はてなビックリマーク

リテラシーと理解について考える

一汁三菜の正体

 「日本の食事の基本」とされる「一汁三菜」。
 たとえば日本うま味調味料協会では「昔ながらの日本型の食事は、一汁三菜が基本になっています」https://www.umamikyo.gr.jp/recipe/category_01_2.htmlとかかれています。
 他にも「伝統的な食事」「家庭料理の基本」などともいわれることもあり、「昔から続く正しい家庭料理の基本」とも理解されているようです。 
 ご飯と味噌汁、おかず(菜)が三品で漬物が別につくという食事のパターンです。料理書などでも「和食の基本」として扱われることも多くあります。
     
 一汁三菜の歴史と実像を述べてみましょう。
    
 平安時代の貴族の宴会では大饗という数多くの料理を大きなテーブルに並べる中国式の配膳が行われていたことが知られます。
    
 その後室町時代には武士の儀式や供応の料理として銘々膳を用いる本膳料理又は式正(しきしょう)料理が成立します。
 平安末から鎌倉時代初めに書かれた「病草紙 歯の揺らぐ男」で下級官僚らしき人物と脚のない膳又はお盆の「折敷」にご飯と汁とおかずをのせた銘々膳の原型らしきものが描かれ、本膳がその辺りから発展したとも考えられます。
 ひとりひとり個々の「膳」でご飯、汁、菜(おかず)、漬物を食べるスタイルはすでにこのころにはあったといえます。

 本膳料理は複数の足の付いた「膳」に多数の料理を並べ客をもてなす形式です。最初「式三献」という乾杯が行われてから食事がはじまります。
 客の地位が高くなれば多くの膳が並べられ「日本教会史」などによると七膳八汁二三菜又は二四菜や二七菜なども出されていました。しかしこのころの膳の形式としては「四條流包丁書」「包丁聞書」「大草流料理書」などを見ても本膳の一の膳が一汁三菜と定まっていることもなく奇数だけではなく一汁一菜から二菜、四菜、五菜、七菜や湯漬けの場合などもあります。

 当時の日記などを見ると上流階級では数自体は固定的ではないものの複数の汁と菜の膳が出される本膳形式といえるものは広く行われていたようです。
 七五三膳と呼ばれる多くの汁菜を出す本膳が正しい供応とされていたとみられます。
しかし記録の残る織田信長戦国大名などの「本膳」の「一の膳」を見ても「一汁三菜」に固定されているとはいえず、「五器盛り(一つの膳にご飯一汁三菜漬物を並べるとされる)」も標準ではありません。
      
 「一汁三菜」は茶道の料理「懐石」の献立ともされます。
 初めのころの茶道「茶の湯」は茶の飲み比べを競う「闘茶」から高級輸入品の茶器や美術品を鑑賞しながら飲む「書院茶」に移り、15世紀後期の村田珠光から「わび茶」がはじまり武内紹鴎(鴎の字の偏の区の中は「メ」ではなく「品」)を経て千利休で大成されたとします。「禅」の影響を受けています。
    
 「紹鴎門弟への法度」に「会席ハ珍客たりとも茶の湯相応に一汁三菜に過べからざる事」とあるとされますが、この「法度」が武野紹鴎によって述べられたとする根拠はよくわかりません。紹鴎や利休の名の付いた伝書は多くありますがほとんどが本人の作や発言ではないとされます。
 千利休の発言やその当時の記録にも「一汁三菜」という言葉自体は見られません。
   
 一方、武野紹鴎の師、十四屋宗悟の天文6年(1537年)の9月12日の会に一汁三菜の例はあり、天文11年(1542年)堺天王寺宗達の会、弘治元年(1555年)奈良の宋陳の茶会でも一汁三菜の例はあります。
 そして千利休の晩年の天正18年(1590年)から19年にかけての茶会の記録をまとめた「利休百会記」では87会の献立が書かれますが一汁二菜が44会、一汁三菜が32会、二汁一菜が1会、一汁四菜が2会、一汁五菜1会、二菜2会、二汁二菜3会、二汁三菜2会が行われたとされ、弟子の古田織部の茶会では基本的には一汁四菜とされ二汁はないそうです。
 利休の孫の千宗旦一汁二菜が中心で三菜もあり、17世紀中期の片桐石州は「石州一畳半の伝」で「会席一汁二菜に仕う事」とします。
 一汁三菜程度の膳を用いるわび茶そのものはありました。利休の二汁の場合は秀吉などの権力者の客や特別な茶事の際の膳のようです。
   
 ちなみにもともとは茶会のことを「会席」といい、その食事を会席の膳といい、わび茶の会席の膳は本膳の一の膳をもとにしたとされます。
 懐石という言葉の初出は「南方録」とされます。「南方録」は千利休の弟子南坊宗啓の秘伝とされましたが現在では偽書と考えられ、元禄期(1690年)立花実山によって書かれたとされます。その後のわび茶に多くの影響を与えました。
 その南方録に「小座敷の料理は 汁一つ さい二つか三つか 酒もかろくすべし」とあり、同時代の薮内竹心(薮内家は利休の弟弟子からはじまる流派)「源流茶話」にも「いにしへの貴人は二汁三汁に候へとも利休改正により富貴も一汁三菜に限り或ハ一汁二菜 侘ハ一汁一菜にて惣数なれバすき嫌ひ有たくひ忌」ともあります。
    
 紹鴎利休織部のころは一汁三菜は「一汁三菜程度(前後)の料理」とされ、16世紀中頃の千宗旦片桐石州から元禄のころには「一汁三菜までの料理」とされているようです。
   
 近世の茶道も利休織部のわび茶だけではなく大名茶などのより華やかな茶会もありそれらでは一汁三菜とはされません。17世紀の京の高級武士金森宗和や貴族日野資勝などの茶事では複数の膳がでます。わび茶でも一汁三菜だけではなく一菜、二菜の膳も残ります。わび茶では「一汁三菜」という概念はあったものの「程度」か「以下」か「未満」かは人や時代によってちがうようです。
 「懐石」と「会席」も両方使われます。「懐石」を禅の「温石(おんじゃく)」と結び付け「ふところ(懐)を温める石のような軽食」とするのは当て字とこじつけでしょう。
 わび茶では基本的に「一汁三菜」は折敷で出されます。
    
 近世江戸時代に入り安定した社会の中、武士の供応料理の本膳料理も一般化し、庶民の富裕層や宴席でも本膳の形式が取り入れられます。
 江戸時代には本州日本では正式な膳として本膳が認識されていきます(皇室や公家は本膳と多少異なる近世有職料理などが正式に膳とされた)。琉球王朝でも宮廷では本膳形式の膳です(明清の冊封使の供応は中国風料理)。
      
