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リテラシーと理解について考える

日本肉食史覚書(下)

>(上)http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614 
      
 寛永13年(1636)年に書かれていたとされ寛永20年(1643)に刊行された(慶長年間に成立説もある)のが
>料理物語 教育社 平野雅章訳

料理物語 (教育社新書―原本現代訳)

料理物語 (教育社新書―原本現代訳)

《「鹿、狸、猪、菟、かわうそ、熊、いぬ」の料理について調理法も含め具体的に記しています。
 野鳥料理も多く、雁、鴨、雉、(山鳥)、鶏については生食も書かれています。》
 江戸時代初期には江戸市中でも武士が野犬を捕らえて食べていたとされます。(落穂集)
  
 現実にはそれまで農耕と共に狩猟採集が食糧生産の重要な柱であったのが江戸時代には農業生産が軌道にのりはじめ農作物を中心とした生活が可能になります。農業技術の進歩と制度の変化は大きな物でした。
 近世以前では特に農業生産は安定的とはいえず、実際には狩猟だけではなく漁労や採集が重要で堅果も日常的に用いられたようです。
           
 それまでは「仕方なく食べていた」「穢れのある」肉食をそれほど必要としない生活になります。
 肉食の忌避は元禄期「生類憐みの令」といわれる一連の政策で完成します。
 本膳や包丁式等の儀礼料理でも鳥の代わりに鯉などの魚が用いられる事も多くなります。
 現実には肉食の減った江戸時代は、日本人の体格を見た場合には最も小柄で、水産物は食べられていたものの動物性の栄養が不足していたとも考えられています。
    
 その中でも海外との交易の窓口として開かれていた長崎では肉食が行われていたとされます。     
長崎奉行のお献立―南蛮食べもの百科 江後迪子 吉川弘文館
長崎奉行のお献立―南蛮食べもの百科

長崎奉行のお献立―南蛮食べもの百科

《のP38には島津重豪薩摩藩主)が明和8年(1771)に長崎で卓袱料理(中国料理)を食べていた記録がありそのメニューに「東坡肉(トンポウロウ)炒豚 肉餡饅頭 火腿(塩漬け豚・中国ハム)」と「鶏のつくり身」らしいものも見えます。
      
 P64には佐賀藩士の「諫早家日記」の記述として元禄4年(1691)に「左太夫」が「豚5斤(3kg)」を佐賀では買えない食材としてわざわざ長崎で入手したとしています。
 「紅毛雑話(1787)」では「猪、野牛、鹿」についての言及があります。(野牛には「やぎ」と振り仮名が)
     
 P173に公文書の「唐通詞会所日録」の記録として元禄5年(1692)「長崎では豚・鶏・家鴨を料理に用いることが多い」「殺生禁断令が出ているので下々にまで徹底するよう町年寄にいいきかせるよう」と書かれていて恐らく江戸時代を通じて肉食が行われていたと考える事が出来ます。
 
 後、この本で面白い記述としては玉子(鶏卵)についての話があります。
 玉子も古代には食べられていましたが肉食禁断の流れでタブー視され、長い間食べられていなかったそうですが、戦国時代にポルトガル人が玉子を用いた菓子等を持ち込み、江戸時代には再び食品として公に認められるようになったとしています。しかし今の日本人の様に生卵を食べるのは普通ではありませんでした。
     
 通説としては生卵を用いる「玉子御飯」は一般には岸田吟香(画家岸田劉生の父で記者・実業家)が明治5年頃広めたともされますが、1838年武家の献立に「生玉子」の記述があるそうです。
 少なくとも明治時代までは「生玉子御飯」は一般的な日本人の食生活ではなかったようです。》
 「常世の長鳴鳥」「時告げ鳥」として肉食禁断の対象とされた鶏・ニワトリも玉子が再び食べられた頃から徐々に食用ともされたとみられます。
  
 江戸の有名な料理人、八百善の(四代目)栗山善四郎も長崎で卓袱を学びますが、少なくとも正式な形では江戸には豚肉料理を持ち込んでいません。(江戸流行料理通 四編 天保6年 1835)「会席しつぽく趣向帳(卓袱会席趣向帳)」(1771)では肉料理は無く「新編異国料理」(1861)でも肉料理には触れていますが長崎以外では作られたとはしません。
              
>図説江戸料理事典 松下幸子 柏書房
図説 江戸料理事典

図説 江戸料理事典

《ではP3、4「黒白精味集 下巻」延享3年(1746)の記述として「肉食の類」「鹿、猪、かもしか、狸、狐、豚、兎、狼、赤犬、牛、鼠、蛇、蛙、柳の虫、臭木の虫、百足、いなご」とあります。これだと「薬食い」のようです。
 豚について「皮を賞味する也、毛焼きしてわらにてよく摺り、小口より作り用う、」として差身、汁、吸物、煮物などの料理にするとも書かれているとされます。この「差身」が「生」なのかはわかりません。これは普通の料理とも読み取れます。
        
