
 糸引き納豆の確実なもっとも古い文献資料としては14世紀室町時代の「精進魚類物語」が知られます。
 野菜などの精進料理素材と魚介など動物食素材が擬人化され合戦を行う「御伽草子」の作品です。精進側の大将として納豆太郎糸重というわらの中で昼寝をしたり「糸」をモチーフにした甲冑装束を身に着けたりしていて、これが糸引き納豆であることは間違いないようです。
 この作品は京の貴族によって書かれたとされ二条良基の作ともいわれています、この時代すでに京に糸引き納豆があったといえるでしょう。
   
 続いて応永12年(1405年)12月19日「教言卿記」京の貴族 山科教言(のりとき)の日記に「糸引き納豆」が出てきます。寺納豆も別に出てくるのでこれも間違いありません。
 伝説としては14世紀の光厳天皇法皇)が糸引き納豆の始祖とされます。
  
 天正18年(1590年)「利休百会記」では千利休の茶会で「納豆汁」が7回用いられています。
  
 吉田元によると慶長4年(1599年)の「多聞院日記」の「コハク納豆」を糸引き納豆としますhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/85/3/85_3_167/_pdf (PDFです注意)。

 1603年から1604年にかけて長崎で発行された日葡辞書(日本語をポルトガル語で解説したもの)にも「納豆」「納豆汁」がありそこでの納豆は「糸引き納豆」で「納豆汁」はそれでつくられた汁とされます。      
     
 元禄3年(1690年)京都で出版された「人倫訓蒙図彙」にも「叩納豆 薄ひらたく四角にこしらへ こまごまな菜 豆腐を添へる也 値安く 早業のもの 九月末より二月中売りに出る 富小路通四条上ル町」とありこのころには納豆汁用の叩き糸引き納豆と野菜がまとめて売られていたようです。
  
 安永4年(1775年)の与謝蕪村の俳句に「朝霜や 室の揚屋の 納豆汁」と播州室津で納豆汁があったします。蕪村は関西生まれですが江戸で俳諧の修行をしており江戸の納豆汁も知っているはずです、同じものでしょう。蕪村には他にも複数の「納豆汁」を詠んだ句があります。
   
 江戸では元和9年(1623年)の「醒睡笑」などから17世紀以降の糸引き納豆の例は多くみられます。江戸で糸引き納豆を食べていたとする説に異論のある方はあまり居ないでしょう。
 糸引き納豆は近世には関東も含め多くが納豆汁として食されました。現存する昔の納豆汁のレシピは味噌で味をつけた汁にするか刻むかした納豆を入れるものです。「日本料理文化史(2002年)熊倉功夫」でも近世料理書に糸引き納豆以外の「納豆汁」はないとします。
      
 1850年代までの上方と江戸の風俗を描いた「守貞謾稿(近世風俗志)」に「納豆売り 大豆を煮て室に一夜して これを売る 昔は冬のみ 近年夏もこれを売り巡る 汁に煮あるひは醤油をかけてこれを 食す 京坂には自製するのみ 店売りもこれなきか けだし寺納豆とは異なるなり」とあり当時の京阪では自製して食べられたとしています。
 この文は前半が江戸の糸引き納豆商売を描き、後段で京阪では(元禄期には販売されていましたが)このころすでに同じタイプの糸引き納豆の販売はなくなっていたように書かれます。
      
 明治以降、関西では糸引き納豆は廃れていったようです。もともとそれほど広い範囲で受容されていたわけでもなく関東東北ほど好まれていたわけでもないようで忘れられて行きます。
 西日本では他に熊本にも糸引き納豆の「伝統」があります。現在も消費は多く、山村では自家製納豆も作られるそうです。
    
 関西でも山村では自家製の糸引き納豆の文化は残り、現在の京都北部では現代にいたるまで自家製糸引き納豆を作っていると現地調査も確認されていますhttp://blog.livedoor.jp/kyotomode/archives/51657674.html 。正月に納豆餅で食されることも有るそうです。
   
 他にも大正末から昭和初期にかけての食を聞き書きした民俗資料「日本の食生活全集」の「兵庫」の丹波(P270)にも糸引き納豆の例があり、「平安時代の納豆を味わう 松本忠久」(P37)に東近江湖東歴史民俗資料館の学芸員森容子氏の談話として「湖東町に限らず「糸引き納豆」を家庭でつくるのはこの地方の一般的な風習です」とあり滋賀湖西大津でもhttp://www.city.otsu.lg.jp/kanko/tokusan/nosui/27y/11m/1447893280799.html「関西では馴染みが薄いと云われている納豆ですが、比叡山延暦寺門前町坂本の僧坊では精進料理として、また隣の仰木地区では伝統祭事に納豆餅が使われるなど、大津では昔から一般生活の中で広く親しまれてきました」とあり思いのほか広い範囲でつくられています。 
 和歌山でも納豆集落が発見されていますhttp://www.sankei.com/west/news/160301/wst1603010022-n1.html
    
 第二次大戦前の昭和9年京阪神エリアの納豆メーカーの存在も確認されていますhttp://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65465922.html
    
 最終的には第二次大戦期の食料統制と戦後の食糧難で完全に文化が途絶え(食の昭和史 とっておきの文化食 藤田忠雄 P106 )、一部を除けば戦中戦後にはほぼ完全に断絶があったといえます。
 戦後の関西では糸引き納豆を食べる習慣を持つ人は少なく現在でも消費量は国内最低レベルです、西日本全体でも東日本とはほぼ比較にならない個人消費量です。もともとなかったと考えるのも無理はありません。
   
 現在でも納豆の起源は良く分かっていません。京都から関東東北に広まったものか、関東東北などから京都に入ったのか、東南アジアや韓国にもあるので海外から来たのかそれとも日本でも別に独自で生み出されたのか多くの説があります。

 食文化史も日々進歩し、新たな史料の発見や調査も進んでいます。古い資料や個人の体験からの「思い込み」は客観性に欠ける俗説をうみだしかねません。
 「昔の関西でも糸引き納豆を食べていた」は現在の食文化史の定説といえるでしょう。

【参考】
 日本の食と酒―中世末の発酵技術を中心に 吉田元 人文書院 1991 
 納豆の起源 横山智 NHKブックス 2014
 謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉 高野秀行 新潮社 2016
 納豆のはなし 石塚修 大修館書店 2016
 日本の食文化史――旧石器時代から現代まで 石毛直道 岩波書店 2015 

現代日本ファンタジー・幻想小説概観(大人向け)