 そして出版も盛んになり料理書も多く出されます「古今料理集 元禄年間(〜1704)まで」では一汁五菜、二汁七菜、三汁十菜(一汁五菜は校異で二汁五菜とも)の例、「料理綱目調味抄 享保15年(1730年)」で「一汁三菜」という単語が「茶事の饗応」として具体的に書かれます、他にも「平人振舞」一汁五菜、「普通の饗応」二汁五菜の膳がありここでも「貴人奉饗」三汁十菜の偶数の菜の例もあります。

 「歌仙の組糸 寛延元年(1748年)」では二汁五菜と二汁七菜と三汁十菜が書かれ「献立せん(草かんむりに全)宝暦10年(1760年)」二汁五菜を「献立大法」とし「一汁三菜」を「茶の会席夜食等の只侘たる献立」とします。
 他にも「萬寶料理献立集 天明5年(1785年)」では「一汁三菜」があり他に一汁五菜、一汁七菜、二汁七菜と三汁七菜御膳大献立、「當流料理献立抄 刊年不明」では二汁五菜を「通例」としながら「一汁三菜」と一汁二菜と三汁十菜もあります。

 「料理早指南 享和元年〜文政5年(1800年〜1822年)」の図では「会席」では一汁四菜、「本膳」では二汁七菜とし、「素人包丁 享和3年〜文政3年(1803年〜1800年)」では一汁五菜と二汁七菜と三汁十菜もあります。
 「精進献立集 文政7年(1824年)」一汁三菜と一汁五菜、二汁五菜或いは七菜九菜もあり漬物を菜に加えたり別に「○汁香物○菜」としたりもします、寺院用ではない民間の精進料理の膳ですが膳のあと肴と菓子が付きます。「魚類精進早見献立集 天保5年(1834年)」にも一汁三菜、一汁五菜、三汁十一菜の膳の例がありこれは吸い物と菓子は別につきます。

 江戸・八百善主人の「料理通 文政5年〜天保6年刊 (1822年〜1835年)」では「茶会席の料理心得え事 会席は二菜三菜に限り」とあります。「料理調菜四季献立集 天保7年(1836年)」は二汁七菜と一汁五菜。「精進魚類四季献立會席料理秘嚢抄 文久3年(1863年)」では「茶事の会席」として「一汁三菜」と取肴か強肴と吸い物。本膳は徐々に偶数の菜の例はなくなり奇数が正式の膳とされます。現在では偶数の菜はないとされますが近世後期以降に定まったといえるでしょう。
 江戸後期の茶事の「一汁三菜」などの膳の後の吸い物や肴の時点では酒が出されます。千家流のわび茶では一汁二菜が基本だったようです。

 一般化、教養化される中で形式が整えられていくようです。
 茶事の会席の一つ「一汁三菜」が本膳や精進の膳に影響を与え通常は二汁五菜乃至は七菜の膳の略式として認識されて行っているといえるでしょうか。
 室町時代の五汁や六汁、二十数菜などといった大仰な膳に比べ簡略化されていたようです、これを「本膳料理」とはわけて「袱紗(帛紗)料理」という場合もあるそうです。
     
 「一汁三菜」は18世紀前半までには確立していた「供応食」つまり「ごちそう」の最低単位だとも考えられます。
 「一の膳」だけの簡素な供応料理を意味するのでしょう。
 「一汁三菜」については「江原恵 江戸料理史・考」67ページに「寛永十七(1640)年1月」に幕府は旗本に対して「今後客に馳走するときには一汁三菜まで、酒は三杯以上飲まないこと」と「禁制を布告」したとしています。
             
 供応や儀礼での正式の膳としては最も簡素なものとしての「一汁三菜」が認識され、菜を奇数出すという約束事が18世紀以降に徐々に認識されてきたようです。
 現在では偶数の菜の膳はないとされますが比較的最近に定まったようです。
      
 奇数を「陽」、偶数を「陰」とし「陽」を良い事とするのは中国の儒教経典「四書五経」の一つ「易経」にみられる思想です。
 朝鮮王朝でも「正式」な配膳は行われ「飯床(パンサン)」といいます。「一汁三菜」は「三楪飯床(サムチョプパンサン)」と呼ばれます。「韓国観光公社http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/FO/FO_JA_3_1_8_3.jsp」「私を磨くテーブルマナー[http://www.table-manners.org/korean/」(参考「韓国の食生活文化の歴史」)
 極東アジアでは「一汁三菜」が最低限の「正しい」膳であるとする共通の認識があったようです。
      
 「和食」と同じく韓国・朝鮮の食事「飯床(ご飯の膳)」もご飯、汁、漬物と菜(おかず)の組み合わせが「基本」です。
 もしかすると日本の「一汁三菜」概念は朝鮮からの影響だとも考えられます。朝鮮は日本より「易経」を重んじていたことが知られます。15世紀以降儒教を重視した朝鮮に比べ日本ではより遅い17世紀以降儒教が注目されました。
 12世紀後半高麗朝後期には菜を奇数とする概念は既に存在していたようです。
        
 庶民などの日常食はどうなのでしょう。 
 幕末のころの風俗を描いた「守貞謾稿」によると京阪でも江戸でも普通の家では一日一度の炊飯でおかず(菜)がつくのは一日に一度味噌汁と合わせても2〜3種の料理、つまり一汁一菜か二菜程度、一食は冷や飯に汁と漬物だけ、一食は粥か湯漬けで食べていたとされます。
 農書などを見ても「飯」と漬物味噌汁程度が普通でおかずを複数食べるのは「贅沢」だとされています。
 都市圏でも大きな商店など多くの人が食事をするところを除いては毎回炊飯もしません。薪や炭などの燃料が高価だったからです。もちろんご飯の「保温」は出来ません。
   
 都市では白米、農村部などでは麦や雑穀や芋・野菜などで増量した「かて飯」と味噌汁、漬物が基本でおかずはよくて一つか二つ程度の「一汁三菜」ではない簡素な食事が日常の食だったとされます、おかずの付かない場合も少なくありません。
 玄米を食べていたという説は玄米を炊くには多くの燃料が必要になるという点と近現代のアジアの「近代化」されていない米食文化圏でも玄米を食べる民族はいないという点から、七分づきの程度の低精白のコメを黒米や玄米といって用いた場合もあったのだろうと考えられます。
 ゼロ分づきの玄米は特殊な「健康食」としてはあったかもしれません。近代化以前の日本は薪などの燃料や草肥の需要が多く、人里に近い多くの山は「はげ山」でした。多くの燃料が必要になる玄米食は消化吸収にも難点があり日常食とは考えられません。
 日常食では「おかず」といっても野菜や豆などの単独の素材を煮るなどした単純なものが多くなります。調理法や味付けのバリエーションは多くありません。
         
