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リテラシーと理解について考える

戦前のお好み焼き

 現在では大阪名物ともされるコナモノ大衆食であるお好み焼きの歴史ははっきりとはわかっていません。
 ネット百科事典Wikipediaでも戦前についてはわかっていないとされますhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D#.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E6.A6.82.E7.95.A5
 他に「お好み焼ネット 第1回お好み焼き歴史探訪 http://www.okonomiyaki.to/library1.html」「お好み焼きの歴史 お好み焼き文明開化 オタフクソース http://www.otafuku.co.jp/laboratory/culture/history/his01.html
「 『神戸とお好み焼き』(三宅正弘)http://hietaro.kameo.jp/2015/04/post-960/」も。

 大正時代には既にあったとされる西日本に今もあるソース味の「一銭洋食」や「洋食焼き」又は「にくてん」などと呼ばれるクレープ状の小麦粉生地に具材をのせたものや、(明治時代に誕生したとされる)昭和初期の混ぜ焼きとのせ焼のある東京の「どんどん焼き」から派生したものとされます。現在ではクレープタイプは広島や神戸のものが知られます。
 昭和40年代には企業化と宣伝で大阪で名物とされ脚光を浴びますがその頃には既にいつ、なぜ「お好み焼き」と呼ばれるようになったかはわからなかったようです。
   
 戦前のお好み焼きの資料を見つけたのでここに挙げておきます。
      
 国立国会図書館デジタルコレクション「小資本開業案内 商店界編輯部 誠文堂新光社 昭和14年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262951/206?viewMode=」「お好み燒屋の開業案内」です。

 此の商賣は、もともと子供本位に子供洋食?、ドン/\燒きとして屋臺行商であつたものが(現今でも行商はやつてゐるが)店を構へ大人の客にお好みのものを勝手につくらせるか、またはそこの家の主婦なりがその燒臺の周圍に客を座らせ、いち/\客の好みに應じて手際よく燒いて進ぜる仕組を案出したものである。『商店界』誌上に之を紹介してからといふものは、こゝ三、四年のうちに全國花柳界を中心として、旺んに流行しだした新職業である。お客は大抵が青(下が月ではなく円)年男女で然も粋筋が多いから、場所は叙上の如く殆ど花柳界又は散歩地帯と限られてゐる。お好燒又の名をおたのしみ燒等と稱して看板を掲げて居る家もあるのはこの故である。

 次ページに「ウドン粉」ともあるので現在の「お好み焼き」につながるものなのは間違いないでしょう。具体的な形状はわかりません。
 子供向きの露店屋台のどんどん焼きを昭和初期位に店舗型の大人向きにしたものを「お好み焼」と呼んだとしています。「大人の客にお好みのものを勝手につくらせるか」「いち/\客の好みに應じて」焼くので「お好み」焼となったとみられます。
  
 他にメニューとして「オムレツ」「燒きソバ」「玉子燒」「玉子ソバ」「月見燒」「ビフテキ」「肉パン」「サンドウィッチ」「カツレツ」「あんこ燒」「牛フライ」「餅フライ」「シュウマイ」「ポテト野菜(草かんむりに采)」「よせ鍋」「どら燒」「てつぽう巻」「おしるこ」「イカフライ」「えびフライ」が挙げられています。
 現在では内容のわからないものも有りますが多様な軽食を出していたようです。  
 同一のメニューも多い昭和初期の東京のどんどん焼き屋については池波正太郎が多く書き残しているようです。山形や仙台、岩手、富山では現在も独自に発展したどんどん焼きが残っています。

 屋台や露店と行商形式の店が先行し、そのあと花柳界向けの店舗型の店が流行ったとしています。「こゝ三、四年」以前に『商店界』誌上で紹介したとあり、その内容を確認しないと正確な部分はわからない部分も有りますが、専門誌編集部の『商店界』が全国への「火付け役」「仕掛け人」だと自認しているようです。(『商店界』は1920〜1993にあった商店主や企業経営者向けの専門誌のようで発行者が初期は「商店界社」、のちに「誠文堂商店界社」、「誠文堂新光社」等と変わったらしい。「広告界」でもしられる)実際、「お好み焼き」類の全国への展開は昭和10年ごろから盛んになります。
   
【追記】「商店界」の該当記事は1935年(昭和10年)のおそらく12月号(15巻12号)の目次にある3ページの記事「〔斯んな商賣もある〕二百五十圓で出來るお座敷お好み焼 / 大畑甲子郎/p105〜107」だと思われます(〈注意〉リンク先では記事そのものは読めません)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2250237/86?viewMode=。 