 前に「今どきの日本ハイファンタジー小説 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20141015/1413298829」を書きました。
 異世界を舞台にした「ハイファンタジー」を中心に紹介しましたが日本国内のその他のファンタジー小説幻想文学/小説も調べた範囲で紹介してみましょう。この記事では広義の「ファンタジー」を扱います。
 ローファンタジー、エブリディマジック(日常魔法)、ヒロイックファンタジー、歴史ファンタジー、ダーク/ホラーファンタジー幻想文学などが中心の記事になります。定義については上記『ハイファンタジー』記事も参考に。*1
 「今どきのハイファンタジー小説」では読んだ作品の感想と紹介を書きましたが今回は現時点では読んでいない作品が多数です。*2
    
 この記事では児童文学や、現在では最大ジャンルといえる「ライトノベル」系は欧米ではヤングアダルトといわれる少年少女や若者向けの作品になると考えますので基本的には触れません。ファンタジージャンル的には数分の一程度のそれほど幅広くない範囲の2000年以降の状況を中心とした限定的な概観にすぎないという点はご容赦ください。ジャンル分けは曖昧な部分が有りますが主観的に判断しています。
 児童文学やライトノベルのファンタジーについては手に余りますのでどなたか他の方にお願いしたいところです。
      
 近年、一般文芸小説でもファンタジー要素は取り入れられ、死んだ人がよみがえったり、幽霊や天使や死神が登場したりする作品がヒットするようになりました。恋愛や家族、人の生き様を描く作品の舞台設定やストーリーの主軸にファンタジー設定が取り入れられるようになり、ある意味ではジャンルとしては拡散しているも言えるでしょう。
    
 とくに「ファンタジー」とはされない作品でファンタジー要素が読者からも認められるのはジャンルとしては良いのか悪いのかはわかりません。推理小説では「事件小説」が一般小説にも多くみられ、SFでも超能力やタイムトリップや人格交換(入れ替わり)が基本的に「SFではない」とされる小説でも普通に取り入れられています。
 結果的にイメージの陳腐化とそれに対抗するジャンル小説の先鋭化という事にもつながりますが一つの流れであるとは言えるでしょう。
   
 ここで「ファンタジー/幻想小説」とするのは作品の内容を確認したものや内容紹介又は出版社作者の見解によるものから独断で判断しました。
       
 エブリディマジックでは恩田陸の「常野(とこの)物語シリーズ」の『光の帝国』『蒲公英草紙』『エンド・ゲーム』、ファンタジーミステリーの『ネクロポリス』。
    
 児童書や絵本も書く梨木香歩の幻想的エブリディマジック『家守奇譚』『冬虫夏草』など。
   
 森見登美彦の『太陽の塔日本ファンタジーノベル大賞)』『ペンギン・ハイウェイ日本SF大賞)』『有頂天家族』など多数。
     
 小路幸也の『猫と妻と暮らす 蘆野原偲郷』『話虫干』『すべての神様の十月』もエブリディマジック、他に『キサトア』『蜂蜜秘密』や『旅者の歌』といった異世界ファンタジーも有ります。
         
 直木賞作家宮部みゆきは『ドリームバスター』シリーズ『ブレイブ・ストーリー』『英雄の書』『ここはボツコニアン』シリーズ、異世界冒険(ゲーム系も含む)ファンタジーが多数。
 
 沢村凛『ぼくは〈眠りの町〉から旅に出た』『通り雨は〈世界〉をまたいで旅をする 』。
   
 芥川賞作家川上弘美『七夜物語』『大きな鳥にさらわれないよう(泉鏡花文学賞)』。

 直木賞作家桜庭一樹『伏―贋作・里見八犬伝』『ほんとうの花を見せにきた』。
   
 直木賞作家荻原浩『金魚姫』『愛しの座敷わらし』など。
  
 伊坂幸太郎夜の国のクーパー 』。
 
 有川浩佐藤さとるの「コロボックル」シリーズを書き継いだ『だれもが知ってる小さな国』。
             
 いしいしんじの『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』など。

 江國香織『すきまのおともだちたち』。

 あさのあつこ異世界往還もの『ミヤマ物語』シリーズなど。

 村上春樹も『海辺のカフカ』で世界幻想文学大賞アメリカを中心とした英語圏の賞)をとっています。他にも『1Q84』などファンタジー系ともされる作品は少なくありません。
    
 この辺りはファンタジー以外の現代小説も多く書く作家の作品です。
   
 一般的な現代小説、ミステリー、青春小説、恋愛小説などで知られる作家がファンタジーも書いているというのは少なくありません。
 そしてほかにもファンタジー幻想文学的な視点を含む作品は幅広くあります。
     
 アーシュラ・K・ル・グィンが書いていた覚えがあるのですが「純文学」とされるマジックリアリズムとファンタジーは近いともしています。ファンタジー幻想文学というジャンルを厳密に分類するのは難しい部分も有ります。
  
 ただ一部では作家のファンで現代(リアリズム)小説の読者の方がファンタジー的な作品に戸惑いを感じているという感想も見ます。
 「ファンタジーが読めない」読者も少なくはないようです。
 
 夢枕獏の『陰陽師』シリーズや荒山徹の時代伝奇小説などもファンタジーともいえるでしょうか。
 田中芳樹のヒロイックファンタジーアルスラーン戦記佐藤大輔の戦争ファンタジー皇国の守護者』も現時点では「続いています」。『グインサーガ』も作者の遺志を継ぎ書き続けられています。*3
  
 エブリディマジックに分類されるタイプの作品では万城目学(まきめまなぶ)の現代関西奇想譚『鴨川ホルモー』『鹿男あおによし』『偉大なるしゅららぼん』『プリンセス・トヨトミ』など。時代もの『とっぴんぱらりの風太郎』もあり現代日本の代表的なファンタジー小説家のひとりです。何度も直木賞候補に挙げられています。
        
 推理作家米澤穂信の中世英国歴史ミステリーファンタジーの『折れた竜骨』は日本推理作家協会賞を受賞。
        
 古川日出男は虚実の入り混じる幻想的歴史オリエンタリズムの怪作『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞日本SF大賞を受賞。
    
 SF出身でホラーやサスペンスで知られる貴志祐介日本SF大賞受賞作でアニメ化もされた『新世界より』はホラー的な手法で描かれたSFディストピアファンタジー
     
 SFファンタジーでは恒川光太郎の『スタープレイヤー』『ヘブンメイカー スタープレイヤーⅡ』もあります。他の作品『夜市』『雷の季節の終わりに』『秋の牢獄』『草祭』『南の子供が夜いくところ』『竜が最後に帰る場所』『金色の獣、彼方に向かう』といった和風ホラーと、SF時代もの『金色機械(日本推理作家協会賞)』もファンタジー又は幻想文学といってよい作品です。大人向け「ファンタジー作家」といえます。
   