 江戸時代には公儀などから百姓などが祭事であっても「一汁三菜」を食べるのは奢侈であると禁令も出たようです。祭りの食でおかずを用いず飯を豪華にしたちらし寿司などが盛んになった理由とされています。
 庶民の祭りなどでの膳では本膳に擬せられる膳が出ますが一汁二菜や四菜、五菜もあり一汁三菜にこだわらないものも多くあります。
   
 上級武士でさえ日常食は「一汁三菜」以下であった例も残っています。江戸後期の10万石の大名で隠居になった真田幸弘の食事記録として残っているものでは朝昼が一汁二菜、夕食は一汁一菜です。
    
 明治の初めごろの調査では日本人の摂る食材は60%程度が米で穀物全体だと80%以上、ほとんどおかずを食べない「ご飯食い」の食文化だったとされます。
 味噌汁と漬物の塩分だけで穀物を大量に食べるのが普通でした。栄養が不足し、現代に比べ体格が小さかったという事は良く知られます。
 「1977年に報告されたアメリカの食生活指針・マクガバンレポートでは「元禄時代以前の日本の食事」を理想とするという話」があるともされますがそれは事実ではありません(http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090728/p1http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090802/p1http://d.hatena.ne.jp/machida77/20090808/p1)。
     
 明治以降では国立国会図書館デジタルコレクションによると一汁三菜の例は「大正5 立志の経路活ける奮闘 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953480/36?viewMode=」に貴人の最低限の質素な膳の例、「明治26 紀堂茶話 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889003/18?viewMode=」「明治42 茶道通解 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860691/43?viewMode=」では懐石の例で後者では三菜以外でも一菜五菜七菜八菜の例も挙げられ当時の懐石では「一汁三菜」が確定されていないこともわかります。

 「昭和3 帝都を顧みて http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269208/164?viewMode= 」では庶民の「贅沢」の限度。ここでは二汁四菜も見られ興味深いです。 
 「明37.2 日本家事調理法 生間正起 六合館[ほか]  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849125/82?viewMode=」「大正13 婦女子の為めに 宮崎為山 米本書店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981643/146?viewMode=」「昭和3 礼儀作法一切の心得 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456958/66?viewMode=」では正式の供応料理の形式として描かれそのころにも最低限の本膳とされいているように読めます。
 「 明33 普通家事教科書 錦織竹香 同文館 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848464/38?viewMode=」では珍しく(誤記かもしれないが)一汁二菜の供応も有り一汁五菜、二汁五菜、三汁七菜もあります。
 本膳形式は昭和以降廃れていったと考えられます。

 一汁三菜は国立国会図書館デジタルコレクションのタイトル検索にはより多くの例があり基本的に儀礼供応食の最低限とされますhttp://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%B8%89%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3庶民の日常食としての「一汁三菜」の例はありません。 「一汁三菜」の概念はありましたが基本的に本膳や懐石や僧房・精進の形式や貴人の食であって「普通の食事」ではありません。
            
 むしろ現実の庶民食であった一汁一菜は粗食や日常食の例が基本で http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%B8%80%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3数多くあり、ここでは一汁二菜は戦前には粗食扱いの事実上一例のみ http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%BA%8C%E8%8F%9C&viewRestricted=0&viewRestricted=2&viewRestricted=3で一菜や三菜に比べ一般的な概念ではないようです、一汁四菜の例はありません。
 「一汁三菜」をごちそうである供応や儀礼の食とし認識していると考えることができます。
       
 「近代料理書の世界(2008年)」によると「料理の枝折 横山順 1902(明治35)」の「三食献立」は「毎朝漬物朝一汁一菜昼一菜夕食は一汁一菜又は一汁二菜を基本」とし「四季毎日三食料理法 安西古満子 1909(明治42)」では「朝は味噌汁のみ、昼は飯と魚か煮物夕に汁もの、煮物または酢の物など一汁一菜から一汁二菜の比較的質素な組合せとなっている」としていて「三食献立及料理法 : 家庭和洋保健食料 秋穂益実 1915(大正4)」も「「飯」「汁」「香物」を基本とし、これに二種の菜が加えられている」としています。
 「家庭実用献立と料理法 西野みよし 1915(大正5)」では「朝食が味噌汁と小皿昼食が深皿や皿など一菜夕食が椀と皿や小皿といった組み合わせで一汁一〜二菜である」で「美味営養経済的家庭料理日々の献立其料理法 村田三郎 1924(大正13)」でも「 毎日の献立は一汁一菜〜二菜で構成され」としています。
 「近代料理書の世界」では「一汁三菜」の例は示されません、「一汁三菜」の家庭日常食の例も有るのかもしれませんがこのころはそれが「基本」とはされてはいないと考えられます。
 戦前は一人一日にご飯を4合食べるのが標準だったとしていてそれほどおかず(菜)が食べられていないといえるでしょう。
 塩辛い漬物などと味噌汁でエネルギー量(カロリー)が高くおいしく、比較的安い穀物や根菜の「ご飯」を多く食べる栄養的にはバランスの良くないそれほど健康的とは言えない食事でした。
   
 日本では昔から魚が食べられていたといわれることも有りますが、戦後の漁業技術の進歩、コールドチェーン・冷蔵冷凍流通の整備までは干物などの加工食を含めてもすべての庶民が日常的に魚貝類を食べることはできませんでした。肉や玉子についてももちろん日常食とは言えないでしょう、戦前だと玉子は一個が現在の価値で言えば数百円ぐらいだそうです。
 「肉じゃが」が一般的に家庭の味おふくろの味になったのも昭和50年代からです。 
    
 他の本も調べてみましょう。 
 基本的には一食ごとの献立を書いた本を「家庭」「献立」などの単語で検索して探しました。
     
 「一汁三菜」を書いてあるのは、どちらかというと日常料理としてはごちそうといえる「日曜日」の「来客」もある献立として書かれた「家庭料理献立集 笹木幸子 北文館出版 大正3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951535」と、「一品づづ離せばお惣菜になります」としていてこれ自体が一食分かわからない「一汁三菜」で書かれた「趣味と実用の日本料理 水町たづ子 婦人之友社 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017778/8?viewMode=」で他に「汁なし三菜」が「現代家事.上の巻 甫守ふみ 晩成館 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942912/942?viewMode=」にあります。
     
