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リテラシーと理解について考える

ニセ科学批判批判

 PseuDoctorさんのブログ記事>ダメな「ニセ科学批判批判」と良い「ニセ科学批判批判http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.jp/2012/10/p02-07.htmlを読んでの「感想」です。
 以下の個人的な「感想」は「ピンボケ」で論点があるわけでも無く、噛み合うわけでもないのでトラックバックはしません。
     
    
 個人的には「ニセ科学批判」については支持していながら「ニセ科学批判者」のそれぞれについては批判的な立場です。
 「科学」については肯定していて「科学者個人」については懐疑的な立場になります。
 これが当事者性が有るのか無いのかわからないし、「メタ」なのかどうかは興味が無く、自分の考える「言論の有効性」にしか興味がありません。
 
 はっきり言って現在 「ニセ科学批判者」の相互批判が機能しているとは考えてはいないし、自分の立場が結果的にそれを補完するものであってもよく、「ニセ科学批判者」の「皆さん」から「敵」と見ていただいても別に構いません。
 「科学と言う営み」は全ての人間の為に有ると考えます。(この「人間観」については個人的な理解によるものです)
   
 啓蒙主義的な「べき論」は認めますが個人差の存在も認め、個人個人の「科学思考」「論理思考」の限界は有ると考えます。
 誰であれ「人は間違う」が前提で「知性」の有用性は認めますが「知的選良」の優越性には懐疑的です。
 「知識」という道具が優れているのは事実でしょうが完全な知識を持つ個人は存在せず、場合によっては「見識」の方が役に立つ場合もあると考えます。
 「駄目な教養人」もいるし「無知だがまともな人」もいると考え、教育の有用性は認めますが過大な期待はすべきではないとします。
       
 他者を慮らない自己顕示的な批判や安易な「ポジショントーク」については不快感があります。
 「敵味方」「上下」を示すためだけのの言論については嫌悪感があります。
 「批判する側」が「批判される側」よりその論点以外では優れているとは考えません。
 「自分の知っている」事を知らない人間がさも自分より「人間として劣っている」と見るような言動については評価できません。
        
 「同じ方向性」を向く「論者」の「おかしな言動」を批判しないのは誠実だとは考えません。
 あえて申し上げればある人の何らかの言論を肯定的に言及した場合、「道義的」にはその人が問題のある言動をした際にはその点について何らかの意思表示を行う「べき」であると考えます。
 「善いことを言っている人だから」として躊躇するなら「ニセ科学批判者」としては「当事者性」について問題があるとしか考えられません。「当事者性」について述べるならそこまで負うべきでしょう。
 「批判者」の「当事者性」を問うならそこまで負うべきでしょう。「当事者性」と問うなら「沈黙」は許されません。
 「ニセ科学」的言説は「善いことをたくさん言っている人」の修辞だからです。
        
 多くの人は何らかの形で「正しい側」に立ちたいと考え、そこに立てば「自分自身」が根幹の部分で「正しいと」感じられるもののようです。自分の「正しい」部分に対し評価をされることで別の部分の「正しさ」を確認したりもします。全ての人は何らかの形で「当事者」です。
 言説そのものの各論ではなく「良い事」をしているかを自分の在り方と捉える事が多いはずです。
 自分自身が今その時点でどれだけの「迷信」を信じてしまっているかを確認する手段は有りません。
            
 個人的には「ニセ科学批判」という行為は「現実には」存在しません。便宜的な表現に過ぎません。 「ニセ科学批判」は「事実関係を伝えることの難しさ」についての一つの表出に過ぎないとする立場です。
 必然的な人間の在り方についての一般的な表現に過ぎません。
         
 個人的には「当事者性」があるかどうかは気にしていないので「ダメ」としていただいても構いません。
 「ニセ科学批判”者”批判」を行う側の意見です。