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リテラシーと理解について考える

宮入貝 自然と農業

 個人的には「自然」に見える様な風景が好きです。「自然派」と云われる事に異論はありません。「自然な農業」には魅力を感じます。
 田園風景でも水路がコンクリートで敷き詰められ田圃に薬剤が撒かれている状態を見ると何か寂しい気持ちにもなります。
    
 ある地域で小さな生き物が人間の手で「滅ぼされました」。
 人を襲うわけでもなく作物を荒らすわけでもなく「なんの罪も無い」小さな貝です。
  
 山陽地方のある農村地域では「感染」すれば先ず手足がかぶれ、発病すれば食事をしても栄養を得ることが困難になり痩せ細り腹部のみが膨れていき、苦しんで死に至る恐ろしい「風土病」がありました。幼い時期に発病すれば成長が止まり長くは生きられません。
  
 他の地域から来た人もそこで暮らしているとその病に罹ることも有り、当時は原因もわからず人々の恐怖と苦しみは想像を絶するものだったでしょう。
 当時は「うるしかぶれ」等とも呼ばれましたが漆と関係の無い人にも発生していました。
    
 江戸時代の末の漢方医・藤井好直は生涯をかけてその病に立ち向かい、その地の名を取り「片山記」弘化4年(1847)という書物を書き残し「片山病」と名づけますが原因も治療方法の解明にも至らず明治28年(1895)失意のうちに世を去ります。
    
 明治に入ってから山梨県の特定の地域で「水腫病・腹水病」といわれる風土病が大きな問題になります。
 古くから知られた風土病で地域では差別にもつながり、やむを得ずその地に嫁に来るような場合は死を覚悟したともいわれます。江戸時代初期には成立していた甲陽軍鑑にも記載があるそうです。
 「〇〇(地名)に嫁に行くなら,買ってやるぞぇ経かたびらに棺桶」
 「嫁にはいやよ〇〇(地名)は。〇〇水飲むつらさよ」
 「〇〇(地名)に嫁に行くなら,背負って行け棺桶を」とも謡われたそうです。

  
 地域では幾つもの村落でその頃は政府から基本的には認められていなかった離村移住も検討され、苦しむ人々からの訴えを受けた医師らが原因の究明に乗り出し、飲料水も調べられ鉱毒も疑われますが原因の特定には至りません。
 原因不明の死病として恐れられますが当時の医療では手が出せません。
  
 当時は遺体解剖も亡骸を傷つけるものとして行われることは稀でした。
 しかしその時代にもかかわらず明治30年(1897)ある女性患者が死後自身の体を遺体解剖し原因究明につなげて欲しいと申し出ます。
 遺体の臓器からは幾つもの寄生虫が見つかります。
 ですが病気との直接的な関係は明らかにされません。
  
 明治37年(1904)になり山梨の謎の病が「片山病」等と呼ばれる風土病と同じものではないかと繋がります。
 患者らからの検便からの調査でも寄生虫の関与が考えられますが確証は得られません。
 風土病は人間だけではなく牛馬や犬猫も罹ることが知られていました。飼猫や犬が解剖され遂にその寄生虫が特定されます。
 山梨の患者や「片山病」の患者から見つかった寄生虫と同じものでした。「日本住血吸虫」と名付けられます。
 同じ病気が中国などでも古くから知られていましたが、原因が最初に発見された地である日本に因んで「日本」と名付けられました。
  
 明治40年(1907)感染経路が特定されます。人間や他の動物が寄生虫の幼虫の生息する水に入ると皮膚から直接侵入してくることが分かりました。
 田植え等で水に触れる場合がある人や動物が気づかない内に水中に生息する眼に見えない小さな虫がもぐり込んでくるのです。
  
 皮膚から侵入した住血吸虫は血液中で成長・産卵をします。肝臓や脳などの血管で炎症等を起こし肝硬変や脳障害にもつながり、腹水によって腹部も腫れ最後には死に至ります。
    
 大正2年(1913)住血吸虫の生態が明らかになります。
 山梨や山陽と同じく住血吸虫の被害に苦しんだ九州筑後川中流域において淡水性の貝が感染を媒介する事が確認されます。
「宮入貝(ミヤイリガイ)」と呼ばれる小さな貝の中で数千匹の住血吸虫が成長し幼虫となり水中に広がることが証明されました。(貝には何の利益もありません)
 治療薬が見つかるには大正12年まで掛かり、副作用をコントロールでき薬が実際に使用されるのは昭和2年になります。副作用もあり当時は高価な治療薬でした。
 しかも治療しても幼虫に接触すれば何度でも感染し、その度に障害が蓄積します。
  