 普通家事教科書 錦織竹香 同文館 明33 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848464/37?viewMode=
 実践家政法 山田稲子, 真能まさき 集英堂 明34.11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848379/22?viewMode=
 家政学表解 後藤嘉之, 美島近一郎 六盟館 明38.8 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848273/46?viewMode=
 家政一斑 的場諶之助 (樗渓道人)  尚文堂出版 明34.1 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848264/38?viewMode= 
 衣食住 : 日常生活 山方香峰 実業之日本社 明40.7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848213/249?viewMode=
 一家の経営 池田常太郎 (秋旻) 読売新聞日就社 明44.3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848215/44?viewMode=
 実践家事教授資料 美島近一郎, 中島よし子 光文館 明45.5 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811765/162?viewMode=
 三食献立及料理法 : 家庭和洋保健食料 秋穂益実 東京割烹女学校出版部 大正4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954876/56?viewMode=
 三百六十五日毎日のお惣菜 桜井ちか子 政教社出版 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371
 家庭実用料理 : 衛生経済 稲垣美津 明治出版社 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926985/30?viewMode=
 安価生活割烹法 岩井県 食物療養院 大正6 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955311/31?viewMode=
 家事新教科書. 上巻 石沢吉磨  集成堂 大正8 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942754/101?viewMode=
 家庭日本料理 越智キヨ 六盟館出版 大正11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970354/269?viewMode=
 日用百科知識の華著者新知識研究会 玉井清文堂 大正11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908904/533?viewMode=
 美味しくて経済的な一年中朝昼晩のお惣菜 大日本家庭料理研究会 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913269
 家庭栄養日本料理 越智キヨ 星野書店 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970355/278?viewMode= http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970355/302?viewMode=
 最新家事提要 井上秀子 文光社出版 大正14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016599/111?viewMode=
 栄養 佐伯矩 栄養社 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016744/81?viewMode=
 家事研究大系. 第1巻 (食養篇) 甲斐久子 平凡社 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020381/284?viewMode=
 最新割烹指導書. 前編 家政研究会 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018918/67?viewMode=
 家事研究の手引 池田政子 服部勘太郎出版 昭和3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267107/37?viewMode=  
 標準生活に依る四季の家庭料理著者日本女子大学校家政館 日本女子大学校桜楓会 昭和3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089687
 家事教材研究案. 食物篇 家事教授研究会 編 文光社出版 昭和4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275651/74?viewMode=
 農村家事教育の建設 林勇記 大同館書店 昭和7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280334/88?viewMode=
 中等教育家事新教科書教授資料 奈良女子高等師範学校佐保会編 至誠堂 昭和7 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438782/52?viewMode=
 兵庫県農村部落栄養改善報告 兵庫県警察部衛生課編 兵庫県警察部衛生課 昭和9 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077636/51?viewMode= 
 北海道郷土栄養献立 北海道庁学務課編 北海道聯合教育会 昭和10 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077773
 岩手県栄養指導書 岩手県社会事業協会 岩手県社会事業協会 昭和11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1034701/14?viewMode=
 お惣菜料理 主婦之友社編 主婦之友社 昭和14 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036611/47?viewMode=
 郷土食の研究. 奈良県下副食物之部 食糧報国聯盟本部出版 昭和17 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024508/103?viewMode=
 婦人年鑑 日本婦人新聞社編 日本婦人新聞社 1948 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710386/67?viewMode=
 これらの本では日常食を「一汁三菜」とはしません。
 上にもあるように標準的には朝は一汁香物(漬物)菜なし、昼は汁なし一菜、夜は一汁一菜、汁なし二菜、一汁二菜が多く、「家政一斑 的場諶之助 (樗渓道人)  尚文堂出版」では「常の食は」「一汁二菜よりは決して多くすべからず」ともあり「一汁三菜」をごちそうと認識しています。
 「一汁三菜」を「基本」とする例はあまり見られません。

 「料理書」は実際の日常料理というよりも「このように作るべきだ」という目標を示す「教科書」的な役割を示すことが多いと思われます。現実の家庭料理よりもレベルの高い「凝った」料理が書かれていることが多く、家庭料理調査は少し「見栄」をはって豪華な食事を報告することもあるかもしれません。
 昔の日本は現在よりも格差が大きな社会で農漁村と都市、地方と都会、同じ地域でも階層や職業などにより食生活は異なります。家計に対する食料費の割合を示す「エンゲル係数」が高く、現在よりも食品一般が相対的に高価でした。
 そして当時の「料理書」の読者はおそらく庶民というよりは少し上の生活水準の女性などに向けて書かれたものといえるでしょう。
                
 国立国会図書館デジタルコレクションのタイトル検索で「一汁三菜」を時代ごとに見ると(左下の年代で検索)明治大正は儀礼供応料理が多く、1930年代から栄養面での記事「昭和12 農村地帯食物指導の研究」が出てそれが50年代に続きその頃は栄養改善の目標とされる場合「昭和32 バランスのとれた家庭料理」と「昭和31 料理のスタイルブック」では一汁一菜二菜と三菜が「日本料理」として対等に並べられている場合もあります。

 「婦人生活 昭和60年(1985年)」に「おいしい料理は最高のしつけ「一汁三菜の里の秋」 鈴木登紀子」があり80年代には栄養とともに「素養」とされていることがわかります。90年代には「一汁三菜は日本人の知恵(1992年)」という記事や食物史家の永山久夫氏の「「一汁三菜」の知恵」といったものもあります。
 1999年以降は行政からの発信でも一汁三菜は語られだし、2010年以降は大量に書かれます。
        
 高度経済成長期以降「失われた伝統」としての美化がはじまったのでしょう。
 今世紀に入ってからは特に「一汁三菜は日本の食事の基本」という言説が多くみられるようになっています。
 「一汁三菜」を「基本」とする考えはそれほど古いとは言えない近年の「伝統」です。
  
 雑誌「栄養と料理」は女子栄養大学の創設者である香川昇三と綾により昭和10年に創刊された老舗の月刊誌です。
 こちらのデジタルアーカイブス http://eiyotoryori.jp/から見ることができます。
     
 昭和40年以前では「一汁三菜」にタイトルから検索すると「上田重吉(関西料理自治会、日本料理研究会師範)」「小栗俊雄(金田中調理部主任、日本料理研究会師範)」「田村平治(つきじ料亭主人、日本料理研究会師範)」といった高級日本料理店の料理人による「ごちそう」と明治15年創業の名門料理学校の4代目「赤堀全子(赤堀割烹教場、赤堀割烹学校校長)」の普通は「家」ではしないだろう「土瓶蒸し」もある「ごちそう」になります。
   
 「献立」で検索すると戦前の物は基本的に上記の国会図書館の料理書の献立とはかわりません。「昭和13年(1938年)8月号 一汁一菜主義と其の実際」にみられるように庶民の日常食は一汁一菜ていどの「粗食」が正しい(二菜もあったが)とされています。
 太平洋戦争期には徐々に食料がなくなり、配給食の利用法から甘藷(サツマイモ)中心の食事、「食べられる草」の特集などに代わり昭和20年(1945年)に休刊、21年から再開されますが食糧難が続き、戦後でも代用食が書かれ食糧難の時代が続きました。
     