 ホラー系では乙一/山白朝子もあります。乙一名義では初期のライトノベルにファンタジー要素のある作品も多く近作では『Arknoah』シリーズと山白朝子名義の『死者のための音楽』『エムブリヲ奇譚』『私のサイクロプス』など。
  
 飴村行もホラーにも扱われますがダーク(グロテスク)ファンタジーともいえるでしょう。『粘膜人間』『粘膜蜥蜴』『ジムグリ』など。
 ホラーとファンタジーが背中合わせの世界なのは小野不由美の『魔性の子』で示されましたがある種のファンタジーも現実の社会から見ればホラーになるといえます。坂東眞砂子小林泰三遠藤徹なども作品によってはファンタジーに含まれるでしょうか。
    
 中国志怪小説を基にした勝山小百合の『さざなみの国(日本ファンタジーノベル大賞)』『狂書伝』『玉工乙女』なども幻想的。

 中国歴史ものでは仁木英之の人気作『僕僕先生(日本ファンタジーノベル大賞)』シリーズや『千里伝』シリーズ、軽快で読みやすい作品。他に『黄泉坂』シリーズや異世界ヒロイックファンタジー『高原王記』なども。多くのファンタジーを手掛けています。
 
 江戸妖怪ものでは畠中恵しゃばけ日本ファンタジーノベル大賞優秀賞)』シリーズなど多数。代表的な日常系妖怪交流ものです。こちらも現代日本の(軽めの)ファンタジーのたいへん人気もある重要な作家です。
   
 軽妙な歴史ものは他にも多くあります。『僕僕先生』や『しゃばけ』はライトノベルに近い作品でしょうか。
 時代・歴史ものだけではなく現代ものでも妖怪&幽霊交友、「ゴーストバスター」タイプのエンタテインメント作品は他にも少なくありません。
 英米の魔法使い魔女ものに対応する日本的なエブリディマジック(日常不思議)の独自性なのかもしれません。「魔法が使える」より「あやかしと付き合える」ほうが説得力を感じるのでしょうか。日本でも「魔女」ものは児童向きだと少なくないですが大人向けは多くありません。
 陰陽道や時には(現実とは異なる)忍術などの東アジア系の魔術などを用いる異能もの退魔ものなどが欧米の魔法ものに対応するファンタジー要素だといえるでしょう。
   
 京極夏彦の妖怪もの『豆腐小僧』シリーズ『虚実妖怪百物語』など。
  
 1989年から2013年まで続き、2017年に再開する日本ファンタジーノベル大賞幻想文学も含む広義のファンタジ―、2000年以降のほかの受賞作も。
 斉藤直子『仮想の騎士』
 粕谷知世『クロニカ 太陽と死者の記録』。
 西崎憲『世界の果ての庭』。
 小山歩『戎』。
 渡辺球『象の棲む街』。
 平山瑞穂『ラス・マンチャス通信』。
 越谷オサム『ボーナス・トラック』。
 西條奈加『金春屋ゴメス』
 堀川アサコ『闇鏡』。
 弘也英明『厭犬伝』。
 久保寺健彦ブラック・ジャック・キッド』。
 中村弦『天使の歩廊 ある建築家をめぐる物語』。 
 里見蘭『彼女の知らない彼女』。
 遠田潤子『月桃夜』。
 小田雅久仁『増大派に告ぐ』。
 紫野貴李『前夜の航跡』。
 石野晶『月のさなぎ』。
 日野俊太郎『吉田キグルマレナイト』。
 三國青葉『かおばな憑依帖』。
 関俊介『絶対服従者(ワーカー)』。
 古谷田奈月『星の民のクリスマス』。
 ここで書いたほかの多くの賞は発表された作品を評価するタイプですが日本ファンタジーノベル大賞は未発表の作品を公募し、その作品を出版し賞金も出すタイプの賞です。
 多くの人気作家を輩出しています。http://www.shinchosha.co.jp/prizes/fantasy/archive.html
 
 主として児童文学で活躍する「ファンタジー作家」廣島玲子の『鵺の家』と江戸妖怪もの『妖怪の子預かります』シリーズ。
 エブリディマジック真園めぐみ『玉妖奇譚』。
 創元社はファンタジーに力を入れています。
  
 SF作家梶尾真治『猫の惑星』『アラミタマ奇譚』。

 上田早夕里の『セント・イージス号の武勲』『妖怪探偵・百目』シリーズなど。
  
 川添愛の『白と黒のとびら: オートマトン形式言語をめぐる冒険』『精霊の箱: チューリングマシンをめぐる冒険』は数学や数理情報科学と言語処理について描くユニークな作品。
  
 千早茜の幻想的な時代ファンタジー『魚神(泉鏡花文学賞)』『あやかし草子』や現代もの『夜に啼く鳥は』など。
    
 藤水名子『赤いランタン―中国怪奇幻想小説集』。
     
 南条竹則『魔法探偵』『鬼仙』。
      
 現代伝奇ファンタジ―横山允男『水の精霊』シリーズ。
     
 ハイファンタジーが多い乾石智子の『双頭の蜥蜴』は珍しく異世界往還もの。

 澤見影『奥羽草紙』シリーズや『ヤマユリワラシ』。
   
 中村ふみ『裏閻魔』シリーズ。
   
 異世界ファンタジーの佳作、五代ゆう『〈骨牌使い(フォーチュン・テラー)〉の鏡 』。今は『グインサーガ』シリーズを書いています
    
 宇月原清明の『安徳天皇漂海記』『廃帝綺譚』『かがやく月の宮』は幻想的な歴史ファンタジー
    
 ファンタジー幻想文学の区別は難しいですがここからは特に幻想文学的と思えるものです。個人的な見解としてはファンタジーより物語性に重きを置かない、または現実世界の裂け目を向ける作品だと認識しています。
    
 代表的な作家としてはまず山尾悠子を挙げましょう。1970年代から80年代前半にかけてカリスマ的な作家でしたが休筆。硬質な作風。2000年以降『ラピスラズリ』『歪み真珠』を発表、旧作も『増補 夢の遠近法 : 初期作品選』で読めます。
   
 長野まゆみは1980年代末から現在まで旺盛な制作活動を続けます。比較的に読みやすく叙情的で軽やかな文章ときらめくイメージ。『メルカトル』『カルトローレ』など。泉鏡花文学賞受賞。