 江戸中期の大奥御膳所合食禁食べ合わせ)「公厨食禁」にも「四足の肉也」と注を付けたあぶり肉や牛肉についての記述も有るとします。
          
 他にも桑名藩士・渡部平太夫の「桑名日記」天保10年(1859)に牛肉食の記述が見られます。》
        
>江漢西遊日記 司馬江漢 平凡社東洋文庫 芳賀徹 太田理恵子 
江漢西遊日記 (東洋文庫)

江漢西遊日記 (東洋文庫)

天明8年(1794)の長崎旅行の記事には 
 P117 10月26日「宿に帰りて生の牛肉を食ふ味わい鴨の如し」
 P119 10月28日「惣て此長崎の寺々はとかく妾を招(抱)へ肉食などを恒とす」
 P121 11月5日「 此浦上と云処はヤギ、豕(ぶた)、ニハ鳥を飼売る物なり」
    11月6日「 ヤギ、小鳥を焼て、ボウトルを付食ふ 飯のさい(菜)ヤギに油醤を付け焼く」
 P123 「牛肉をクウベイスと云い」 
 とあり長崎の肉食が一般的であったことが確認できます。
 牛肉や鴨の生食にも言及があります。司馬江漢は鹿の生き血を飲んで周囲から気味悪がられてもいますのでこれが一般的なのかはわかりません。》
     
 ここでもヤギについての言及が有りますが、現在でも長崎には中国か韓半島から持ち込まれた、所謂土着品種の「芝山羊」が存在しています。
    
>人と動物の日本史1動物の考古学 西本豊弘編 吉川弘文館
人と動物の日本史 1 (1) 動物の考古学

人と動物の日本史 1 (1) 動物の考古学

《「肉食の変遷 鵜澤和宏」にも広島で管茶山が天明2年(1788)に豚について漢詩を書き、橘南渓が「東西遊記」寛政7年(1795)で同じく広島で豚を見たと書いています。「京などに犬のごとくある家々軒下に多し 形牛の小さきがごとくの肥えふくれて色黒く毛はげてふつつかなるものなり」とあります。珍しい物としながらも広島には豚が居たと考えられます。*1
        
 他にも中世広島の草戸千軒町遺跡で食用とされた犬の骨が見つかっています。
 「イヌと日本人 西本豊弘」にも江戸中期吉宗の時代に犬を食べる「犬寄合い」が江戸城下の武士の間に有ったともされています。
 武家屋敷の犬の骨については鷹の餌の可能性も有りますが、都市民衆の間では犬が食べられていたのも間違いないでしょう。》
   
 他にもよく知られる話では江戸前期から彦根井伊家では「黄牛」と呼ばれる赤牛又は赤斑牛(というのも建前らしい)の味噌漬け等を将軍や老中・大名に贈答品としていた事が知られます。(黄牛が許されるのは、釈尊スジャータという娘に黄牛の乳粥をふるまわれた後、悟りを開いたとされる「こじ付け」からという事らしいです)
彦根藩と牛肉 彦根市http://www.city.hikone.shiga.jp/shiminkyoseibu/jinkenseisaku/yukidoke/No34/gyuniku.html 
 それ以外の立場でも忠臣蔵で知られる大石内蔵助堀部弥兵衛堀部安兵衛の義父)に牛肉を送ったエピソードもあるので何らかのコネさえあれば?手に入れる事も可能だったと考えられます。元禄時代であっても一部では牛肉食が可能であったとするべきでしょう。
     
 詳細はわかりませんが元禄期にでも西日本では牛肉が売られたという話も有ります。
 「明治大正期の食肉産業と被差別部落 本郷浩二」http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0159-02.pdf(PDFです注意)によると「兵庫県畜産誌(1912)」乃至は「兵庫県之畜産(1921)にあるそうですが典拠はわかりません。
 これは「長野・信州の食を考える 郷土出版社」の「信州の長寿と食習慣食事 近代以前の食肉習慣 唐沢豊(現信州大農学部学部長) P32」によると「兵庫県播磨国印南郡志方では、元禄年間に肉食のため牛を屠殺していたとの記録がある。牛肉は細く切って煮てから縄にさして乾燥し各所で販売した。このためここでは年に300〜400頭殺した」とある記事でしょうか。
 「産業化」とまではいかないもののそれ以前から流通していた可能性も有ります。
 
 上の本によると信州では天明飢饉、天保飢饉をきっかけに馬肉が食されたともされます。中世には馬肉には毒があるといわれたそうです。
         
 19世紀にはいった頃から江戸では「ももんじ屋」といわれる獣肉料理店・販売店が見られるようになります。
 猪(山鯨・ぼたん)、鹿(もみじ)、馬(さくら)から熊や猿や兎・狸等から既に飼育されていた豚、一部では牛もあったとされます。
 文化5年(1808)の「江戸町触(えどまちぶれ)」には獣肉店がすでに50店記載されているそうです。
       