 昭和23年ごろからは行事食や供応食の献立が少しずつ増えてきます、まともな献立も載りはじめますが「昭和23年9月号、昭和24年8月号」アメリカからの食糧支援の小麦を用いたパンなどの粉食が見られます。もちろんこれらはこの時代の「理想的な食」だと思われますが昭和23〜24年には食料状態が改善しているのも読み取れるでしょう。
 昭和25年には食糧危機は脱したとみられます。形式としては戦前までの朝一汁香物昼汁なし無菜夕一汁一又は二菜程度というパターンが一時「崩れています」。パン食が多くなり朝食に「おかず」が付き始めました。
 昭和27年には栄養改善法が制定され栄養改善普及運動がはじまります。「粗食」を美徳とする時代から栄養を摂ることをすすめる時代になります。
          
 昭和30年(1955年)ごろには昼食でおかずが2品も普通になってきました。「献立表」から「献立カレンダー」「料理カレンダー」などにかわり、付録の表になり、目次から探せます。
 昭和36年までは一部の例外を除き和食メニューでも一汁二菜や汁なし三菜までですが昭和37年ごろから一汁三菜メニューも出てきます。
 「家庭の献立」とされる記事もありますが日常食の夕食で一汁三菜が過度な「贅沢」であるという認識はこのころには薄れてきているようです。昭和40年(1965年)ごろには一汁三菜が「普通」になり朝食でも複数のおかずも珍しくありません。
               
 汁なし三菜や一汁二菜などもあり、一汁三菜と決まったわけでもありませんが十分実現可能なモデルと考えられているといえるでしょう。
 「栄養」を看板とする雑誌なのでおかずを重視しているのでしょうから現実の社会よりは栄養充分なメニューが書かれているという点を考慮しても家庭料理における「一汁三菜」は昭和30年代後半から40年にかけて「可能」とされ始めたと考えられます。
 しかしここまでで「一汁三菜を基本」としているという概念は存在しません。肉の「主菜」野菜の「副菜」の概念はありますが決まった数というものは示されません。
       
 昭和45年(1970年)ごろからは和食の夕食の「一汁三菜」例が多くなります。洋食や中華系の「ボリューム」に対し和食の「手間」の印象が強くなった気もします。しかし一汁二菜、汁なし三菜も少なくはありません。
 「昭和47年10月号 栄養も味もバランスも考えて じょうずな献立の立て方」に「原則的には主となるおかず一品と副となるおかず一、二品、そして汁物という組み合わせが必要です」としていてこのころには現代的な一汁二菜又は三菜が成立していることが読み取れます。
            
 「昭和50年5月号 五月の献立一覧」「昭和50年6月 六月の献立一覧」をみると和食の夕食の場合は一汁二菜か三菜が標準とされているといえます。
 「昭和52年7月号 七月の献立カレンダー」「昭和52年8月 八月の献立カレンダー」などで一日三食プラス弁当も作るという一日に10品近く料理を作るようなものもありました。
 「昭和54年5月号 今年結婚するあなたに贈るわが家の栄養と料理‐献立の立て方」では「夕食献立の基本は一汁二菜」とし、一汁三菜はまだ少し贅沢といえるとも考えられているようです。
         
 昭和55年(1980年)には一汁三菜や汁なし四菜も珍しくありません。このころから飽食についての記事も出てきていてコメ離れを問題にする論調も見られます。
 「昭和56年4月号 経済感覚を生かした献立‐献立を立てることのすすめ」では「主菜副菜副々菜」があり三菜の献立をすすめていました。
 「昭和56年10月号 10月の献立プラン」「昭和56年11月 11月の献立プラン」辺りになると一汁四菜まで出てきています。料理も高度で手間のかかるものも多くなっています。
       
 「昭和61年2月号 組合せ自由自在・主菜&副菜&汁一汁二菜で栄養バランスを」という特集が組まれます。ここでは夕食の最低限の目標として一汁二菜を書きますが朝食、昼食も一汁二菜とするのが珍しいです。
 昭和60年(1985年)以降になると主菜・副菜・汁にプラス副々菜が付くメニューも増え、酢の物和え物や常備菜の小鉢などが付く一汁三菜の形式が多くみられるようになりました。
 これらの「献立表」は毎日毎日異なる料理を作る、材料の使い切りを考えない、観念的な「教科書」です。料理を教え学ぶための方便でもあります。
             
 昭和61年からは「献立カレンダー」は別冊になり見ることはできませんが昭和50年代後半くらいには作者によって異なりますが(献立は署名記事の場合が多く個性もある)和食の場合でもどんぶりや鍋物タイプの献立を除くと一汁二菜、汁なし三菜、一汁三菜それぞれの物があり、ご飯プラス料理や汁が3〜4品作るタイプが基本になります。三菜と確定しているようには見えません。
 ただ洋食メニューでも付け合わせや「前盛り」などとして別の一品料理といえるものも付くようになり、おかず全体の数は増える傾向にあるようです。
            
 「平成元年(1989年)3月号 主菜が2つある献立を考え直す」には「献立の基本は一汁三菜」とあり一汁二菜の洋風献立と一汁三菜和風献立が書かれます。上記の昭和54年から「基本」の二菜が三菜に増えています。
 一つ一つの料理も手の込んだものが多くなり、複数の食材をそろえる必要のある料理も増えます。「そのままで食べられるもの」や「切って出すだけ」のメニューは減ります。
 もともとは栄養改善が目的なのでしょうが、「料理を教える」ことを目的とし、レベルを高く設定することで市場を確保する「料理教育業界」の事情もあるのかもしれません。
 上の「おいしい料理は最高のしつけ「一汁三菜の里の秋」」の鈴木登紀子氏も料理研究家です。
   
 夕食では戦前から戦後すぐの野菜だけの場合もある一汁一菜か二菜、汁なし二菜程度の日常食から昭和30年代(1955年〜)から昭和50年代後半(1980年)までの肉魚の主菜と野菜の副菜の一汁二菜が目標の時代、昭和60年代(1985年)以降の「もう一品」副々菜の小鉢などの付いた「一汁三菜」の標準化とそれを「基本」とする言説の成立がわかります。
 栄養やリスクの分散に役立つおかずの多様化がそれを教える側にとっても要求水準が上がっているといえます、特に「毎日違う汁やおかずを用意する」という「ノルマ」の設定も「献立表から”学ぶ”家庭料理」の刷り込みといえるかもしれません。
      
 中世末から近世に武士などの支配階級で「最低限の供応食」とされた「一汁三菜」と昭和55年(1980年)ごろから家庭料理の「基本」と一部で言われはじめた「一汁三菜」は別の歴史を持ちます。
 日常食における「一汁三菜」と懐石の「一汁三菜」は異なった歴史と文脈を持つものといえるでしょう。
   