 ミステリーや一般小説も書く津原泰水幻想小説は『奇譚集』『11』『バレエ・メカニック』など。比較的平易な幻想奇譚『蘆屋家の崩壊』『ピカルディの薔薇』『猫の眼時計』なども。
    
 1990年代はじめまで多数の幻想小説を書いた谷山浩子が20年ぶりに新作『Amazonで変なもの売ってる』を発表。
  
 笙野頼子の『金毘羅』『萌神分魂譜』『海底八幡宮』なども幻想文学といえるかもしれません。
  
 ホラーとまた違う形で現実にくいこむ「幻視文学」としては皆川博子。膨大な作品が有りますが2000年以降ものでは短編集で『猫舌男爵』『少女外道』長編では『伯林蝋人形館』『双頭のバビロン』など。歴史小説推理小説の形でも書かれ作品によって「幻想度」が異なりますが長編は絢爛な物語で短編は鋭利なイメージ、長編小説の女王で短編小説の魔女。直木賞文化功労者

 他にもSFやミステリーのジャンルでもファンタジーにも分類できる作品、現代小説や時代小説とされる作品でファンタジー幻想文学といえる作品もあるでしょう。
 
 ネットで検索していると批判的に「日本はファンタジー後進国」「日本のファンタジーは独自性がない」だとか「今のファンタジーはありきたりなものばかりだ」というような意見を書かれるのを一部で目にしたりもします。
 
 もちろんネットでは目立つ小説投稿サイトやライトノベルでは「内容の軽い」「テンプレート」を用いた作品も多く、オリジナリティがそれほど強くない作品も人気を得ているのも事実です。
 しかしそれが何か問題のある事なのでしょうか。
   
 そういった作品は読者の敷居も低く、簡単に楽しむことができ、キャラクターに感情移入や愛着を持ちやすく、好みに合えば生活を豊かに出来る優れたツールです。
 日々のストレスや面倒な現実からの息抜きとしては何の問題もない、むしろ毎日でも楽しめる、ファンタジーの一つの目的である「日常からの飛躍」という点ではすぐれた作品であるという事が出来ます。
 多くが入りやすく、ストレスが少なく読め、飽きさせない工夫がされている「サービス」の良い作品です。平易な文章、スピーディーな展開、「キャラクター小説」ともいわれ基本的にはいちいち読者の価値観を大きく揺さぶったりはしません。「お約束」をベースに楽しむ読書です。(好きな作品もあります)
 基本的にはライトノベルは本来的には読書経験の少ない少年少女、大人であっても「低コスト」で読書を楽しみたい人に向けられた作品です。
   
 ジャンル小説の娯楽作品の多くがそのジャンルの「お約束」を用いた「テンプレート」を用いた作品です。ごく一部の作品が新たな「テンプレート」をつくり、多くの作品がそれを利用しその中で個性を表現し、一部の作品がそれを発展させときには逆手に取ります。
 読書などの創作物を用いる娯楽は文化的な文脈・前提に基づき理解されます。基本的には「テンプレート」そのものが問題では無いはずです。推理小説において『モルグ街の殺人』で成立した「名探偵」、ウェルズで一般化した「タイムマシン」の「テンプレート」を否定する人は少ないはずです。
 「軽い」作品が受け容れ易いのも当たり前です。金銭以外のコストを受け手に求めるジャンルは一般的に広く理解されないでしょう。「ライト」な作品から市場から評価されるのはやむを得ないでしょう。共通の前提に基づく作品は多くの場合「読み易い」はずです。
    
 一方、この記事や前の「今どきの日本ハイファンタジー小説」で描いたような子供や若者には難しいかもしれないような作品、オリジナリティの強いファンタジー作品も日本では多く発表されています。
 何度か見かけた「日本のファンタジー小説指輪物語の真似ばかり」というような言説は事実ではありません。
 多くの作家が独自のファンタジーに挑戦し、すぐれた作品が多くあります。「すみわけ」がされ必要とする読者にはある程度は届いているように感じます。発表する場や「レーベル」によって作品のタイプが変わるのは特に問題はないでしょう。
     
 逆に「日本ファンタジー」を批判する方はどれだけのファンタジー小説をお読みなのでしょう。こちらで書いたような作品を具体的に挙げて論じている方は見かけません。
 何かを論評する場合、その何かについての基本的な事実関係をおさえるべきだと考えます。無知に基づく推測で論評すれば同じように無知で不勉強な人の支持を得られるかもしれませんがそういうのを「藁人形論法」ともいうはずです。
 偏見に基づく粗雑な感情論になりがちです。建設的は論評にはなりにくいでしょう。
  
 目につきやすいライトファンタジーなどだけを見て単に否定しているだけに見える意見が少なくないように思います。
 ライトファンタジーなどはファーストフードやコンビニ食の様なもので誰にでも手に取りやすく敷居も低い(十分においしい)もので、ここでいう大人向けファンタジーなどはレストラン料理のようなもので作品によって異なる敷居も高く素養や集中力を必要とする(好き嫌いもある)もの、両方ともある現代日本は独自性のある幅広い作品が存在する悪くはない状況だといえると思います。
 日本でも「ファンタジーゲーム」「ハリー・ポッター」「ライトノベル」などを経て、徐々にファンタジーの地位も向上してきているといえるのかもしれません。
  
 これには反論があるかもしれません、英語圏のファンタジーの方が質量ともレベルが高い、若者向けファンタジーでも英米では「硬派」な作品も多い、といったものです。
 
 しかし英語圏の読者は日本語圏の読者よりはるかに多く、人口は少なくとも4〜5倍を超え場合によっては英語読者は10倍近いといえるでしょう。作品も多いのは当然で、翻訳されるものはすでに評価された良作傑作の比率が高いのは当たり前です。
 この記事や前の「今どきの日本ハイファンタジー小説」などで書いた作品のうち上位20作位だと「世界レベル」に達していると思います。児童書やライトノベルでも優れた作品もあるでしょう。
 個人的な見解としては少なくとも2000年以降は毎年のように大人向けの「傑作ファンタジ―」が発表され「良作ファンタジー」も毎年複数はあると認識しています。*4
 もちろん「剣と魔法」や「魔法使い」「エピック(叙事詩)ファンタジー」での英米作品の「強さ」は認めざるを得ません。日本のファンタジー市場でも翻訳ものは重要な役割を果たしています、国産がくいこむのは容易ではありません。
       