>食肉の部落史 のびしょうじ 明石書店
食肉の部落史

食肉の部落史

《この本では一般的であった中世の食肉と共に近世(江戸時代)末期の多くは19世紀以降の食肉の実態にも触れます。
 関東や中部の少なくとも一部の農村でも牛肉が特に 問題視されずに「消費」され「肉食文化」の指標とされる肉の部位の指定や内臓の利用もされていたことを史料で示します。
 大阪の屠畜を行う被差別部落では産業として牛馬の解体が行われ、一般の客に対しても肉の販売がされていたという事実を明らかにします。西日本の幾つもの地域で内臓肉も含め細かく処理をされ食用とされ販売も行われていたとしています。
 この本では比較的広範囲に行商で売られたとしていますが、個人的な考えとしては特定の顧客層「お得意さん」がいて限定的な集団や個人のみが消費していた可能性が高いと思います。
         
 特に江戸時代中期以降は「牛馬」が特に「穢れ」の対象とされ、身分制度との組み合わせから差別に結びつきます。(これは個人的な見解としては「牛馬」を「輪廻による人間の生まれ変わり」の対象と認識したのかとも考えます)
        
 幾らかナイーブな政治的な見解も有りますが興味深い本です。》
>のびしょうじ『食肉の部落史』を読む 寺木伸明(桃山学院大学)
http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_19_3.htm
  
 中世の「神祇道服忌令秘抄」には「四足物食用之事。鹿猪猿狐里犬ハ七十日憚之。合火ハ五十日。又合火ハ卅日也。此日限神社へ參詣スベカラズ。」とあるそうで、肉食をしても期間限定の「穢れ」であるともみえます。
 これは共食や祭礼等の前の限定期間のみの禁令だと考られていたといえます。
 諏訪大社が「鹿食免(かじきめん)」という狩猟許可(免罪符)を発行し、「鹿食箸」という専用の箸での鹿肉食が認められていました。一部ではそれこそ「お祓い」さえすれば「穢れ」が落ちると考えられるような形のタブーでもあったといえます。
    
>焼肉の文化史 佐々木道雄 明石書店
焼肉の文化史

焼肉の文化史

>焼肉の誕生 佐々木道雄 雄山閣 (生活文化史選書)
焼肉の誕生 (生活文化史選書)

焼肉の誕生 (生活文化史選書)

《この本については前に書きましたが>http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20110812/1313118183 のびしょうじ氏の研究をも引き継ぎ、日本の肉食史について研究をすすめます。
 少なくとも近世末期からは内臓肉も流通をはじめ戦前には特に都市スラムや貧困者、被差別集団では一般に食べられていて、「無駄」にはされていなかったという点を明らかにします。
 近代肉食史については現在の基本的な研究です。
         
 山村や農村でも狩猟獣が食用とされ、一部では好んで内蔵も含めた生肉食が行われたとしています。
 本州日本人の生肉食は古代から延々と続いていたとも考えられます。犬肉食も高度経済成長までは一部では存在したとしています。》
  
 本州の日本人の一部が生肉食を「伝統的」に好んでいたという傾向は否定できないと考えます。
 当時は冷蔵設備も無いため生肉は極新鮮な内に食べていた筈ですが、だからといって安全とはいえなかったでしょう。
 ただ、腸管出血性大腸菌カンピロバクター・肝炎ウィルス等の問題が明らかな現代とは異なる状況です。
   
 近代においても九州等では肉の生食文化があった事も知られます。大正後期から昭和初期にかけてとされる記録があります。
 「聞き書 日本の食事 農文協」全集では例えば鶏の笹身の刺身が「鹿児島 大隈シラス台地 P224」「佐賀 有田P252」に、鶏全体だと「鹿児島 北薩摩農耕士族 P127」「宮崎 都城盆地 P261」。他に猪の刺身が「鹿児島 霧島山麓 P177」、兎の刺身が「佐賀 多良山麓 P303」、猪の血を飲む事例が「宮崎 米良山地 P139」に有り、「生食志向」が戦前の日本にも有ったと考える事は出来ます。
 狩猟者の内臓生肉食の事例は現代でもみられます。
    
>夜食の文化誌 (青弓社ライブラリー) 西村大志
夜食の文化誌 (青弓社ライブラリー)

夜食の文化誌 (青弓社ライブラリー)

《の「路地裏の夜食史」には戦前の都市スラムでの臓物料理にふれた記述があります。》
   
>食道楽(下) 村井弦斎 岩波文庫 (明治36年
食道楽 (下) (岩波文庫)

食道楽 (下) (岩波文庫)