 現在の茶道においては「一汁三菜」は草庵式茶事の懐石における基準又は最も簡素なものとされるのですが、実際には一汁三菜「飯」「汁」「向付」「椀盛り(煮物椀)」「焼き物」のあと小吸い物の「箸洗い」や「強肴」「預け鉢」「八寸」「湯桶」などが出されます、現在では膳の時点から酒を出してもよいとされているそうです。朝の茶事では「一汁二菜」になる場合もあります。
 簡略な膳のはずである「懐石」が高級料理の代名詞として使われるのは皮肉なことかもしれません。
 現代では懐石と会席は別の料理とされることが多く、会席は宴席のように扱われることも有ります。
   
 茶事での「一汁三菜」の確定や「懐石」と「会席」の完全な分離といった現在の「懐石料理」の概念も20世紀以降だと考えることができます。
 明治から戦前までの実業家「数寄者」の茶人の近代茶道から戦後の家元制茶道の隆盛に至るなかで「わび茶」の位置づけの変化によるものでしょう。
       
 近代化以前の食と現在の食の違いは設備や材料の違いがあります。
 戦後まで多くの地方では冷蔵庫もガスも電気も水道なく、季節の素材と塩漬け乾物の保存食、そのままでは使えない未加工の素材、不便な流通といった「料理以前」に多くの面倒があります。
 炭を買うか又は薪を集め乾かし割り、水を汲み(江戸では水道もありますが各戸までは来ていません)火をおこし、都市圏を除けば未加工の素材から手間をかけて料理にしなくてはならないのです。当時は服も自家製も多く古くなれば繕い、家事は現在よりもはるかに手間が多いものでした。
      
 農業などの生業で暮らす場合には女性でも日常的な仕事は多く、毎日長い時間をかけて料理をする余裕もありません、「専業主婦」の誕生は大正時代の都市エリートサラリーマンの家庭からだと考えられます。都市では先んじてガスや電気、水道が普及し、「料理をする」余裕も出ます。
 流通もあまり多くなく、季節の素材と保存食以外は手に入れにくく庶民には「料理以前」の作業が大変で、多くの家庭では味噌も漬物も自家製でした。行商人が売りに来るか半日かけて買いに行かなければ魚などは手に入りません。
  
 昔の厨房機器は大変使いにくいものでした、土間にしゃがみこんで料理などをしなければなりません、地方や農漁山村では戦後になってかまどの改善がはじまり、昭和30年代に流し台が普及しはじめ炊飯器も出来、昭和40年代にはガスが普及し冷蔵庫や炊飯器も一般化します。
     
 近世以前にはお盆「折敷」で食事がされ、江戸時代に箱膳という個人のテーブルを兼ねた膳が普及し、明治後半に「ちゃぶ台」が生まれ大正時代から広まりはじめ戦後に普及し、昭和40年代からは椅子を用いるテーブルが一般の家庭でも用いられます。
 ちゃぶ台以前の日本では家族が一つの卓で食事をする「一家団欒」は当たり前ではありません、家族は時間も空間も別々に食事をすることも普通でした。食事は黙ってするもので、日常の食事中に会話をするという文化は一般的ではなかったでしょう。
      
 「家庭料理」というのもそれほど盛んではなく、普通の「主婦」は日常的にはそれほどおかずを多く作る「料理」はしませんでした。中流階級以上の家では料理は「妻の仕事」ではなく使用人の仕事でした。
 明治中期以降「良家の主婦」に家事が求められることになり、「良家の子女」の習い事で「料理」が注目されてきます。村井弦斎の「食道楽(明治36年)」あたりもその嚆矢の一つともいえるでしょう。
 当時の女性としては高学歴だった高等女学校や女子師範学校で家事が必修とされ料理の実習もあり、「婦人」向けの「料理学校」ができ、料理屋並みの料理や洋食などが教えられます。
 家庭用の料理書が盛んに書かれ始めたのもその頃からでした。
       
 大正時代から昭和初期にかけては多くの凝った料理が作れるのは高いステイタスだったといえます。都市圏のエリート「中流階級」の生活スタイルになります。
 インフラ流通の整った都市圏などの高所得者の専業主婦で可能だった新しい食習慣です。そのころ多数だった地方の農家などではありえません。
    
 都市でも何でも手づくりをしていたわけではなく、現在から比べると屋台や露天の店が多く並び、行商などの出来合いものや半製品を用いたり、独身者だと外食に頼るのも現在とは変わらない部分も有ります。「家庭料理」のコストは低いものではありません。
    
 戦後の高度成長とサラリーマン社会「専業主婦」の一般化のなかで戦前のステイタスの高い「良家の子女」出身の「料理研究家」が注目を浴び、テレビや雑誌で凝った「家庭料理」を披露します。男性のプロの料理人たちも「主婦」に対し、指導者としてふるまいます。
 「花嫁修業」の一つとしての料理学校、料理教室も盛んになります。
 戦中戦後に「断絶した」と考えられた「家庭料理」をメディアなどを通じて「学ぶ」という「ストーリー」が作られます。

 流通の進歩、機器の向上で昔から比べると容易になった「家庭料理」を作るのが「主婦」の役割とされ、「家庭料理」が「主婦」の「愛情のバロメーター」として求められます。
 戦前だと祭りのときなどにしか作られなかったような手間のかかる品数の多い料理を日常的に作ることが当たり前のように刷り込まれていきます。
 「料理の先生」は技量を見せ、多くの技術を教えるために多種のおかずを並べるメニューを標準として示します。
    
 昭和30年代まではほとんど「おかず」のないご飯と味噌汁漬物までの食事が基本でしたが昭和40年ごろにはおかずを多く食べる比較的バランスの良い食事が可能になりました(塩分は過多なようですが)。
 コールドチェーン・冷蔵冷凍流通も実現し、安定的に食材が流通します。
 このころに現代の我々が考える「一汁三菜」タイプの多くのおかずの多くある日本食が一般化しました。日本人の体格の向上が進み寿命も延びます。
    
 昭和40年代には家政や料理など「正しい主婦のありかた」を教える「婦人雑誌」が全盛期を迎えました。
 実際は多数派かどうかはわかりませんがそのころ主流になった「(家事)専業主婦」を基準とする「新しい」婦人像が確立します。
 「栄養と料理」はむしろこれらの婦人誌より合理的で開明的な雑誌のはずです。上記「婦人生活 昭和60年(1985年)」にみられるようにそれらの婦人誌などが先行して「一汁三菜を基本」とする言説を唱えていたのでしょう。(「婦人生活」は「戦後四大婦人雑誌」の一つとされていたそうです)