 戦後になり「中間宿主」となる宮入貝の「撲滅」が行われました。水路が貝の生息に適さないコンクリートで敷き詰められ殺貝剤や石灰が撒かれました。生息地の沼が埋め立てられたりもしました。自衛隊警察予備隊当時らしい)の協力を得て訓練の名目で火炎放射器を用いて貝を焼き払うこともあったそうです。

 他の自然要因等も有りましたが宮入貝は山梨・利根川流域・山陽・九州で「撲滅」されます。
 下水道の完備や堆肥の管理や使用の改善もあり日本では「日本住血吸虫」は撲滅されました。
 利根川流域では昭和46年(1971)、広島では昭和51年(1976)から感染は確認されず、山梨県では平成8年(1996)、九州筑後川流域では平成12年(2000)に終息宣言が出されます。
 当然その地では川や池等の「自然」の淡水での水泳や水遊びが長くタブーとされてきました(塩素消毒に効果がありプールでは感染しない)。
 家族を守るために子供の田植えの手伝いも避けられていました。
 
 九州久留米には「宮入貝供養碑」が建てられました、「人間社会を守るため、人為的に絶滅に至らされた宮入貝をここに供養する」と刻まれているそうです。
 有史以前から日本に住み、寄生虫に利用されず人類の進歩と水田稲作農耕の発展によって人間との利害の対立がなければ「自然」の一部として存在し得た命です。
 現在日本では宮入貝は山梨などの一部で少数が生息していますが監視事業が引き続き行われており、現時点で感染は見つからず国内で住血吸虫の心配は無いとされています。

 宮入貝と生息条件と重なる環境にいる為ホタルもその辺りでは見ることは無いそうです。
   
 日本では解決した住血吸虫の問題は中国や東南アジア、アフリカや中南米では現在でも大きな被害をもたらしています。
 中国・フィリピン・インドネシアでは日本住血吸虫、中東からアフリカにかけてはビルハルツ住血吸虫、北部アフリカ・アラビア半島中南米ではマンソン住血吸虫症、他にもメコン住血吸虫やインターカラーツム住血吸虫等が今現在惨禍をもたらしています。
 その他の住血吸虫類も淡水の貝を中間宿主として成長します。
 貝の「撲滅」に成功し住血吸虫の害を押さえ込めたのは日本だけのようです。
 住血吸虫を原因とする「感染症」は現在でも世界で2億人が罹患し、毎年2万人が死亡しているそうです。
 マラリアに次ぐ重大な健康上の問題とされています。海外に行かれる方は気をつけてください。川や池や田の水に素肌をつけるだけで感染します。
  
 この話を読んだのは小林照幸氏の「死の貝」という本です。
 残念ながら現在では絶版になっています。公衆衛生と自然や農業についての入門書として良い本だと思うので文庫にでもならないものかと考えます。
   
 (参考)
 むしの無視できないむしのはなし TOP
 http://www3.wind.ne.jp/toccha/mushi/musi-1.htm
 むしの無視できないむしのはなし 日本住血吸虫症撲滅の記録 その1〜
 http://www3.wind.ne.jp/toccha/mushi/mushi_link/mushi_10.html
   
 和うるし日記「漆かぶれ」と「未知の不安」
 http://waurusi.sblo.jp/article/12985631.html
 国立感染症研究所感染症情報センター 住血吸虫症
 http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k06/k06_41/k06_41.html
 宮入慶之助記念館   
 http://www5.ocn.ne.jp/~miyairi/miyairi01-1.htm
 「日本住血吸虫感染経路実験地の碑」建立について
http://www.ibaraisikai.or.jp/information/ronbun/Dr_Morimoto/morimoto.html 
   
 「自然」は人間に都合の良い物ばかりではありません。残念ですが気持ち良い事ばかりが「自然」では無いのでしょう。
 多くの先人の苦労を忘れずに折り合いをつけるしか無いのでしょう。「自然な農業」は簡単ではありません。
 予定調和が通じるイノセントな「物語」は現実には無く、都合の良い「物語」は人の「夢」の中でしか見ることは出来ません。