《明治時代のベストセラー「食道楽」においても肉屋に注文さえすれば脳やレバー等内臓肉の入手が可能だと書かれています。》
      
>歴史のなかの米と肉―食物と天皇・差別 原田信男(平凡社ライブラリー)
歴史のなかの米と肉 (平凡社ライブラリー)

歴史のなかの米と肉 (平凡社ライブラリー)

>江戸の食生活 原田信男 岩波現代文庫
江戸の食生活 (岩波現代文庫)

江戸の食生活 (岩波現代文庫)

《食文化史の第一人者の重要な肉食研究です。「歴史のなかの米と肉」では本来対立する物ではなかった米と肉が政治的な理由と仏教や「神道系」の「穢れ」感と結びつき、肉食が差別を生み出しつつタブーとされた歴史を明らかにします。
        
 その後の研究と氏の肉食史の総決算として「江戸の食生活」の中に「肉食の実態と供給」があります。
 仙台伊達家の橘川房常の「料理集」享保18年(1733)にも牛肉料理(粕漬け、本汁)に用いる事があります。(150日穢れるとする)
 ここにも貝原益軒の「大和本草」宝永5年(1708)に豚の記述として「長崎に多く養ひ、殺して異国人に売る」とあるそうです。
  
 P39では「喜多村信節( 江戸後期の国学者考証学者)は「嬉遊笑覧」で肉を扱い獣肉店が寛文〜延宝期頃(1661〜1681)を境に消滅したという考証」をしていると書きます。元禄時代よりも前に表立った肉食は憚られる様になったとしています。》
   
 この記事は基本的にこれらの原田信男氏の研究を基本に補足する形で書いています。
 原田氏は幾らか懐古的な感覚を持つ方なので見解の異なる部分もあります。
   
 日本の肉食史について述べる場合に複雑にしている部分としては奈良時代以降の仏教的な肉食禁断の建前とそれから生まれた所謂「神道」的な穢れ感、それから来る京の「貴族」的な文化資本としての在り方。
 そして食糧生産を前提とした現実。家畜である牛馬や豚山羊と基本的に猟獣である犬猿や鹿猪類と、扱いの変わる鳥類という「肉食」でありながらタブーの在り方との異なる多様な「食文化」が時代や地域だけではなく階層や職能集団で異なる扱いを受け、「日本」という枠組みでは把握しにくい点があります。
 何をもって「日本には肉食が無かった」とするか「肉食は存在した」とするかについてのはっきりとした線引きが困難な点があります。
 「一生肉食をしない」人が多数派の時代もあり少数派の時代もある。
 基本的にはある種の肉食はタブーであるものの理由があれば影では存在した。
 「日本肉食史」を述べる場合には「それがあった」事と「それが普通であった」という点の違いが難しい部分です。
   
 恐らく近世の肉食は建前としてはタブーでありながら一部では間違いなく存在していたのでしょう。
 これは現在の「性風俗」に近い形で、ある集団の特に男性の中では当たり前のように「悪い遊び」的な形で容認され、「真面目な連中は関わらない」娯楽で「一生関わらない」し、明治時代に問題視された様に「表通りで行う」のは真面目な宗教者・道徳人や「堅気の女性」には耐えられない「不道徳」な事とされてきました。
 所謂「薬食い」の中にも「養老食」や「強精剤」「回春食」的な意味での文字通り「ホルモン」的な消費も考えられます。
 今の比較的「均一化した」日本社会でも表と裏で受け取り方の異なる「文化」は多くあります。
        
 江戸後期は実際多くの地域では肉食が完全にタブー視されていた事も事実です。
 実際に多くの地域では「穢れ」とされていたのも現実でしょう。
        
 江戸時代には本来禁止されていた僧侶の飲酒が「般若湯」等といわれ影で行われ、(認められる)浄土真宗系以外でも一部では「大黒(室町後期から)」「梵妻(江戸後半)」と呼ばれる妻帯もあったとされるように「規範」の建前と現実には乖離があったとするべきでしょう。
 差別とも結びつく肉食についての事実関係の確認は簡単ではありません。
 現在でも肉食・生肉食・内臓生食については嫌悪や逆に「自分の文化の否定」といった感情的な前提が対話の障害になります。
 肉を食べるのが「良い悪い」といった感覚的なバイアスのある発言になりやすいです。
 批判する側にも「生理的な嫌悪感」や「殺生に対する罪悪視」や「差別」の前提が有る場合もあります。
       
 肉食は「有った」とも「無かった」ともいえるでしょう。文化史は難しいです。
 「内臓の生食」も一般ではありませんが「志向」としては持続的に存在したとも考えられます。
 
>(補足)http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120618

*1:追記:豚は労働をさせる役獣として飼われる事は無く、愛玩用の可能性も低いので基本的には食肉用とされます