 高度な家庭料理は歴史の上では明治後半以降の都市エリートにはじまり、一般では昭和40年代ぐらいに最盛期を迎えた、近代化された社会の「専業主婦」特有の比較的に新しく短い流行だといえます。
 近代化以前の家庭食は「手に入るもの」の利用法と保存食の作り方戻し方利用法が家庭での「料理」の技術で同じくらいに、不便な厨房器具の使用法が重要だったはずです。おそらく日本の「主婦」の料理の水準は戦後の「専業主婦」が最高であったと考えられます(実態は全員が出来たわけでもないだろうが)。
 日本の家庭料理における「一汁三菜」はその頃に創られた「理想」です。
   
 「昭和の洋食 平成のカフェ飯(2013年)阿古真理」によると「平日の女性全体の家事時間は一九六〇(昭和三十五)年から一九六五(昭和四十)年にかけて十二分減って四時間十四分になったが、一九七〇年には二十三分もふえて史上最長になった」としガスや水道、冷蔵庫炊飯器が普及したにもかかわらず、その分働きにでる主婦と家に留まる専業主婦に分かれ、(主観的には)ステイタスが高いともされた「専業主婦」が「ヒマができると罪悪感が生まれる」ために「主婦業のプロフェッショナル」として高度な家庭料理を目指したとします。
 この本では戦後の「専業主婦」による高度な家庭料理は少なくはない数の女性の願望とメディアの協力・協調によって実現したとしているようです。「一汁三菜」論もそこでうまれた考えでしょう。(1980年には専業主婦の割合は6割を超えていて現在では4割を下回る)

 「伝統的な食事」「家庭料理の基本」としての「一汁三菜」は歴史的にいえば実態はありません。戦後の高度成長により食生活が充実し、昭和40年代に初めて実現された「理想の日常食」です。
 「日本の食の到達点」又は「理想的な食事」とするなら妥当でしょうが、昔から食べられていたものとし、「基本」であるとするのはいささか過剰な表現でしょう。
 「戦後」社会の食生活は日本人の体格を向上させ、平均寿命・健康寿命を大きく伸ばしました。
 しかし「一汁三菜」は栄養的に優れたメニュー構成といえ、語呂が良く、本膳懐石の「伝統」にもあるものですが「昔から食べられていた日常食」ではありません。
 
 農林水産省の「日本の伝統的食文化としての和食 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/wasyoku.html」においても「三菜」の意味についてははっきりと示しません。
   
 「日本の食事の基本」といった高いレベルの要求が行われるようになったのはそのあとです、それまでの日本で毎日内容の違う「一汁三菜」を場合によっては複数回作らなくてはいけないような日常食は一般には存在しません。あったとしても「お金持ち」などのごく一部でしかなかっただろう生活習慣です。
 食堂や旅館で出る定食タイプの整ったお膳は庶民の日常食ではありませんでした。ハレの食であり(日常の)ケの食ではありません。
 世界の多くの国でも日常食は料理数も多くなく、手間もかけないものが普通でしょう。
    
 実際の例としては女優で随筆家の沢村貞子(1908〜1996)の「わたしの献立日記(1988年)」に昭和41年からの献立が書かれます。
 現在でも文庫で売れ続けるロングセラーでその生活スタイルは多くの女性に影響を与えました。近年「沢村貞子の献立日記 (とんぼの本)2012年https://www.amazon.co.jp/dp/4106022362」も出ています。
 その41年ころの夕食の献立ではすでに「一汁三菜」が多くみられます。
 「一汁三菜」という言葉も使われず、定まっているわけではなく一汁一菜二菜などの日もありますがこちらではこのころすでに三菜がそれほど贅沢とはされていないようです。
       
 女優の仕事をしながらのほぼ毎日異なる内容の一汁三菜程度の食事作りが実行され、センスの良い随筆として書かれたこの本も現在の「主婦」の理想の一つといえるかもしれません。 
 ただ、現実にはこの献立日記はもともと買い物を家政婦に頼むために書かれたもので、おそらく洗濯や掃除もある程度は家政婦が行い、子供もいない夫婦二人の暮らしだという点は、頭に入れるべきです。
 それに沢村貞子はその当時0.5%程度だった女子大進学者で(中退しますが)頭の良いお嬢様といえる人で、食にうるさい夫と「料理の本が二十何冊並んでいる(わたしの台所)」凝り性の妻の普通よりレベルの高い食生活だといえるでしょう。書籍化されるほどの「立派」な食生活だと理解されたものです。 
 現在では一菜に数えないような「かまぼこ(当時は高価だった)」や「枝豆」「納豆」の様なものも含めての「三菜」程度です、現在の「一汁三菜」論ほど堅苦しくはありません。
   
 「平成の家族と食〈犀の教室〉(2015年)」の「一汁三菜はどのくらい作られているか」では料理の品数を決めている人の割合が(一汁三菜とは限らないが)23.3%で決めてない人が76.7%(2012年調査)、これは年齢が高い人、調理時間の長い人(おそらく専業主婦など)ほど決めている人の比率が多くなるそうですが現在の家庭でも「一汁三菜」がそれほど多いわけではないという調査が書かれます。これはむしろ妥当な結果といえるでしょう。
 歴史的経緯を見ると「一汁三菜」はごく最近の短い時期の「理想」でしかありません。近代以降戦前では一汁二菜までで、戦後でも可能にはなりましたが一汁三菜に定まった時期は特になく、「基本」というのは何のことかわかりません。
    
 ある意味で「日本の食事の基本」としての「一汁三菜」は昭和50年代以降の「創られた伝統」といえます。
 現実には多くの社会でも「伝統」はそれほど古いものではないとされます、しかし誰かが作ったものでも多くの人々が支持をし、100年くらい続いたものを「伝統」とすることはおかしいとは思いませんが、1980年ごろから言われ始めた極一部の人たちのみの主張で50年にも満たないものを「伝統」として押し付けるのはやりすぎでしょう。
 同時期に創られた「江戸しぐさ」のような個人の作った「偽史」ほどではありませんが、新渡戸稲造によって改変され理想化された「武士道」辺りに近いといえるでしょうか。
        
 近世後期くらいでの本州日本の食文化の現実としては「庶民日常の食としては一日一度だけ一汁一菜程度、近世後期以降の儀礼の膳は二汁五菜が基本」辺りが妥当でしょう。高度成長期以前だと日常食としての「一汁三菜」はごちそうになります。

 茶懐石の概念から最低限の供応・儀礼食とされた「一汁三菜」が戦後理想の食として実現が可能になり、それがもともと食べられていたと誤解されたという事になるでしょう。
 食文化論としての「ご飯と汁と香の物とおかず」という概念を「一汁三菜」と説明することもありますがそれも誤解を招く表現だと思います。
 「伝統的」な供応膳の基本はむしろ「複数の汁と複数の膳のおかずと酒」が妥当です。
    