 昭和10年くらいには「お好み焼き」名称と業態が商店界編輯部と誠文堂新光社のある東京圏でも存在しました。昭和初期あたりに「お好み焼き」名称が成立したようです。
 「おたのしみ焼き」という言い方も有ったというのは興味深いです。同時代の重要な証言といえるでしょう。
        
 そして当時の「お好み焼き」の形状としてはこちらに記述が有ります。
 「台所に敗戦はなかった: 戦前・戦後をつなぐ日本食 魚柄 仁之助 青弓社 2015/8/7」の51ページの写真で見つけたのですが、検索するとネットでも挙げられていました。
      
 「昭和15年2月15日発行 節米料理と栄養パンの作方八十種(主婦乃友附録)」の「粉類を使ったご飯代り十五種 お好み焼き」です。http://www.ffml.com/OLD/setumai/1.html

 宅では日曜のお昼食など、こんなものを簡単に焼いて頂きますが、子供達は案外喜びます。
 挽肉が少しありましたら申分ありませんが、それに、葱、椎茸、春雨(微温湯に戻して)などを刻んで混ぜ、そこへメリケン粉を篩い込み、水を加へ、しやもじで
滴してみてたらたらと落ちるくらいの固さに手早く混ぜます。
 これを、よく灼けたフライ鍋に油を引いて平に流し入れ、ホットケーキのやうに焼き上げます。
 御飯代りですから、焼きたてに生姜醤油がしつくりします。

 現在のキャベツ入りではないタイプの「お好み焼き」ですが、この時代には小麦粉でまぜ焼きをするものを指して「お好み焼き」と東京でも認識されていたことが確実だといえます。ウスターソース類も使うものと使わないものが両立していた可能性が有ります、のせ焼とまぜ焼きの両方が有ったとも考えられます。
 最初はある意味ではより多彩な「お好み焼き」があったのでしょう。キャベツやソースが標準になったのはこの後だといえるかもしれません。
   
 明治の東京の下町で生まれたとされる「文字焼き」「もんじゃ焼き」から派生した「どんどん焼き」が昭和初期頃に「お好み焼き」になり、大阪や広島などの「お好み焼き」に育ったと考えられます。同じく「どんどん焼き」系の「洋食焼き」「一銭洋食」「にくてん」を取り込む形でつくられていったのでしょう。
 源流は江戸時代にはあった「麩の焼き」「助惣焼」などの菓子の製法からだと思われます。
   
 「お好み焼き」名称の昭和10年以前の存在と当時の理解、どんどん焼きとの関係、昭和15年ごろのまぜ焼きを確認しました。通説の裏付けになる戦後のキャベツとソースのまぜ焼きお好み焼きへのミッシングリンクの一つが見つかったといえるでしょう。
  
【追記】「「関西風」のルーツは東京だった! 花柳界と切り離せないお好み焼きの黎明期 澁川祐子http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38464?page=4 」に書かれていた昭和6年 柳田国男の「明治大正史・世相篇(明治大正史. 第4巻 世相篇 朝日新聞)」「第二章 食物の個人自由」「七 肉食の新日本式 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1160219/48?viewMode=」に

子供相手の擔ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などゝいふ一品料理の眞似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る。勿論衛生に非常に注意するといふが、彼等の言によれば材料は馬ださうである。小兒が路頭で馬を食ふ時代になつたのである。

があり「お好み焼き」の初出だとされます。昭和6年初頭の本ですから5年以前の存在が確認出来ます。内容はともかく「お好み焼き」名称は大正末から昭和初頭の成立が推定出来ます。

【追記2】大谷晃一の「続 大阪学 (1994)」の「庶民グルメの味 お好み焼き P33〜34」では(「お好み焼き大阪発祥説」をとる本ですが)実体験の記憶として昭和8年頃に水溶き小麦粉を薄く流し焼いた生地の上に干し桜エビ、ネギ、かつお節、青のりといった具材をのせ、その上にまた生地を薄くのせて裏返して焼きソースで食べる「洋食焼き」が有り、その後昭和14年頃に花街近くで卵えびイカ山芋牛肉キャベツ等も入る混ぜ焼きの分厚い「お好み焼き」が存在していたとしていてこの記事との整合性が有ると考えます。

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