 それと日本には「マンガ」や「アニメ」の大市場が有りそこで多くの「ファンタジー」が書かれ、日本のファンタジー需要の多くを占めています。「鋼の錬金術師」「七つの大罪」「イムリ」などが知られますが実際は「ONE PUECE」や「NARTO」などもれっきとしたファンタジー作品だといえます、「ハイファンタジー」に分類することも可能です。他にも数多くのファンタジー作品がマンガで占められ、硬派な作品も数多くあります。英米圏ではマンガコミック市場は小さく(仏語圏ではバンドデシネもありますが)日本よりも活字文化の役割が大きいのは当然でしょう。
 欧米の「剣と魔法」や「エピック(叙事詩)ファンタジー」の役割の一部を日本ではマンガが担っているとも考えられます。
 ついでにもう一ついえば時代・歴史小説が特にアメリカの戦記剣劇ファンタジーの役割も果たしているのかもしれません。*5
    
 とはいえ硬めのファンタジー作品で売れているのはごく一部で小野不由美の(もとは「ライトノベル」ともいえるが)『十二国記(現時点で10巻)』が累計800万部以上(1000万部近いかもしれない)、上橋菜穂子が『守り人(全12巻)』シリーズが500万部くらいらしく『獣の奏者(全5巻)』シリーズが300万近く(これらは文庫も含む)、『鹿の王(本屋大賞受賞)(上下2巻)』も単行本だけで100万部とごく一部に人気が集中し、他には『八咫烏(現在5巻)』シリーズが現時点で65万部(文庫含む)だとかで、売れるモノは売れていて、他に軽めものでシリーズ化されている作品などは人気が有りますが大人向けの「硬派」なファンタジ―が一般にそれほど売れないのは事実でしょう。
   
 ライトノベル系のファンタジーの方が売れている作品は多いようで書店に行くと何万部売れているとの宣伝文句を見かけます。シリーズ化される作品が多いのはそれだけ売れているという証明です。
 商業小説というのは売れなければ作品を出させてはもらえません。比較的売れる確率が高いと思われるライトノベルのファンタジーが数が多く目立つのは仕方がないことです。
 硬めのファンタジー幻想小説を盛んにしたいのなら読者が増えないと仕方がないでしょう。 一般小説のファンタジーライトノベルでもそこそこ硬派な作品を書く新人らが書いた良い小品、佳作がそれほど話題にならず、埋もれてしまっていることも有ります。
 幻想を友とし、想像力の翼をひろげる書き手や作品は少なくはありません。オリジナリティのある作品もこの先、増え続けるでしょう。
       
 ただ、ライトノベルも結構ですが、それほど「サービス」の良くない「大人向け」のファンタジー作品ももっと読まれてほしいと感じます。
 ライトノベル「慣れ」している方にとってはその形式から外れたタイプの作品は読みにくいかもしれません。
 なんだかんだといっても大人向けファンタジーは欧米ファンタジーでも一部を除けば日本ではマイナージャンル。ライトノベル国産ファンタジーと比べると中規模書店あたりの売り場面積を見れば市場規模の違いは明らかでしょう。
 そしてリアリズムでない作品に共感できない大人もまだまだ多いでしょう。
 国内の「大人向け」ファンタジー幻想小説の市場は大きくはありません。もしこの記事で一人でも多くの読者が増えるのならばうれしいと思います。 

*1:よりファンタジー幻想小説について興味があれば荒俣宏『別世界通信』種村季弘東雅夫の著述・アンソロジー・編集、小谷真理井辻朱美の著作、アーシュラ・K・ル・グィンやリン・カーターのファンタジー論も参考に。

*2:2018年中くらいにはなんとか内容にも触れる「21世紀日本ファンタジー小説ベストセレクション(仮題)」を書くのを目標としています。

*3:ちなみに「オールタイム」の有名ライトノベル異世界ファンタジーとしては『ロードス島戦記』『アルスラーン戦記』『デルフィニア戦記』の「三大戦記?」や『魔術士オーフェン』『レイン』『皇国の守護者』等があり、『彩雲国物語』『風の大陸』『流血女神伝』辺りも大河ファンタジ―。『スレイヤーズ』『キノの旅』『フォーチュン・クエスト/デュアン・サーク』『翼の帰る処』『狼の香辛料』はもう少しライトなタイプの異世界ファンタジーといえるでしょうか。

*4:アメリカではヒューゴー賞ネビュラ賞がSFとファンタジ―双方の賞でローカス賞にファンタジー部門が有り、世界幻想文学大賞など多くのファンタジー全般の商業作から選ぶ賞が有りますが、日本では日本SF大賞は基本的にSFだけ、泉鏡花文学賞もファンタジ―中心ではなく、公募賞を除く大きなファンタジー賞がないのは残念です。アメリカではSF作家がよくファンタジーも書きます。

*5:日本の小説市場での翻訳と国産の力関係としてはエピックファンタジーや魔法ファンタジーでは英米が強く、「ハーレクイン」系などのロマンスでは英米が強いものの国産が追いすがっていて、SFはほぼ対等で、ミステリーとその他のファンタジーでは国産の方が少し上、一般文芸と「文学」系や時代・歴史ものでは国産の方が強いという認識です。海外ノーベル賞作者でも「古典」を除けば「文学」系はそれほど売れないのも事実でしょう。

読書メモ抜粋その5

はてなブックマーク」に書いている「100字読書メモ」の一部、現在200冊強の簡易紹介です。
 飲食、酒造、歴史、刃物、銃刀、軍事等。
 最新>http://b.hatena.ne.jp/settu-jp/?url=http://www.amazon.co.jp/

世界を変えた火薬の歴史

世界を変えた火薬の歴史

練丹術から生まれ宋で実用化された新兵器が豊かで安定したユーラシア中央を通り過ぎ貧しい戦乱の西欧で育ち近代帝国主義を生む契機となる。アフリカ・アジア史も技術・社会史も大変読み応えがある。出典等不載 2013/06/15

近代料理書の世界

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維新以降戦前までの日本近代料理出版史の重要な資料調査。800点にも及ぶ現存文献の所在と基礎情報、その内100点の簡易紹介と史料の背景等の解説。気になる部分もあるが大変な労作http://www.wendy-net.com/nw/woman/woman234.html 2013/06/30

戦場の精神史  ~武士道という幻影 (NHK出版)

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近年「サムライ」概念で用いられるフェアプレイ「武士道」が中世戦国期の軍事リアリズムとして存在せず政治的建前から徳川期以降に再構成され始め武士滅亡後の明治以降に創作された事を多くの史料から示す 2013/07/06

マッコリの正体――その歴史と文化

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韓国庶民酒だったマッコリ(マッコルリ)。近年復興期を迎えてきた「どぶろく」家醸の伝統と新技術・革新の紹介。飲料だが発酵食・スープの機能も持つ。社会の変化と酒造法規の近現代史も興味深い 2013/07/16