 近年特に「主婦」に対して要求される事が多く、料理書などでも毎日のように「一汁三菜」を作るのが当然のように書かれます。より現実的に「一汁三菜」を省略する事を認める本もありますが、先進国の中では共働きであっても夫婦での家事育児の男性の分担率が低い日本での「日本の食事の基本」としての「一汁三菜」は女性に対する根拠のないプレッシャーといえるでしょう。
 「良き妻・主婦」であろうとする人やそれを求める家族がいれば「一汁三菜が基本」は要求されるノルマになります。料理はそれ自体が一つの技術体系で使いこなすのは容易ではありません。
      
 現代的な「和食」でも一つ一つはそれほど手間が多い料理ではないでしょうが毎回異なる複数のおかずと汁を用意しないといけないとされると負担は少なくありません。
 和食メニューは品数が多いことが良いとされ、「日本料理」は世界でも多くの器を用いる料理だともいわれます。
 「一汁三菜」の献立を準備するのは買い物や洗い物片付けを除いても毎日一時間ぐらいはかかるでしょう。
             
 前近代に比べ家や共同体での力仕事や作業、手仕事が減り、趣味や余暇などに時間をとれるようになったといえる人も多いだろう男性に比べ手洗いの洗濯や裁縫などの手間の減った分であっても毎日「一汁三菜」を求められる主婦はアンフェアな部分も有ります。昭和後期には主流だった「専業主婦」には可能でも仕事をしている女性には過剰な負担になります。もし目指すのなら「出来合いもの」の利用でも罪悪感を感じる必要はありません。
  
 栄養教育や料理教育を行う側でも「効果・効率」を重視するタイプと「人間教育」を行おうとするタイプがあり、前者は「手抜き」や簡略化を認め、後者は特に多くの手間をかける「女性の役割」を果たす事を重視しているようにも見えます。
     
 現代でも家庭料理に既製品又は「出来合いもの」を料理を用いるのことを「手抜き」だとか「愛情不足」だという意見は根強くあります。仕事を持つ女性に対してもそういった形でのプレッシャーもあるでしょう。
 それに対し男性に対しては昔のように蓑(雨具)や草鞋(履物)を編んだり生活圏のインフラの大工仕事・土木工事などのメンテナンス、味噌づくりや薪割りの代わりの愛情表現を求めることは多くありません。
     
 昔は場合によっては糸から紡ぎ、布を織り、縫い上げ、繕い継ぎ当て、仕立て直して服を作りなおし利用していて、昭和40年代までは家で洋服でも作るのは当たり前で洋裁学校が「花嫁修業」の一つでしたが、現在では既製品の服を買い、ある程度の期間用いてなおして着られるものでも廃棄します。
 毎日用いる衣料ですがこれを「愛情不足」とし家族の危機とする人は少ないでしょう。
   
 現代の実用料理書にあるような簡略な「手抜き」メニューでも近代化以前の庶民の日常食よりおいしく栄養が豊かだともいえます。手間だけが愛情ではありません。
 さすがに「弁当作り」の義務付けは減りましたが、今でも「弁当作り」を美談にしたい人はいます。
 女性に対してだけ家庭料理が「正しく」できないことを「愛情不足」などとするのは不公平で不合理です。 
      
 手間をかけて一から作る料理はおいしく、おいしい家庭料理は心を豊かにします。だからといってノルマにすべきではないでしょう。
 本やテレビなどで見るような高度な「一汁三菜」をつくるのが「当たり前」や「基本」ではありません。
 得意な人には可能でも「基本」とするのは大げさでしょう。それこそ「専業主婦」だからといっても一年365日それを求めるのは大げさです。
 栄養学的には戦後に実現した「理想の和食(日本食)」も比較的には優れた食事ですが、塩分の摂取が多いのが問題で、朝食は手間をかけて作る和食よりも何の手間もいらない「バナナと牛乳」の方が良いとする考えもあります。
         
 食事に重要なものは「おいしさ」と「栄養」そして「たのしさ」であって「数と形式」にこだわる必要はありません。無理をせず食卓がたのしく、中長期的に栄養バランスがとれれば何の問題もないでしょう。
 現代の栄養学では最大一か月単位で栄養バランスが取れれば十分に健康的な生活ができるとされているようです。無理に「一汁三菜」を「毎日」用意する伝統も必要もありません。
 多くの料理を毎日作るのは時間や技術、気力体力が必要になります。得意な方、好んでつくる方には問題はないでしょうが義務として求めるのは過大な場合もあります。
     
 料理好き料理自慢の人がネットや書籍で素敵な「一汁三菜」を披露されていることも有りますが、それをすべての「主婦」が目指すべきだとはいえません。
 「一汁三菜」はもともとは儀礼や茶道、料理店などでの形式であって家庭でそれに縛られる必要はないでしょう。
 一時いわれた旧厚生省のキャンペーン(1985年)「1日30品目」という「目標」も現在では重要とされません。
    
 「一汁三菜を基本とした和食が世界遺産になった」という表現も見かけましたが「世界無形文化遺産登録」になったのは「和食、日本人の伝統的な食文化 ― 正月を例として」であり、季節や祭事毎の様々な儀礼食であって、それが「失われつつある」ことに対する「遺産登録」であり、「和食が優れている」という事ではなく「ユニークな(独自性のある)文化であった」という事を認めたものです。
 地域に残る季節や祭事の「伝統食」を残すことに意義はありますが毎日「一汁三菜」を作るのは「伝統」とは言えないでしょう。
 本州日本では多くの場合、神事の祭礼食を作るのは「伝統的」に男性であったという点も忘れてはいけません。
   
 「日本料理」や「和食」は誇るべき素晴らしい文化です。
 上手く用いれば美味しく健康的な食生活が可能です。
 ありもしない「伝統」を押し付けるより、先人の努力と工夫をより良い方向へ未来に繋げるべきでしょう。

【関連記事】
日本肉食史覚書 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334
郷土料理資料リンク集  http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20131111/1384101904
韓国・朝鮮食文化史入門 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20140822/1408641082 
新・とんかつの誕生 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150922/1442901832
          
【参考】
懐石の研究―わび茶の食礼 筒井紘一

懐石の研究―わび茶の食礼

懐石の研究―わび茶の食礼

日本料理文化史―懐石を中心に 熊倉功夫 翻刻 江戸時代料理本集成
翻刻 江戸時代料理本集成

翻刻 江戸時代料理本集成

台所から戦後が見える 朝日新聞
台所から戦後が見える

台所から戦後が見える

きょうも料理―お料理番組と主婦 葛藤の歴史 山尾美香
きょうも料理―お料理番組と主婦 葛藤の歴史

きょうも料理―お料理番組と主婦 葛藤の歴史

近代料理書の世界 江原絢子 東四柳祥子
近代料理書の世界

近代料理書の世界