工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

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産業革命の立役者近代金属機械、それ以前には考えられなかった精度と強度、ダビンチの夢を現実にし蒸気機関を実用品にした工作機械・マザーマシンの発展をエンジニアの視点から細部にわたり描き出す。難解だが名著 2013/07/24

ナチュラルとヘルシー―アメリカ食品産業の変革

ナチュラルとヘルシー―アメリカ食品産業の変革

1966~88年の米食品史の一面。資本主義に対抗するヒッピー文化反体制的料理から派生したナチュラル。科学的な立場から対立していた主流派側もヘルシーがビジネスになると手の平を返す。マクガバン報告の実像も 2013/07/27

料理の科学〈1〉素朴な疑問に答えます

料理の科学〈1〉素朴な疑問に答えます

ワシントンポストで連載された化学者による料理を通じた自然科学入門書。高品質で素晴らしい大人の教科書。素材や調理についての現在の科学による解説。日本人向きとは言えない表現もある、幾らか異論もあるが… 2013/08/06

料理の科学―素朴な疑問に答えます〈2〉

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米の学者の料理を通じた科学入門。熱冷(エネルギー)飲料(液体)電子レンジとキッチンテクノロジー(テフロン計量検温IHコンロ光調理放射線冷蔵柑橘の搾り方等)。面白く勉強になる。レシピ付き

品種改良の日本史―作物と日本人の歴史物語

品種改良の日本史―作物と日本人の歴史物語

同世界史の続編。代表的な15種類の農作物の日本での品種改良の歴史を学問的な知見に基づき紹介。伝来と移入、伝統的な選抜、近代の改良、生産と流通の変化と技術の進歩を描く。情報量が膨大で刺激的 2013/08/19

戊辰戦争 (戦争の日本史 18)

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戊辰戦争」幕末動乱を軍事史の視点で。ライフル銃による戦術・編制の大転換と蒸気船による展開流通速度の変化から維新を描く。兵站や輜重、財務も詳しい。住民の戦禍・動員、最後の戦国的武士戦争の側面も。高水準 2013/08/30

ファッションフード、あります。: はやりの食べ物クロニクル1970-2010

ファッションフード、あります。: はやりの食べ物クロニクル1970-2010

日本が最先端を行く情報消費産業ともいえる流行食ファッションフード。中公シェフ編集長等料理記者としてその中にいた著者による外食と社会の膨大な記録、当時の資料を用い時代を描く。凝った装丁レイアウト。満腹 2013/09/07

図説 戦国時代 武器・防具・戦術百科

図説 戦国時代 武器・防具・戦術百科

戦国時代とあるが中世から近世前近代迄の軍事技術発展史。武器戦術編制の世界的視点も踏まえる、散兵の利用等重要な指摘も。甲冑弓刀槍鉄砲大砲。図版多数。旋条についてはネジと混乱か。近藤好和ら他書と読み併せを 2013/10/06

スパイスの人類史

スパイスの人類史

近代以前の代表的な60種類のスパイス(乾燥香料)の利用と伝播を丁寧な史料批判・分類同定から描く。歴史・人類学から植物学、言語学にも及ぶ膨大な研究。交易の世界史ともいうべき大著。国際的な賞も多数 2013/10/27

チーズの歴史 5000年の味わい豊かな物語 (P‐Vine BOOKs)

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様々な伝説に彩られたチーズ発展史を食物史で著名な言語学歴史家が数少ない史料の綿密な考証から実像を探る。コンパクトだが高度な内容で基礎知識が必要、少し読み辛いが広範囲な興味深いエピソードの数々 2013/11/03

インドカレー伝

インドカレー伝

英国や日本等で「カレー」といわれるインドの料理。その成立と発展、伝播を描く大著。インド世界の食文化が多くの外来文化からの影響もあり変化し続けそれが外部に発信される。欧州の介入支配の歴史も詳しい 2013/11/10

 文庫化済https://www.amazon.co.jp/dp/430946419X

世界の食文化〈8〉インド

世界の食文化〈8〉インド

宗教地域カースト性差が複雑に絡み合うインド世界の食、研究者として在印経験も長い夫妻が祭祀とも関わる食文化の概観と歴史・今を描く。肉食菜食、味覚、家庭料理や食材香辛料器具技法。社会論としても高水準 2013/12/01

日本銃砲の歴史と技術

日本銃砲の歴史と技術

日本銃砲史学会の読み応えある論文集。導入展開の様々な論点、人脈や制度、科学的技術検証。多彩なアプローチから実像を炙り出す。砲史や外交の新視点、明治郵便史、火薬発達史、素材加工解析が興味深かった 2013/12/09

読書メモ抜粋その4

はてなブックマーク」に書いている「100字読書メモ」の一部、現在200冊強の簡易紹介です。
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雑穀の自然史―その起源と文化を求めて

雑穀の自然史―その起源と文化を求めて

生産性や加工の事情で主穀にならなかった雑穀と呼ばれる植物の種子。今も世界で作られる知られざる農業史の脇役の多様で豊かな歴史。穀物になれなかった「雑草」達も。民族農業育種植物学等専門家の興味深い研究 2013/01/03

朝鮮からみた華夷思想 (世界史リブレット)

朝鮮からみた華夷思想 (世界史リブレット)

韓半島特に朝鮮王朝期の中華文明・儒教の受容と内面化において為された華夷思想の解釈と現実の政治の中で王権両班層らの統治論理の中での抽象化された「中華」。東アジア近代以前の非対称外交。元号や性理学等新儒学 2013/01/27

清朝と近代世界――19世紀〈シリーズ 中国近現代史 1〉 (岩波新書)

清朝と近代世界――19世紀〈シリーズ 中国近現代史 1〉 (岩波新書)

中国清朝が西洋近代との対峙に苦悩しながらも立ち向かい力尽きた姿を描き出す。優れた皇帝と完成された政治機構を持つ豊かな大国が滅びる不運。政治経済についても詳しい。良書。軍事技術については他の本で補足を 2013/02/23

パイの歴史物語 (お菓子の図書館)

パイの歴史物語 (お菓子の図書館)

パンとは似て非なる歴史を持つ「小麦粉”料理”パイ」。定義すら容易でないその歴史の興味深いエピソードを縦横無尽に語りつくす。容器として、建材として、楽しみとして、恐怖としてのパイ。面白いが要検証の部分も 2013/03/10

銃器大百科

銃器大百科

正しくは「小火器発展史」とすべき大著。軍用銃砲の成立について大変詳しく勉強になる。ただ見解に偏りもあり要検証、一部典拠がわかりにくい部分は残念。343Pの写真は間違い 2013/03/25

メロンパンの真実

メロンパンの真実

実は正体不明のメロンパン。日本独自の菓子パン文化にまでも視点を広げる探求の旅。取材コストの都合か物足りない部分もあるが丁寧。軽い本だが科学記者、裏取りも有る。文庫化済/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37294 2013/03/31

ファミリーレストラン 「外食」の近現代史 (光文社新書)

ファミリーレストラン 「外食」の近現代史 (光文社新書)

日本の食と生活の大きな画期ファミリーレストラン。近代外食の成立から戦後消費社会と共に歩んだ歴史。公刊情報から資料を纏めた労作、著者の本では最良。気になる点も有るが具体的で軽く読み易い 2013/04/05

ハンバーガーの世紀

ハンバーガーの世紀

グローバル経済の食の怪物ハンバーガー。20世紀に生まれ世界を席巻し愛され憎まれた小さな征服者。米国の田舎で発明された軽食が時代の要請と個性豊かな起業家の創意で巨大産業へ。米国史中心。情報の扱いは丁寧 2013/04/21

維新から敗戦までの陸海軍マネジメント。藩閥官軍から国軍への移行、属人要素を廃した非政治的軍を目指す制度改革、軍官僚による自立から軍主導の総力戦体制への変容。最新実証研究論文集。バイアスが少なく面白い 2013/05/01

中国「反日」の源流 (講談社選書メチエ)

中国「反日」の源流 (講談社選書メチエ)

タイトルは怪しげですが中国近代・国際関係史の専門家が近世からの日中相克、実は大きく異なる日清両国の政治体制社会制度から近代「ウエスタンインパクト」への対応を描きます。具体的で大変面白い 2013/05/19

魯山人と星岡茶寮の料理

魯山人と星岡茶寮の料理

魯山人のレシピの再現は比較的シンプル。店秘蔵の良作魯山人(工房)器の盛り付け競演は楽しい、桃山陶から宗和までの美的センスの再構成がわかる。後半T氏による新資料注釈(活動前期中心)は興味深い、マニア向け 2013/05/28

味覚と嗜好のサイエンス [京大人気講義シリーズ]

味覚と嗜好のサイエンス [京大人気講義シリーズ]

「美味しさ」を生み出す「味覚」と「嗜好」を検討。食品・栄養化学から現在の生理学等の研究成果を紹介。大変勉強になる。読み易く情報量も多いが幾らか先走りの仮説と文化論は偏りも 2013/06/08

世界のウスターソース類

 日本以外の海外のウスターソース類について調べてみました。

 オリジナルのウースターソース(又はウースターシャ―ソース)はインドのスパイスを基にイギリスで生まれたものとされます。モルトヴィネガーにアンチョビとスパイス、塩・砂糖と香味野菜を入れ熟成させたものです。
       
 英米を中心に欧米では元祖である「リーペリン LEA&PERRINS」がスタンダードで(実はイギリスとアメリカではレシピが異なり味が違うらしい)、その類似品も有ります。アメリカの「ハインツ」ブランドの物もひろく売られているようです(リーペリンも現在ハインツ社傘下)。
 多くは直接かけそれだけで味をつけるというよりも隠し味などに使うスパイスソースの役割です。
 同じようなソースには沖縄でもよく使われる「クラフト」の「A.1ステーキ・ソース」もあります。
 もともとイギリスのブランドらしい(現在ハインツが生産する)「HP」のブラウンソースはお好み焼きソースにも少し似た甘めのソースらしいですhttp://www.heinz.co.uk/en/products/hp-sauce/products/hp-brown-sauce
 デンマークでは「Engelsk(イギリス)Sauce」といわれ「ボ―ヴェ」http://www.beauvais.dk/produkter/saucer-og-dressinger/saucer/beauvais-engelsk-sauce.aspxがあります。
 欧州の他の国でもローカルなウースターソースタイプのソースは幾つもあるようです、ベジタリアンや「自然派食品」のジャンルでも独自のウスターソース類がカタログに載せられているのも見かけました。
    
 日本では明治時代から作られますが「西洋醤油」として日本化され、野菜エキスや発酵成分・アミノ酸を多く含む甘味やうま味をより効かせたタレとして独自の進歩を遂げました。
 濃度のあるとんかつソースや中農ソース、お好み焼きソース等も含め「ウスターソース類」とされます。ブルドックやオタフク、カゴメイカリなどの大手の他、「地ソース」ともいわれる地元中心で売られる中小メーカーのものも多くあります。
    
 現在の韓国では日本風とんかつ(돈까스と書くらしい)も人気のようで、日本製ウスターソース類も手に入り、デミグラス系も有りますが日本型ウスターソース類を作っている現地業者も有ります。(ソースは소스と書く)
 「オットゥギ 오뚜기」のソース類ではそれぞれ、とんかつソース、ステーキソース、ウスターソース胡麻とんかつソースのようです https://www.ottogi.co.kr/otgr/product/ProductList.jsp?page_no=2&proHCode=H00002&proMCode=M00012&proGubun=K&catGubun=K
「ロッテ」の缶詰とんかつソースhttps://www.lottefoods.co.kr/product/product_view.asp?seq=316&c1=B0000&c2=&c3=&ct=&schType=&schWord= や「ベックソル 백설」とんかつソースhttp://itempage3.auction.co.kr/DetailView.aspx?itemno=B235021191、紹介 http://bong988.tistory.com/entry/%EB%8F%88%EA%B9%8C%EC%8A%A4-%EC%86%8C%EC%8A%A4-%EC%B6%94%EC%B2%9C-%EB%B0%B1%EC%84%A4-%EB%8F%88%EC%B9%B4%EC%B8%A0-%ED%8A%B9%EC%A0%9C%EC%86%8C%EC%8A%A4 。他にも「チョンジョンウォン 청정원」 http://www.dongwonmall.com/product/detail.do?productId=000594751 (メーカーサイトはこちら http://www.chungjungone.com/brandstory/product/productList.do)。「ブグァン 부광」http://www.jangboja.com/shop/goods/goods_view.php?&goodsno=9110や、「ヘイン 해인」とんかつソース http://food-n.co.kr/goods/view?no=630、(中国製らしい)「チョンウ 청우」http://www.jangboja.com/shop/goods/goods_view.php?goodsno=7683&category=051012004、「スエプォン 쉐프원」 http://www.jangboja.com/shop/goods/goods_view.php?goodsno=7683&category=051012004も売られているようです。
       
 台湾では「烏酢」又は「烏醋」がウスターソースのことを指すらしいです。「工研 烏酢」http://www.kongyen.com.tw/ShopProd.asp?id=69というのが有り、日本では「台湾産 工研 台湾黒酢(中華風ウスターソース)」で売られています。
 「穀盛股份有限公司」の「醇香烏酢」「素食烏酢」もウスターソース http://www.kokumori.com/product02.htmlです。
 日本のウスターソースの影響でつくられたようです。
   
 ウスターソースは中国では上海で作られ、骨付き肉で作られることが多いとんかつ(炸面托排骨、炸猪排)につけて食べ、「辣醬油(喼汁/ソース)」と呼ばれています。「泰康」というブランドが有名で黄牌(イエローラベル)が特級品、蓝牌(ブルーラベル)が一級品だという事です http://item.yhd.com/item/2076750
 輸出ブランドらしい「《桂林牌》梅林辣醬油」https://tw.buy.yahoo.com/gdsale/%E6%A1%82%E6%9E%97%E7%89%8C-%E6%A2%85%E6%9E%97%E8%BE%A3%E9%86%AC%E6%B2%B9-296%E6%AF%AB%E5%8D%87-%E7%93%B6-1502058.html も有ります。
 香港などの他の地域でも販売され、中国料理の味付けや隠し味にも用いられるようです。
 【文史】辣酱油的本地化变迁史 http://www.shobserver.com/news/detail?id=2748によると1860年代にイギリスから入り、19世紀末から20世紀にかけひろまり、1930年には梅林缶詰食品有限会社(当時)が独自のウスターソースを生産します。日本のとんかつやウスターソースの歴史や文化と重なる部分も有り、何らかの影響も考えられます。
     
 ここに書いただけでなく韓国や台湾・中国にも他にもあるでしょうし他の国にもあるかもしれません。
 ウスターソース類の様なスパイス複合ソース・ドレッシングは世界の多くの国にあり、日本のウスターソース類が特別珍しい文化というものでは有りませんが、日本や中国でアジア化した欧米ソース類は食文化の変容として興味深いものです。トマトケチャップやマヨネーズの受容とも重なります。

 タイでもイギリスのリーペリンも多く、同じタイプと思しいタイ製の「Gy-Nguang」http://www.gy-nguang.com/もありますが、たこ焼きが人気でとんかつも有り日本式のウスターソースซอสวูสเตอร์やとんかつソースซอสทงคัตซึも作られ、こちら「GenYFood」https://www.genyfood.com/products.php?ref=do:read/cid:17/tid:56ではとんかつソースとお好み焼きソースと焼きそばソース、他にも「マルケン(○の中に賢)」など複数の現地生産者があるそうです「チェンマイ発信・飲んべえ親父のチェンマイ子育て物語  http://blog.goo.ne.jp/thaisyo1331/e/4a558f9078255168d6c32464061d244d」。
 日系企業「YAMAMORI」もとんかつソース、お好み焼きソース、タコ焼きソース、ウスターソースを販売しているようですhttp://www.yamamoritrading.com/list_seasoning.html
    
 インドネシアでは英国タイプを「kecapInggris ケチャップイングリス」といい(ケチャップという言葉は元は東南アジアで「ソース・たれ」を意味し、その言葉が欧米に伝わり、トマトケチャップというのはそこからアメリカで普及した調味料)「ABC」http://www.sukamart.com/id/food/cooking-baking/sauces/abc-kecap-inggris-195ml.html、「Asia」http://shopmrben.com/index.php?route=product/product&product_id=4021等、一部入っている日本タイプをウスターソースというらしいです。
 
 ブラジルではウスターソースは「MolhoIngles モーリョイングレス(イギリスのソースという意味)」ですが英国風の他にも日本型ウスターソース類も有ります。
 「Mariza」http://www.marizaalimentos.com.br/produtos/index.php?c=39 こちらのメーカにはなんと「Yakissoba」用のソースもあります、「Cepera」http://www.cepera.com.br/produto/molho-ingles-comum-pet-101-litro/、「Quero」こちらも日本型のウスターソースらしいです http://www.quero.com.br/temperos-condimentos/molho-ingles.htm、「Hammer」http://www.hemmer.com.br/molho-ingles-pet-150ml.html 、「Castrohttp://www.armazemcastelo.com.br/index.php?route=product/product&product_id=31 、「Pirata」http://www.vilma.com.br/produtos/molho-ingles-pirata/ 「Sabara」http://aepaa.pt/~a25794/wordpress/?attachment_id=48、「Qualita」http://www.paodeacucar.com.br/produto/116447/molho-ingles-qualita-150ml、「Dajuda」http://www.ciadagula.com.br/molho-ingles-d´ajuda/等多数の生産者がいます。
  
 南アフリカではマギーの作る「レーゼンビー」のウスターソース http://www.nestle.co.za/brands/food/maggilazenby

 オーストラリアだと「ホルブルックスhttp://www.harrisfarm.com.au/products/holbrook-worcestershire-sauce 、「ライオネル・ブランド」等。
    
 他にはオタフクが海外に進出しています、アメリhttp://www.otajoy.com/、中国の大多福食品(青島)有限公司 http://www.daduofu.com/ 現地化した独自のオタフクソ―ス類もあるようです。オタフクではソースを中国では「醤汁」としています。
 アメリカにはキッコーマンUSAのかつソース http://www.kikkomanusa.com/foodservice/products/products_fs_details.php?pf=20403&fam=204もあります。
 中国にはブルドックソース 富留得客(北京)商贸有限公司 https://www.bulldog.co.jp/cn/も。ブルドックではソースを中国語で「沙司」としています。

 リーペリンソースが世界では多く使われ、分類がどうなのかは知りませんが一説にはイギリスで9割、世界でも4割のシェアを占めているともいわれます。
 しかし日本型ウスターソースもそれなりに受け入れられおそらくその国独自の受容をもされています。日本人には「ちょっと違う」と感じる味になっているものもあるでしょう。
 ですが日本のウスターソースもイギリス型から独自の進化をしたものです、同じようにその国の味に合うように変化するのは面白いと思います。
 そこから何か新しい使い方や料理が生み出されるのかもしれないと考えると楽しみです。  
 お好み焼きはなかなか難しいそうですが串カツや日本型とんかつなどのフライものは世界でも通用するかもしれません、日本型のウスターソース類はまだまだ何らかの可能性を秘めているともいえるでしょう。
        
【参考】
「食の日韓論 八田靖史 三五館」
 http://www.amazon.co.jp/dp/4883206556
 
【関連記事】
>新・とんかつの誕生 
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150922/1442901832
   
>市販ソースの味を付けかえる〜「自ソース」のススメ
http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20151220/1450581163